17 出立前夜
晩餐が終わるとレイフェリアは早々に席を立った。
これ以上この場にいても意味がないし、明日の出立に備えようと思ったからだ。
レイフェリアは目を合わせずに叔父とティガールに挨拶すると、さっさと大広間を引き上げた。
部屋ではルーシーが待ち構えており、好奇心もあらわに駆け寄ってくる。
「レイフェリア様、おかえりなさいませ。晩餐会、どうでございました?」
「どうって、別に何事もなく終わったわ。久しぶりにお肉を食べたような気がする」
「ええ、厨房は大忙しだったようですよ。私も少しだけ余ったものをいただきました。おいしかったです!」
「それは、よかったわ」
レイフェリアはうっかりすると、何も食べられなかったかもしれない事態のことは黙っておくことにした。
「部屋着になられますか?」
「ええ、脱ぎたいわ」
言いながらレイフェリアは帯を解いた。南方風の服は体を締め付ける王都風ではないが、料理の匂いがついたかもしれないし、早く手入れをしたいと思ったのだ。
「あの素敵なお客様と何かお話になられました?」
レイフェリアが脱いだ衣類を受け取りながらルーシーはなおも尋ねる。
「ティガール様のこと? いいえ、特になにも」
「え〜、だってお席は隣だって聴きましたよ。衣装が似合うとか、お美しいですぐらい言われますでしょ? あ、御髪は私が」
髪飾りを抜き、紐を解くと、後に上げていた髪が滝のように流れ落ちる。
「言われないわ。それにアリーナにだって同じような服が贈られていたんだもの」
「ええ〜ほんとですかぁ?」
「本当よ。そもそもアリーナが領主令嬢なんだから、それで普通よ。さぁ、これから今日持ち帰ったものを荷物に詰めなくちゃ……」
すっかり部屋着姿になったレイフェリアはやれやれと伸びをした。
既にあらかたの荷物は部屋の隅に積んである。ここにくる際に持ってきた荷物がほとんどそのままだから、手間はかからなかったのだ。
「今日お持ちになったものってどれですか? ああ、こんな小さなものなら、こっちの櫃に余裕があります」
「ありがとう。油紙をちょうだい。自分で入れるわ」
レイフェリアは両親の形見の小箱と手紙を大切そうに油紙に包んだ。
「ずいぶん大事なもののようですね。じゃあ私はお風呂の支度をして来ます」
レイフェリアは荷物入れの様子を確かめた。あまり大きくはないが、頑丈な分厚い皮でできた箱だ。この箱もルーシーがどこからか調達してくれたものである。壊れないように衣類の中に形見の品を忍ばせると、これで荷造りは完了だった。あとは今着ているものを明日の朝詰めればいいだけだ。
「助かったわ、ありがとうルーシー」
「え? なんですか?」
浴室の用意を済ませたルーシーが浴室から顔を出した。
「荷造りの箱を見つけてくれてありがとう。私は荷袋しか持ってなかったから……」
叔父も叔母もわずかな衣類をくれた他は、レイフェリアに何も与えようとしなかった。祝いの品すらない。
「いえ、そんなのはいいんです……それよりあの……レイフェリア様」
ルーシーが両腕をもじもじさせて、レイフェリアの前にやってくる。なにか仔細があるようだった。
「なぁに?」
「私もご一緒させてもらえませんでしょうか?」
「一緒に? ええいいわよ」
「ほっ、本当ですか?」
「本当よ。さぁ、お湯も溜まったみたいだから一緒にお風呂を使いましょう。服はこっちの籠に……」
「違います、違いますって!」
ルーシーは慌ててレイフェリアの服を掴む。
「え?」
「あの! 私はレイフェリア様付きの侍女として一緒に南の領地に行きたいんです」
「えっ!」
思いがけない申し出である。しかし、ルーシーは真剣な様子だった。
「私本気なんです」
「でも……それは……私には決められないわ。それにあなたには家族もいるでしょう?」
「私は……四人兄弟の末っ子で、次兄と長姉は結婚して家を出ておりますが、両親と長兄がいて、義姉と三人の子どももいるから家はもう手一杯です。前にも言いましたけど、私は亡くなったおじいちゃんの口利きでこちらに住み込みで雇ってもらっているんです。私は自立したいんです。私が自分で決めたことに両親は反対なぞしやしません」
「え、ええ……でも、嬉しいけれど侍女なんて……私の一存では……たぶん叔父上に反対されるだろうし」
侍女なんて贅沢だとイェーツなら即刻却下するだろう。だが、確かにたった一人で知らない土地に行くのは心細い。慣れない旅の道中ならなおさらだ。
しかし、レイフェリアにはぬぐいきれない不安もある。ルーシーはいい娘だが、彼女が本当に叔父の監視役ではないと心から確信が持てないのだ。彼女に悪気はなくても無自覚に丸めこまれている可能性もある。
「実はお昼間、あのかっこいいおじいさんにはお話をしてあるんです!」
レイフェリアの逡巡を図ったかのように、ルーシは明るく胸を張った。
「かっこいいおじいさん? もしかしてオセロット様のこと?」
「ええそうです。私をレイフェリア様付きの侍女として雇ってもらえませんかって」
「直談判やっちゃったの? すごいわねルーシー。で、どうだった?」
「それがご領主様が許してくれたらそれでいいって。お給金は自分たちが払うからってあっさりご了承くださいました。実際御一行には女の人がいないので、道々レイフェリア様のお世話をする人でも雇うかと考えていたって……」
「そう……だけど、ルーシーはどうして私と行きたいの? 生まれ故郷を離れるのよ。なにかいいことがあるの? 誰かになにか言われたの?」
