19 旅路
南への旅路は意外なほど快適だった。
北の領地を出たのは冬の終わりだったのだが、南へ向けて三日も走れば、雪などもう、どこにも見えなくなった。
白い山脈は遠ざかり、代わりになだらかな丘陵があちこちに現れる。丘は柔らかな緑を纏い始めていた。
吹く風にはかすかに花の香りが漂う。
「ここら辺はもう春なのだわ……」
レイフェリアはずっと馬車の中である。
──そろそろ馬に乗せてもらえないかしら?
これではせっかくスカートではなく、男物の足通しをはき、勇んで旅立った意味がない。
街道はよく整備されていて、今まで立ち寄った町や村の治安はそう悪くないように見える。南の馬たちも興味深い。彼らは体が大きいが人懐こく、レイフェリアが触れるのを嫌がらなかった。
それほど急がないのなら、少しずつでも乗馬を練習させて欲しいと思う。いつまでも馬車に揺られているのはつまらないとレイフェリアは思った。
──幸い予備の馬が一頭いるのだから、少しずつでも慣れさせてもらえると嬉しいのだけど。
しかし、わがままな娘だと思われるのも嫌だったので、レイフェリアは今日も大人しく馬車の後部座席に収まっている。
出立以来ティガールとは一度も話をしていない。
彼が自分のことを好いているとは思えないが、特に嫌われてもいないと思う。それはレイフェリアも同じようなものである。人間としては信頼できると思うのだが、異性としては彼の不遜な態度もあって、なんだか壁のようなものを感じるのだ。
一応花嫁候補という立場なのだから、少しくらいは今後のことを聞いておきたいと思うのだが、宿についても顔を合わすのは精々食事の時だけで、周りには大勢の人間がいるから立ち入ったことを聞くのは憚られる。
かといって、部屋を尋ねることもできない。春に商売をする商人たちでどこの宿場も混んでいるから、部屋は取っても個室という贅沢はできなくて、レイフェリアはルーシーと、ティガールは従者の誰かと一緒だ。だからここでもゆっくり話はできないのだった。
そういう訳で、レイフェリアは彼と二人で話をすることを諦めてしまった。
花嫁候補といっても、恋愛関係にあるわけじゃないのだからと自分を納得させたのだ。そう考えると、もやもやしていたものが楽になった。ティガールがたまに視線を向けてきても、あっさり躱すことができる。表面上は微笑んでいるのだから、愛想を悪くしているわけでもない。
それから服装も少し気を使うようにした。
要は、普通の娘らしくしていれば無難だろうと考えたのだ。あまりに粗末な格好をしていては、ティガールの沽券にも関わると思ったからである。
出立してから三泊目の朝。レイフェリアがいつもの男ものの服から、地味ながらスカート姿になって、後頭できつく括っていた髪をおろした。ルーシーに手伝ってもらって、脇髪を編み込んでもらう。
その姿で朝食のため宿の食堂に現れた時、大勢の客で賑わっていた広間に一瞬変な空気が漂った。特にティガールから放たれる険しい空気が周囲を圧している。
「……なに?」
怪訝そうに眉を潜めたレイフェリアの前に、非常に慌てた様子のオセロットがやってきて、申し訳なさそうにこう言ったのだ。
「れ、レイフェリア様。もしできますれば、いつものお姿にお着替えくださいますよう、お願いいたします。街道筋は一見平和なように見えても、何が起きるかわかりませんので、娘さんらしいお姿でない方が何かと無難でございますので……えっと、あまりにお綺麗すぎてその……ご無礼は重々承知でございますれば」
と、くどくどお願いされてしまっては、強く反発もできない。
──だけど、他の女の人達は普通の格好をしているのに、どうして私だけ着替えさせられるのかしら? 着慣れないのはそうだけど、よっぽどおかしな格好で目立ってたのかしら?
