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1 大鷲

 さくさくさく。

 雪に覆われた森の道を小さな人影が進む。

 人影は若い女であった。深い色のマントを目深に被り、背中に大きな荷物を背負っている。女は、すらりと華奢な姿に似合わない、森番の男のような(なり)であった。

 女の名はノーザン・レイフェリア。

 この冬二十歳になったばかりである。

 親しい人は彼女をレイと呼んだが、そんな愛称で呼んでくれる人たちはもう、この世にはいない。


「はあっ……はぁはぁ」

 白い吐息が凍てつく空気に溶けていく。

 レイフェリアは自作のカンジキの跡を雪の上に残しながら、この道の先にある城、北の領主館への道を急いだ。

「面倒な……」

 城に赴くのは一年ぶりだ。せめて馬ぐらいよこしてくれたら、こんなに大変な思いをして三リールス(キロ)も離れた城まで歩いて行かなくてもすむのに、無駄と知りつつレイフェリアは毒づく。

 辺りにはすれ違う村人の姿もなく、深い色をした針葉樹が雪を冠に両側に並んでいるだけだ。

 よく知る道だが、昨夜降ったばかりの雪が凍りついた土の上に被って非常に歩きにくい。新しい雪は水っぽく、春がすぐそこまできていることを示している。

 あと数週間もすれば氷も溶け出すだろう。それはそれで道がぬかるんでしまうから、徒歩でしか移動手段のない身には、しんどいことなのだが。

 ──叔父上もなんだって急に私を呼び出したりするのか。会えば厄介者だの、生意気な娘だのと言うのだから、いっそ放っておいてくれたらいいのに。

 おまけに叔母も、二つ年下の従姉妹(いとこ)も叔父に輪をかけて意地悪なのだ。

 しかし無視をするわけにもいかず、レイフェリアはこうして森の道を急いでいると言うわけだ。

 雪は未明に止んだらしい。

 ようやく森を抜けたレイフェリアは、久々に晴れ上がった薄青い空を見上げて思った。

 深い紫の瞳に明るい空が映る。

「ああ、あれは……」

 黒い鳥がゆっくりと北へと飛んで行く。広げた翼の大きさから見て大鷲だろう。

 鳥はいい、とレイフェリアは思った。

 自由な翼でどこにだって飛んでいけるのだから

 たとえ彼らが寿命が短く、いつか自分より強い敵と戦って、あるいは喰われて命を終えるにしても、こんな最果ての土地でほとんど誰に会うことも許されず、小さな小屋に閉じ込められて暮らすよりはずっといい。

 レイフェリアには一人で近くの村に行ったり、人と交流をする自由はないのだ。


「お前たちは罪人の妻子だ。前領主だった我が兄、エイフリークが反逆の疑いをかけられたことにより、この地は中央の制約の下に置かれることとなったのだ。今後この北方領土は、真国ゼントルム国王陛下から新たなる領主と認められた私が治め、立て直す。だがお前たちは今後、私の許しなくこの城に入ってはならぬ。とっとと立ち去るがいい」

 それは七年前、レイフェリアの父で、(さき)の領主だったエイフリークの弟、イェーツが自分と母に言い放った言葉であった。

 以来、決められた約束事に従ってレイフェリアは城から三リールス(キロ)北にある、離れ屋と呼ばれる古く小さな屋敷でひっそりと暮らして来た。

 食べ物は週に一度、城から適当なものが届く。衣服は従姉妹(いとこ)から下される、古びたお下がりを直して着る。(たきぎ)は森で自分で拾ってくる。

 しかしこれだけでは生活が成り立たないから、森を流れる川で小魚を釣ったり、罠を仕掛けて小動物を捕まえてなんとか飢えずに暮らしている。お陰で弓矢の腕はかなり上達した。

 ごく(まれ)に昔を知る村人がやって来て、こっそりものをくれたり、森を流れる川から取れる輝石(きせき)などで作った装飾品を現金で買い取ってくれることもある。しかし、叔父に知られては拙いので細心の注意を払わなくてはならない。

 レイフェリアは領主の娘であった時の生活をすでに忘れかけてしまっている。

 一緒に城から追い出された母は、二年後に悲嘆の内に亡くなってしまったから、彼女の一人暮らしも五年目だ。孤独にも貧しさにもすっかり慣れてしまった。

 けれど誇まで失ってしまったわけではない。


 父、エイフリークは実直で賢明な領主だった。

 しかし七年前、真国王宮へ納めた献上品の中に、毒の付着した敷物が混じっていたことがわかった。それは当時懐妊していた王妃へ送る祝いの品物だっただけに、ゆゆしき失態となった。

 父は無実を訴えたが、結局責任を強く感じて剣で胸を突いて、自害してしまった。

 父がしたことだという明白な証拠が出なかったことと、父の友人の王都の貴族たちの取りなしにより、北の領地は潰されずに済んだ。しかし、母とレイフェリアは王都で教育を受けて戻ったイェーツによって城から追放された。

