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18 出立

 目が覚めた時、レイフェリアは自分が自室の寝台で丸くなっていることに気がついた。

「うう……」

 慌てて半身を起こすと、ちゃんと寝間着を着ている。外套と長靴は寝台の近くに置かれてあった。昨夜入浴後、自分が何気なく置いたと思われる辺り──まるで何事もなかったように。

 いや、何があるというのだろう?

「夢? あの獣は……」

 レイフェリアは寝台から()いだし、急いで身支度をすると、裏の階段を降りて裏庭に出てみた。もし昨日のことが現実だとしたら、雪の上には獣の足跡が点々と残っているはずである。

 しかし──

「……え?」

 本館の東側の雪はきれいに除雪されていて、足跡どころか木の葉さえも落ちていない。薄汚れた雪が城壁の下にうず高く積まれているだけだ。

 ──これじゃ確かめようがない!

「でも、そうだ……アリーナ……アリーナだ!」

 昨夜の獣は、確かに三階のアリーナの部屋から飛び出した。そこはかつて自分の部屋だったのだから間違いない。

 いくら意地悪な従姉妹だといっても、獣に害されていいはずはない! レイフェリアは大急ぎで屋内にとって返した。

 だが、駆け込んだ城の中は特にいつもと変わりがなかった。階上で何か騒ぎが起きている気配もない。レイフェリアは敢えて正面階段を使ったが、すれ違う召使いたちも、いつもの朝の支度で忙しくしており、レイフェリアを奇妙な目で見ていた。

 ──なんだ。やっぱりあれは夢だったの?

 拍子抜けをして部屋に戻ると、ルーシーが朝食の用意をして待ち構えていた。

「おはようございます! お部屋におられないからお探ししようと思っていました。レイ様は朝からお散歩をしていらしたのですか?」

「え? ええ、まぁ……そうね」

 なんとなくばつが悪くて語尾が弱い。

「ですが、スープが少し冷めてしまいました。温め直します?」

「いえ、大丈夫よ……あの、ルーシー?」

「はい?」

「アリーナのところにも、もう朝食は運ばれているわよね?」

「え? はい、勿論でございます。私が厨房から出る時、アリーナ様付きの侍女さんが上に上がっていくのを見ましたもの」

「そ、そう……?」

 レイフェリアはもう一度、耳をすませた。しかし、特に何も聞こえない。

 ──やっぱり昨夜(ゆうべ)のことは夢だったのね。妙に現実的な手触りだったのだけれど……。

 不思議に思いながらもレイフェリアは朝食を食べ終え、ルーシーに手伝ってもらいながら朝の身支度を済ませる。

 今日の昼には旅立たねばならない。

 また着替えるのは面倒だったので、旅に耐えられる丈夫で飾りけのない服にする。つまり、いつもの外出と同じ少年のような足通しの上から、裾の長い上着と幅広の帯を締めた格好だ。

 着ていた寝間着と、最後の日用品を箱に詰めたら旅支度は出来上った。

 ルーシーは朝食の盆を下げて一礼すると慌ただしく出て行く。この後、呼び出しが来るまで部屋で待機なのだろう。

 ──どうも調子が出ないわ。

 レイフェリアはぼんやりと考えながら、寝台に倒れて上半身を預けた。行儀が悪いとは思ったけれど、ここには誰もいないし、少しゆっくり考えたかったのだ。

 目を閉じると昨夜の獣の姿が浮かぶ。

 闇の中で光を放ちながらこちらを見据える、金色の双眸(そうぼう)

 はっきり覚えている。あの感覚が夢だったのなら、もう自分の感覚を信じられない。

 ──獣……そうだ! 獣!

 叔父の話にも出てきた獣。荒唐無稽(こうとうむけい)にも思える突拍子もない話だった。

 おそらく南方領主に執念深い悪意を抱いている叔父が、大型犬か何かの動物を恐ろしい獣だと思い込んだのだろうと、レイフェリアはそれについてあまり重要視していなかった。渡された毒薬さえ、外套のポケットに入れっぱなしにしていたくらいだ。

 それでも叔父は父の汚名を(すす)ぐ努力をするというから、一応話は謹聴したのだ。もし獣の証拠が何も見つからなかったら(その可能性が高いが)、叔父のことなど当てにせず、いつの日か自ら王都に行って国王に父のことを嘆願しようと思っていたくらいだった。

 ──ああ、考えがまとまらない。

 叔父、獣、そして南方領主。

 叔父が見たという恐ろしい獣。そして自分が見た獣。叔父は南方領主の屋敷で見たと言い、自分は南方領主の後継が滞在しているこの城で見た。

 前にも考えたが、これは偶然なのだろうか? そうではないと考えたほうが自然だ。

 けれど、叔父が言うような恐ろしい感じはしなかった。いや、恐ろしかったのは確かにそうなのだが、獣の方は自分に襲いかかったり吠えたりという、攻撃的な行動は何一つする気配はなかったのだ。

 ()()はただ大きく、美しかった。

 ──そうなると、叔父上の言うように南方領主……はやはり獣を飼っていて、護身用か何かで連れているのかもしれない。今のところ、事故も事件も起きていないし、村人が襲われたと言う連絡もない。ただの無害な獣を何かの理由で連れ歩いているの?

