13 森の家
「あれです。あれが私の家」
レイフェリアはティガールの胸の中からまっすぐに腕を突き出して言った。
「たった数日前に出てきたのに、随分帰ってないような気がする……」
「あなたは……家に帰りたかったのか?」
意外そうな響きが頭の上から降ってくる。答えが返るとは思っていなかったレイフェリアは、驚きながらも丁寧に返事をした。
「いいえ、帰りたかったというわけでは。ただ、もう簡単には戻れないのなら、持ち出したいものがあったのです。今回の叔父の呼び出しが急なことだったので、最低限のものしか持ってこなかったので」
──これでは自分がないがしろにされていると、遠回しに打ち明けたようなものだわ……。この人になんて思われるかしら?
言い訳するのも、振り向くのもなんだか気まずい。そう思っていると「そうか」と低い声が落ちて、頭の上に息がかかった。ため息をついたのかもしれない。
──反逆の汚名を着せられた男の娘だから、と思われているんだわ、きっと。
レイフェリアの気持ちが重く沈みこむ。
やがて黒馬は小さな屋敷の前で足を止める。
数日見ないでいる間に屋敷はますます小さく、古ぼけたように見えた。
ティガールが家の前の柵に馬を繋いでいる間に、レイフェリアは近くの木の洞に隠しておいた鍵を引っ張り出し、小さな扉を開けた。
「ただいま……」
呟きに応えるものはいない。もう五年も前から。
灰と薬草の匂いが締め切った部屋中に満ちている。しかし人気のなかった部屋は冷え切っていて、室温は屋外と大差ない。全て自分が出て行った時のまま。つい四日前まではここで隠者の暮らしをしていたのだ。
「……」
ふと気がつくとティガールが後ろに立っている。
「あ……申し訳ありません、ぼんやりしてしまって……。どうぞ、こちらにお掛けください。寒くて申し訳ありません」
「構わない」
「では失礼して、必要なものを取りに行ってきます」
「ああ、ゆっくりと選んで好きなだけ持ってくるがいい」
「ありがとうございます」
傲慢な男だと思っていたのに、意外なほどの気遣いに戸惑いながらレイフェリアは二階に上がった。
母の寝室では父の形見の小箱が元の隠し場所に置いてあった。
箱には北方領主の紋章である、鷹の嘴の焼き印が押してあった。厳重に封がしてあり、今ここで開けることは躊躇われる。振ってみても中身が布か紙に包まれているのか、音もしなかった。この一件が落ち着いた時、この中身も確かめなくてはならないだろうと、レイフェリアは丁寧に袋の底にしまう。
あとは、数冊の本。それから自分の部屋で少ない私物を選んで、ここでの仕事は終わった。
「あとは下の納屋から薬草をいくらか持っていこう。南の国では採集できないものもあるだろうし」
階下に下りると、ティガールはさっきと寸分違わぬ場所に立っていた。
「お待たせしました」
「もういいのか?」
「よろしければ、裏の納屋から薬草などを持っていきたいのですが」
「薬草? あなたは薬学の知識があるのか?」
「知識というほどのものは。母が昔、王都の学校で少し学んだことがあるらしく、それを受け継いだだけで……」
──しまった!
またしても余計なことを言ってしまったとレイフェリアは唇を噛んだ。
父の罪は、前王妃への祝いの品に毒を仕込んだことになっていた。あれから年月が経っているとはいえ、疑いを煽るようなことを言ってどうする。
しかし、ティガールは何も気がついていないようだった。
「わかった。ところでこの飾りものはあなたが作ったのか?」
ティガールはそばの作業机の上の小さな装飾品を指差した。
そこには森の奥で採れた輝石を加工した装身具が置いてある。いずれも襟飾りや首飾りなど、小さいものばかりだが、近くの村に寄る商人に見せると、いつも高値で買い上げてくれて貴重な現金収入になった。
「はい。拙いものですが、細かい作業が好きなので」
「持っていかないのか?」
「……荷物になりますから」
「この程度大したことはない。俺が持ってやる」
「え? ええっ⁉︎」
──持ってやるって、持っていけということなのかしら?