 レイフェリアは父の無実を信じ続けている。しかし、あの頃は幼くて何も知らず、どうしたらいいかわからなかった。何より、父の死の前後のことをよく覚えていなかった。葬儀は行われなかったというが、母や屋敷の様子の記憶もない。母の話では、衝撃のあまり熱を出して寝込んでしまったそうなのだが、そのことすら霞にかかったように(おぼろ)げなのだ。

 しかし、いつか父の無実を証明し、墓も建てられなかった不名誉な罰から解放してやりたい。

 それだけが今のレイフェリアの願いである。そのためにはなんでもしたいとも思う。いつかこの地を出て、王都の父を知る人たちに話を聞きにいかねばならない。

 しかし、この北の地のさらに辺境に閉じ込められた今の身の上では難しいことだった。

 けれど誇りと望みは決して失わない。

 ——なんとかして、ここを出ていかなければ。

 その為に、レイフェリアは一人で生きていく術を身につけ、僅かずつ金を貯めてきたのだ。

 イェーツ叔父は、兄であった父のことを慕ってはいなかったらしく、父が亡くなってレイフェリアと母がまだ城にいた頃から、酷い仕打ちを受けた。部屋からは追い出され、厩に押し込められた。

 王都育ちのイェーツの妻ギンシアや、娘のアーリアからも散々馬鹿にされ、母は泣いたが、元から好きな人たちではないし、レイフェリアにはどうでもよかった。

 城を出て七年。

 ——もしかしたらついに、この領地からも追放だと宣言されるのかしら?

 それならそれで構わない、とレイフェリアは頭を振り上げる。すると足元が疎かになり、雪に足を取られて転びそうになる。

「いけない、城に着く前に濡れてしまったらまた嫌味を言われるわ」

 レイフェリアは用心し、少しでも歩きやすそうな古い(わだち)の残る場所を探して黙々と歩いた。

 やがて——

 森が開け、凍りついた湖の向こうに小さな城が見えてきた。

「綺麗……」

 刷毛ではいたような空の青が、濃く深い湖の青とくっきりと分かれている。そして、その真ん中に(うずくま)るように建つ石の城は、灰色でとても陰気に見えた。


「さてと、じゃあ近道」

 凍った湖の岸辺でレイフェリアは、背負った荷物の中から一対の細長い金具を取り出した。

 それは靴に紐で巻きつけて装着し、氷の上を滑る道具だ。レイフェリアはどうせ徒歩で行くなら少しでも楽な方法でと思い、外套の下に男ものの足通しをはいてきた。

 倒木に腰掛けて鹿皮でできた靴の上からしっかりと金具を固定し、外したカンジキをまとめて袋に放り込んで、踵で具合を確かめると彼女は立ち上がった。

「これでよし」

 レイフェリアは颯爽と対岸に向かって滑り出す。

 岸辺の氷は十分分厚いが真ん中へ行くほど薄くなる。冬も半ばを過ぎた頃なので、もしかしたら湖の中心は人が渡れるほど厚くないかもしれないが、レイフェリアは平気だった。

 自分は()()()氷を割らない自信がある。

 北方系の娘としては平均的な体格の彼女だが、体重は見かけよりも軽い。けれど骨も筋肉も強く、体も丈夫だ。

 そして密かな自慢は脚力である。足も速く、跳躍力には一番自信がある。これは北方領主家の直系だけに隔世的に現れる遺伝だと聞いている。父にはその特徴は出現しなかったので、いつも羨ましがられたものだ。

 ジャッジャッジャッ!

 小気味よく薄く雪の積もった氷を掻きながら、レイフェリアは湖を渡った。

 遮るものは何もない。白と青の天と地。きんと静まり返った空間の中、レイフェリアの小さな姿だけが滑らかに漂っている。

 髪を覆っていたフードが背中に落ちて、薄黄色い髪が後ろになびいた。

 青くも赤くもない、それでいて光の加減で赤みや青みを帯びる紫色の瞳は氷の照り返しを受けて光る。これは父から受け継いだもので、北方領主の同世代の一人だけに現れる直系の証なのだ。

 ——このまま、風に乗ってどこかへ行けたらいいのに。

 鏡のような氷の上を滑っていると、レイフェリアはどこまでも行ける気がした。さっき見た、あの大鷲のように。

 ——疾れ! 憂鬱など置き去りにしてしまうのよ! さぁ、レイ!

「いい風! 跳ぼう!」

 右足で氷を蹴ると体がふわりと宙に浮く。誰も見ていないところでなら遠慮なく跳べる。

 レイフェリアは氷上で優雅に舞った。

「素敵よ、レイ!」

 この時、レイフェリアは、陰鬱な城で彼女を待ち受けている運命のことは何も知らなかった。

 風は白く冷たい北の地から、鮮やかな色合いと熱に彩られた南の地へと激しく吹いていたのだ。


 牙を疼かせ、胸を焼いて、虎が彼女を待っている。




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