 その理由とは?

「もしかしたら……あれは人を襲わない獣なのかも。でも……だったらなぜ、アリーナの部屋にいたのかしら……そうだ!」

 レイフェリアはガバリと起き上がった。

「ヒューマ! 振り返ったらヒューマがいて、それから先がわからなくなったんだわ!」

 しかし、どうして自分が意識をなくしたのかがさっぱりわからない。後でヒューマに聞くしかないが、おそらく教えてはもらえないだろう。

 猫に似た大型の獣は間違いなく肉食に違いない。ならばどうやって飢えを満たしているのだろうか? どうやってここまで誰にも見つからず連れてこられたのだろう?

「何か、何か訳があるんだわ」

 レイフェリアは唇を引き結んだ。

「とにかく、行ってみないことには」

 その時は刻々と近づいている。

「そういえばルーシーは、叔父のところに行くといっていたけれど……本当に行ったのかしら?」

 何もできないことに焦れながら、レイフェリアは出立の時を待った。


 部屋を出るように言われたのは、それから半刻(いちじかん)ほど立ってからだった。

 まず叔父の部屋に寄る。約束した念書を貰うためだ。なんと、ルーシーが扉の前に立って自分に微笑んでいる。彼女は旅装だった。してみれば叔父は、レイフェリアに従って旅立つ許可を出したのだろうか。

「叔父上、入ります」

 レイフェリアはこの城に参上した時と同じように叔父の部屋に入った。

 叔父は執務机に座り、書紙を広げて何かを書きつけていた。レイフェリアが進むと黙ってそれを差し出す。

「……これは」

 中身は言った通り、父の名誉回復を願い出る嘆願書だった。

 正式な用紙を使ってくれたらしく、下の方には北方領主家の紋章、鷹の嘴の印がある。それ自体は単なる嘆願書で、当然ながらレイフェリアの役割のことは何も書いてなかった。今書いたばかりなのだろう、叔父の署名の文字がまだ濡れている。

 レイフェリアは文字が乾くのを待って丁寧に丸めると、油紙に包んで荷物袋の底にしまった。

「これでよかろう。ただしこれを使うのは、私が言ったことを果たしてからだ」

「承知しました……で、あの……ルーシーのこと、ありがとうございます」

「ルーシーだと?」

「外で待っている召使いのことです。私について行きたいと」

「ああ、オセロット殿が給金を出すと言うのでな」

 さすがに、領主の婚約者として旅立つ姪に、召使いの一人もつけないのは、(はばか)られたのだと思ったのだろう。しかし、それでもレイフェリアは嬉しかった。これで道中も少しは気がまぎれるだろう。

 なにしろティガールは決して話やすい男ではないのだ。

「では、下ります」

 部屋を出る前にちらりと壁の姿見を見たが、男物の旅装に身をやつした自分の姿は、どう見ても姫でも、令嬢でもない。こんな婚約者花嫁候補にして、彼はどう思うだろうかとちらりと思った。

 ──まぁ今更か。

 廊下に出ると、待ち構えていたルーシーがすぐさま後に続いた。

 荷物は自分で持つのがレイフェリアの主義だ。外套のポケットの底には黒い小瓶のわずかな重み。中にはそのままで使えば恐ろしい毒薬が入っているのだ。レイフェリアは出かける間際に、小瓶を布で包んでポケットの底に縫い付けた。こうすれば割れないし、わかりにくい。

「さぁ、待っていなさい」

 誰にともなく呟く。

 ホールの上に出る。正面階段の下のホールではすっかり旅支度をすませた客人一行が整列している。

 真ん中に派手な()が立っていた。

 彼は不意に顔を上げ、光の強い金色の目でレイフェリアを見据えた。


 ***


 ティガールは大階段をゆっくりと下りてきたレイフェリアを見上げた。

 今日、彼女に会うのは初めてである。

 日当たりのあまり良くないこの城のホールは、がらんと広いだけの空間だ。北の城は暗くて冷たい。寒いことは平気なティガールだったが、この暗さは好きになれなかった。

 ──あの娘には似合わない。

 昨夜、贈った服を着たレイフェリアは息を飲むくらい美しかった。

 緋色に映える白い肌、帯は高く結んで女らしい曲線を露わにしていた。南の国では誰もその色を持たない銀に近い髪に、世にも珍しい紫の瞳。

 そして打って変わって今日の姿は勇ましく、まるで女狩人だ。大きな外套の片側を肩に掛けているので、幅広のベルトが細い腰を締め付けているのがわかる。膝上までの長靴はよく使い込まれた柔らかい皮で、彼の目には草原にいる草食動物のように見えた。

 ── ついに俺の婚約者となった。

 しかし、どうも彼女は機嫌が良くないように見える。

 レイフェリアの口数は決して多くはないが、表情が実に豊かだった。

 昨日、森の屋敷に行った時は馬に乗って楽しそうにしていた。と、思えば、大切な品々を選ぶ時には切なそうな様子になり、薬草を吟味するときは生真面目な顔をしていた。そして、母の墓の前で瞼を伏せ、長い睫毛は小さな影を落とした。

 そして今、その顔は物憂げで、紫の瞳が煙水晶のように(かげ)っている。

 ティガールの目には、それが不安と不信の表れに見えた。

 おそらく、知らない男が迎えに来て、住み慣れた故郷を出ていくことに心細さを感じているのだろう。何か元気の出る言葉をかけてやらなくては。

「……そのなりで行くか?」

 口から飛び出た言葉は、どうしようもなく無礼なものだった。

 そんなつもりは一切なかったのにも拘らず、だ。案の定、レイフェリアがぐいと柳眉を上げる。

 ──俺は何を言ってるんだ!