思い切って真正面から尋ねてからレイフェリアは注意深くルーシーの様子を観察する。もし彼女に何かやましいところがあるのなら、表情や仕草に何らかの変化があると思ったのだ。
「一番いいことはレイフェリア様と一緒にいられることです。誰からもなにも言われてません。全部自分で決めました!」
「私が一番いいこと?」
予想もつかないことばかりルーシーは宣言する。
「そうです!」
「どうして私と行くことがいいことなの?」
「はい! 私、侍女になりたかったんですけど、このお城では都から来なさった家令さんや侍女頭さんに辛く当たられていて、侍女になることを諦めようかと思っていたんです。実際、アリーナ様の侍女は私などにとても務まりませんし。この城を出て隣のご領主様のとこにでも行けたらいいなぁとか考えてたところに、レイフェリア様がいらして、なんと南の領地へお嫁に参られるって言うじゃないですか。これは頼み込むしかないって思ったんですよ」
「お嫁入りは決まったわけではないけれど……でも、いったんここを出たら簡単に家には帰れないわよ」
「わかってます。家は好きだけど、大家族で私の居場所はないし、本当に自立したかったんです。違う土地には前から行ってみたくて……って、私の勝手な都合ばかりですみません」
「……」
「やっぱりいけませんか? 侍女って教養とかお作法が必要ですもんね。向こうでレイフェリア様に恥を掻かせてしまうかもだし……」
「そんなことはいいの。ではまだ叔父上には伺っていないのね?」
「はい。家令さんには話そうとしたんですけど、忙しくて取り合ってもらえなくて」
「そう……じゃあ、明日の朝叔父上に掛け合ってみればいいわ。私が頼んでも逆効果だから、できたらオセロット様を連れてお願いしてもらうといいかも。彼に頼みに行くんだったら、私から口添えを書いてあげる」
レイフェリアは部屋に備え付けの書紙と羽ペンでサラサラと要件を認めた。
「ありがとうございます。これから早速オセロット様に頼んでみます。じゃあ、今夜はお湯をお使いになって、早く休んでくださいね!」
「……あなたもね。おやすみなさい」
湯を使い終わってルーシーを下がらせてからも、レイフェリアは眠る気になれなかった。
──あの人はまだアリーナの部屋にいるのかしら?
自分には関係のないことだ、気にしてもしようがないと何度も思ってみても、どうしても気になってしまう。
今頃二人で楽しく過ごしているのだろうか? アリーナは誘惑する気が満々だった。無礼で無口でも、ティガールは義理は重んじる男だと感じたのは間違いだったのだろうか?
思いは堂々巡りである。
「ああ! もう、ちょっと見てみるだけよ!」
レイフェリアは寝間着の上に外套を羽織り、ショールを巻きつけて長靴をはくと、そっと部屋を出る。
叔父たちの私室が並ぶ三階には行けないので、裏口から寒い戸外へ出た。曇った夜で月も見えないが、城内にはまだ所々灯りが点いている。
かつて自分のものだったアリーナの部屋は東側だ。その下に立つと、その部屋からは赤々と明かりが漏れていた。人の気配もするようだ。
──こんなに遅くまで……。
レイフェリアは寒さに震えた。一体自分は何をやっているのだろう? ショールをかきあわせて部屋に戻ろうとしたその時。
「……?」
ふっと部屋の明かりが消える。しかし、今まで人の気配がしていたのだ。眠ってしまったのではないだろう
「……なにかあった?」
見上げたレイフェリアの視線の先で、アリーナの部屋の窓が開いた。真っ暗になった部屋が覗く。人の姿は見えない。
「……え?」
いきなり飛び出した黒い大きな影。
それは、窓から葉を落とした椚の枝を蹴って体を返し、二階の窓の庇に飛び乗り、再び跳んで音もなく雪の上に着地した。レイフェリアの立っている場所から、わずかに十リールのところである。
──あの獣だ!
今夜は月がないのでよく見えないが、巨大な猫のような影としなやかな動き、うっすらと見える縞模様でレイフェリアにはそれとわかった。
数日前に、突然現れたあの獣。
影はレイフェリアに気がつき、ひたりと立ち止まるとこちらを見据えた。恐怖で身がすくむ。しかし、獣はすぐに身を翻すと壁沿いに走り、前庭の方に消えた。
「あ……あ!」
もしかしたら、アリーナはあの獣に襲われたのではないだろうか?
──無事を確かめなければ!
「アリーナ!」
レイフェリアが走ろうと振り返った途端、何かに思い切り顔がぶつかった。驚いて見上げると、それはヒューマだった。彼は晩餐の時と同じ愛想のいい笑顔を浮かべている。
「こんばんは。レイフェリア様、こんな寒い夜更けに外にいると風邪をひきますよ」
「い……今、大きな獣がっ……! 私、見に行かなくちゃ!」
「大丈夫でですよ、レイフェリア様。大丈夫です」
人の良さそうなヒューマの笑顔に、別の気配が漂う。本能でレイフェリアは後ろに飛びのいた。
「大丈夫です。レイフェリア様、何も心配ありません。俺を信じて……」
そう言うと、ヒューマはレイフェの顔の前にすっと手を翳した。
その夜、レイフェリアが覚えているのはそこまでだった。
更に深更。
レイフェリアの眠る二階の部屋の庇の上に、一頭の獣が蹲っていた。それは時折柔軟な体を伸ばして、庇の下側を覗き込む。窓の内側では、白い娘が健康な寝息で胸を上下させている姿が、闇を見通す獣の目に映った。
獣はその度、安心したようにふっふと鼻息を漏らし、再び庇の上で微睡むのだった。