「原石もあるなら好きなだけ詰めるがいい」
言葉が短いのでその真意まではつかめない。レイフェリアは訳もわからずに頷いた。
器用な指先で、レイフェリアは日用品から装飾品まで、様々な物を作って暮らしていた。
小さな装身具は、商人からはいい細工物だと評価が良かったが、素朴なものばかりだ。ティガールの役に立つものではない。むしろ、彼を飾る衣服や装飾品の素材の方がよほど高価だろうに。
──なんのつもりなのかしら。まさか売るつもりではないでしょうに。
でも、素直に嬉しく思う。
「向こうが納屋か?」
「はい、奥の扉の中です」
台所の奥に納屋兼貯蔵庫があった。二人も入ればいっぱいの小さな場所だが、石組みでできているため頑丈だ。扉を開けると、さらに香ばしい薬草の匂いが流れ込んでくる。
レイフェリアは干しておいた薬草の束をいくつか袋に入れた。
「これでいいです」
「何に効く?」
「打身や頭痛、熱冷ましなどです」
毒ではないと暗に示すため、レイフェリアは一部を揉んで口に入れた。苦く懐かしい味だ。
「そうか。なら、もっと持っていくがいい。持ってやる」
「……ありがとうございます。じゃあ、こっちの瓶もいですか。種が入っているんです」
小さな小瓶が並んだ棚はうっすら埃が積もっている。
「わかった」
ティガールの言葉はいつも短く、主語も省略されていることが多いので、こちらで補って答えなくてはならないということがレイフェリアもだんだんとわかってきた。
叔父には一応礼儀正しく接していたようなので、こちらの方が普段の姿ということなのだろうか。黙って吊ってある薬草を外し、棚から瓶を下ろしている。その内、ティガールはふと隣の棚に目をとめた。
「これは?」
「ああ、私が集めた輝石です。飾り物を作って売ってたのです」
「そうか。綺麗な青だ」
彼は石を透かせている。磨いていない輝石を見つめる瞳は金色だ。
「南では珍しい色だ。持っていけ」
「あとで布に包みます」
納屋から出たレイフェリアは、小さいながらも七年間自分の居場所であった空間を見渡した。
ここで七年間暮らした。
二年間は母と、それ以降は一人で、ひっそりと。しかし、誇りは失わずに。
領主の娘として城で過ごした十三年間。両親の愛に育まれて自分は自覚しないままに幸せだった。
汚名を着せられた父が自害してからは人生が一転してしまったが、生き抜く術は身につけられた。ここで学んだことは多い。辛い思い出も、経験も、自分の糧になっているはずだ。
奥の窓からは母の墓が見える。父の髪と一緒にレイフェリアが葬り、石を積んだものだ。
「あれは墓か?」
レイフェリアの視線を追ったティガールが静かに問うた。
「……母です」
「詣でよう」
「え……?」
ティガールの言葉にレイフェリアは振り向いた。
彼は「詣でるか?」とは聞かずに「詣でる」と決まったことのように言ったのだ。そして、レイフェリアの腕を取ると、表に向かう。
薄暗い室内から戸外に出ると、曇り空とはいえ、空は眩しかった。
黒馬が鼻を鳴らして挨拶するのを聞きながら、二人はぬかるんだ雪を踏んで裏庭へと向かう。レイフェリアの腕は取られたままだ。
大きくもない家だから、すぐに回って家の裏手へと出る。
そこには侘しげな畑と薬草園、その手前に母の墓石が立っていた。石を積み上げただけの粗末なものだ。森の中はまだ雪解けが進まず、半分くらい雪に埋まっている。
「母上、ただいま」
雪をどかしながらレイフェリアは呟いた。すぐにティガールが手伝ってくれたので、小さな墓はすぐに綺麗になった。
「今戻りました。でもすぐに行かねばなりません……南へ」
石を撫でながら母の墓に話しかける。
「いつ戻ってこられるかはわかりません。でも忘れないわ。父上のことも……」
「娘御の御身には責任を持つ。ご母堂殿はご安心召されよ」
低い声にレイフェリアは、はっと振り返った。
思いがけないほど近くに男の顔があり、危うくぶつかりそうになり、思わずレイフェリアは身を引いた。
「尋ねたいことがあるのです」
「言うがいい」
レイフェリアは少しの間逡巡したが、こんな機会はもう得られないと思い、顔を上げた。
「今上陛下は、亡くなった私の父のことを知っておられるのですか?」
「俺にはわからない。ただ王は、四方侯の中で現在、北方領主の立場が著しく下がっていることを、よろしくないと思っている」
「だから私をあなたの花嫁候補に推挙を?」
「……理由の一つだ」
金色の瞳が少し陰った──ように見えた。
なぜか伏せられた金色の瞳。
「わかりました」
──そうか、そういうことだったのね。新王がもし北の地のことを軽んじてないのだとしたら、これが最後の機会なのだ。きっと何か証拠を掴んで父の名誉回復を上奏してみよう。
レイフェリアは最後にもう一度墓に向き直った。冷たい石は何も語ってくれない。だがこの下には確かに母と父の想いが眠っているのだ。
「行って来ます、父上、母上」
やがてティガールは黙って立ち上がると、大きな手をぐっと差し出す。
つかまれ、と示されていることにレイフェリアが気がつくまでに少しの間を要した。そんな風にされるのは父にしてもらった時以来だった。
「あ……ありがとうございます」
礼を言ってレイフェリアが手を預けると、すっと楽に立たせてもらえた。さっきも感じたがすごく大きな手だ。
──無礼な人だと思ったけど、そんなに悪い人でもないのだろうか? 考えてみれば新王の推薦とはいえ、彼も北方のことを考えてくれたのかもしれない。
「やり残したことは?」
「ありません」
ティガールの問いにレイフェリアは頷く。幾度過去をなぞっても、ここにいてはどうしようもない。これから向かう新天地で、自分にできることを探すしかないのだ。
「戻る」
手早く荷物を梱包してティガールは馬に荷物をくくりつけた。予定していた量より多くなったが、それは彼の配慮である。レイフェリアはそのことに感謝をした。
──先のことは何もわからないけれど、今はこれで十分だ。
もう昼を大きく過ぎている。早く城に帰らなくてはならない。今宵の晩餐には出なくてはならないだろう。叔父の家族と顔を合わせるのは嫌なことだが仕方がない。
「行きます」
ティガールに助けてもらって騎乗する。
最後に家を振り返ると、垂れ込める曇り空の下にうずくまるように小さな家があった。窓も屋根も暗い。この家で彼女は子どもから大人になったのだ。
「……さようなら」
別れの言葉は、黒馬の起こす風に乗って冷たい空気の中に消えた。
──もう振り向けない。
唇が震えたが、空を見上げると耐えられる気がする。
体を支えてくれる腕の力強さがありがたかった。