 ティガールは喉の奥で唸った。間の悪いことに、その音も階段を下りきったレイフェリアに聞こえたらしく、彼女はひとつ頷くと、すぐに目をそらして床を見たまま辞儀をした。

「南方領主後継様、不束者(ふつつかもの)ではございますが、これからの慣れぬ旅路、どうぞよしなにお願い申し上げます」

 丁寧なのに冷ややかに感じる言葉に、ティガールは唇を噛みしめる。

「心得た」

「ありがたき幸せ。では叔父上、行って参ります。長のお慈しみ、感謝申し上げます」

「うむ、ティガール殿によくお仕えするのだぞ」

「はい。では先に馬車でお待ちして下りますので」

 レイフェリアは、もはやここには用はないとばかりにルーシーを伴い、外の馬車に乗り込んで行く。全く隙がない。

「怖い顔してますねぇ、主様」

 横からヒューマがからかった。

「ただでさえ怖い顔なんですから、もっと柔らかく微笑まないと。ほら、つれなくされちゃったじゃないですかぁ」

「……黙っていろ」

「だからそれが怖いってんです。ただでさえあなた様は口下手なんですから、せめて顔だけでも柔和にしないと」

 ──それができたら苦労はせん。

「姫様行っちゃいましたよ。さっさと追いかけて!」

「追いかけてどうする?」

「どうって……荷物を持ってあげるとかに決まっているじゃないですか。ほら、一人でさっさと馬車に乗ろうとしてますよ。あ、御者の手を無視した。気の強い姫様だなぁ……って、主様!」

 ティガールが数歩でホールを横切り、馬車へ向かって行く。

「やれやれ……まぁ、気持ちはわかるけどなぁ」

 ヒューマは楽しげに肩をすくめた。


      ***


「……え?」

 レイフェリアが馬車に乗り込もうとすると、突然背負っていた荷袋の紐が引っ張られた。

 驚いて振り返ってみると、ティガールが大きな手で袋の肩紐をつかんでいる。そのずっと後方ではヒューマが哀れむような視線でこちらを眺めていた。

「持とう」

「いえ、大丈夫です」

「持つ」

「ですから、よろしいのです。この荷物は身近において置きたいし。それにもうここ、馬車だし」

「ぶふっ」

 後ろでルーシーが笑いを堪えている。

「……お気持ち、感謝いたします。では荷を中に入れてくださいませ」

 もうすぐ出立というのに、これ以上押し問答をしていても仕方がないと思ったレイフェリアは、黙って袋をティガールに渡した。

 男は憮然とした顔で、それでも荷袋を丁寧に馬車の座席の下に収納してくれた。

 振り返るとヒューマやオセロットが深く頭を下げていた。開け放たれた正面扉からイェーツが姿を表したのだ。彼は領主の準正装の上着を羽織っている。儀礼は全うするというところか。後ろに家令と従者が控えていたが、ギンシアとアーリアの姿は見えなかった。

「準備が整うたようでございます。我らはこれから南の地へと戻りまする。北の地のご領主様の暖かい歓迎、我々一同深く感謝いたします」

 オセロットが(うやうや)しくイェーツに礼を述べる。

「左様か」

 いつの間にか、ヒューイやその他の随身までもきちんと並んでいた。そしてティガールがゆっくりと進み出た。先ほどの消沈した様子はない。

「世話になった。イェーツ殿」

()かれるか」

「姪御のことは責任を持って預かる故、ご安心召されよ。王にはイェーツ殿の配慮を(しか)と伝えておこう」

「よしなに。では道中気をつけて行かれよ」

「おう。ではこれにてさらば!」

 レイフェリアは叔父に黙って頭を下げると、馬車へ乗り込んだ。ルーシーもその後に続く。

 扉が閉められた。

 最後に窓から父の弟である男に目を向けると、彼もレイフェリアを見ていた。しかし、その目には何の感情も見いだせなかった。

「行ってまいります……叔父上」

 別れの言葉にもイェーツは軽く頷いただけで、もう用は済んだとばかりに身を(ひるが)して城の中に消えて行った。

 ──まぁ、こんな別れがお似合いか。

 レイフェリアにも特に感慨はない。

 もうずっと前からこの城も、そこに住まう人たちも、彼女の家や家族でなくなってしまっていたのだから。


 この先どうなるのかはわからない。

 しかし、閉ざされたままだと思っていた未来への扉が開かれたことだけは確かだった。

 



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