仕方なくいつもの服装に戻りながら、レイフェリアは府に落ちなかった。ルーシーはなにやらしたり顔で手伝ってくれている。
「今夜はどんな街で宿を取るのでしょうかね? 私わくわくしますわ!」
「……そうね」
ルーシーは旅立って以来、常に朗らかな様子だ。衣服を取り替えられたことを尋ねると「レイ様がお綺麗すぎて、殿方のうっとりした視線を集めてしまうからですよ!」と、むしろ嬉しそうな様子だ。しかし、レイフェリアにはとてもそんな風には思えなかった。現にティガールは非常に不愉快そうだったではないか。
『私、馴れ馴れしくレイ様ってお呼びしているけども、そうお呼びしても構いませんか? 私まだ勉強中ですけど、出来るだけお役に立ちます!』
ルーシーは旅立ったその日にレイフェリアに願い出ていた。
『もちろんよ。よろしくね、ルーシー。でも、もし本気で私に仕えてくれるなら、レイと呼んでもらえたら嬉しいわ。昔は皆にそう呼ばれていたのよ』
『はい! 至らないところばかりですが、どうぞよろしくお願いいたします』
以来、ルーシーはレイフェリアの侍女見習いとして、いつも側にいる。
気がきく娘だとは思っていたが、こうして慣れない旅に出ると、同性が側にいてくれることのありがたみがよくわかった。ルーシーはよく気がついてくるくる動くが、決して出すぎることはない。レイフェリアが物思いにふけっているときは、彼女が口を開く気になるまで放っておいてくれるのだ。
今までずっと一人で暮らしてきたレイフェリアにとって、それは嬉しい配慮だった。そして、それは彼女を雇ってくれたこの南方の一行にも言えることだった。
──オセロット様のお陰だわね。
ティガールは、雇い人のことを気にかけるような性格ではないだろうから、彼の意見役であるオセロットの配慮の賜物だろう。
「ああレイ様、向こうの方に小さな村が見えてきました。小さいけど綺麗なところみたいです。少し早いけれど多分今日はここでお泊まりにするんですね。レイ様はお腹が空かれました?」
午後の日差しがぽくぽくと地面を温める頃、窓の外を眺めていたルーシーが声をかけた。
「いえ、それほどは。だってほとんど動いてないんだもの。でも、もうそんな時間なの?」
「まだ日は高いですけどね。ですけど、私はちょっとお腹が空きましたよ。馬車に揺られるのって結構いい運動になると思うんですけど、馬車酔いも最初の日だけだったし。レイ様は平気なようでしたが」
「私は揺れるのは気にならないようね。でも動いている方が好きだわ」
そうこうしている内に、馬車は小さな村の広場で停止した。やはりここで一泊するのだろう。
すぐにヒューイが扉を開けてくれた。すでに足置きも設置されている。これもこの数日間で、すっかりお馴染みの段取りになった。
「今日逗留する村に到着いたしました」
二人の娘は馬車から降りると、直ぐにううんと伸びをした。さすがにずっと座っているので、背伸びをすると気持ちがいい。日差しは勢いを失っていたが、夕陽が山の端に落ちるにはまだ少し間があるようだ。
「お体は大丈夫ですか?」
「平気。でも少し早くない?」
馬車が停まったのはやや大きな3階建ての家の前だったが、周囲を見渡すと、北方辺境の村と大差ないほどの小規模な集落だ。
「ええ、次の大きな街まではかなり離れているようですし、少し小さいのですがこの村で泊まるのが良いようです。今朝の宿ではよくない噂も聞きましたしね」
ヒューマが愛想よく話しかけて来た。
「よくない噂?」
「ヒューマ! さぼっていないで、さっさと馬の世話をしろ!」
彼の背後から乱暴な声が飛ぶ。
「うへぇ! はぁい! 今行きます! もうやんなっちゃうなぁ、ちょっとでも俺が息を抜くとこうなんだから……」
ヒューマは肩を竦めて、呼ばれた己が主の元へ走って行った。
「レイフェリア様、お疲れではありませんか?」
代わりにやってきたのはオセロットである。この家の召使いらしい女たちもやってきて、レイフェリア達を部屋へと案内する。歩きながらレイフェリアは尋ねた。
「大丈夫。それよりヒューマが言ってたのですけど、よくない噂があるって?」
「あいつめ、余計なことを……いえ、春先になると動植物たちと一緒に、物騒な奴らも出てくるんですよ」
「物騒……それは物取りの輩と言うこと?」
「まぁ、そうです。春になると、ここらでは冬の間に獲った動物の毛皮や角や肝などを売って現金収入にします。そしてそれを買い付けに来る商人の行き来も多くなるでしょう? それを狙う奴らも多くなるのです」
「なるほど、そういうことなのね」
「ええ、でも大丈夫です。我々は強い。生半可な物取りなどに害されやしません。ご婦人方には安心してお休みを」
「……そうね」
──だけど、自分たちは無事でも、村の人たちはどうなのかしら?
今夜は宿屋ではなく、村長の家だとオセロットは説明した。
聞くと行きの道中でも世話になったらしいが、村長が帰りもぜひ寄っていけと約束させられたようだ。出立から五日、だいぶ南に下って、ここは北方と中央、そして東方との三つの国境に当たる辺境である。近くに大きな街はない。オセロットの話が本当なら、れっきとした騎士たちに逗留してもらえるのは、小さな村にとって治安の面からも、払いの面からもありがたいのだろう。
「疲れてはいないか?」
耳元で囁く低い声はティガールだ。
レイフェリアは自分が鈍感な方ではないと思っているが、この男が近づく気配はいつも察せられない。もう慣れたが、それでも声を掛けられる瞬間は肩が跳ね上がる。
「大丈夫です」
このやりとりも今日三度目だ。それも毎日となると些か飽んでくる。
しかし、それ以外に話題の提供がないのだから仕方がない。今日もいつものように夕食と簡単な入浴を済ませたらあとは寝るだけだろう。
──思い切って頼んでみようか……
さっき考えていた乗馬のことだ。たとえ予備の馬に乗せてもらえなくても、もしかしたら前のように、同乗させてもらえるかもしれないと思ったのだ。たとえ少しの間だけでも。そうすれば少しは話ができるかもしれない。
──ダメでもともとだわ。
「ティガール様、お時間があれば少しお話があるのですが……」
「……」
向けられたのは問いかけるような眼差しだった。
ダメかと思った途端、ティガールは黙って戸口を指差した。屋内では思い切った話はできないから外に出ようと言うのだろう。
ルーシーとヒューマが好奇心を露わに眺める中、二人は暮れ始めた村に連れ立って歩き出した。