12 相乗り
二人は無言で城の前庭に出た。
日が昇るにつれて気温が上がり、溶けだした雪がぬかるんでひどく歩きにくい。しかし、この男は城の周りの案内役をとレイフェリアに頼んだのだ。
見渡す限り無彩色で、どこもかしこも侘しい早春の風景だ。今日も空は曇り、どこにも色みは見えない。
彼は一体こんなつまらない土地のどこを見たいというのだろう? 色彩鮮やかな南方から来たのだろうに。
「……馬には乗れるか?」
ティガールがぶっきらぼうに問うのへ、レイフェリアも短く応じた。
「乗れます」
「では、厩に」
「……ですが、この城には私の馬がありません。私は叔父上の持ち馬には乗ることを禁止されています」
「俺の馬を使うがいい」
ティガールはそう言うと、さっさと厩に向かった。
厩は城の正面から見て右にある。川が凍りつく冬場は、馬がなくては移動も輸送もままならないから、領主の厩はかなり規模が大きい。当然馬番も警備の者も常時いるが、二人の姿をみると、彼らは会釈だけして目をそらしてしまった。
ティガールは少しも構わずにレイフェリアを伴って中に入って行く。
──ここに入るのは随分久しぶりだわ。
厩独特の湿った暖かい空気と、飼葉の匂いを吸い込む。数十頭の馬が耳を震わせて、見知らぬ人間に注目する気配が伝わった。
ここ数年の間に新しく揃えられた馬がほとんどだが、中には年をとった馬も数頭残っている。かつての父の持ち物だ。彼らはレイフェリアを覚えているらしく、軽くいなないて挨拶をしてくれた。
レイフェリアの愛馬は今もういない。
昔父が与えてくれた優しかった雌馬がどうなってしまったのか気になるが、馬番に尋ねても、どうせ悲しい答えが返ってくることが予想がつくので聞けないでいるのだ。
レイフェリアは沈痛な面持ちでティガールの後ろについて歩いた。
「これだ」
広い厩の一番奥の馬房に、見慣れぬ四頭の馬が繋がれている。
北の領地の馬とは違い、彼らは毛深くはなく、首も腰もほっそりしているが、艶やかな皮膚の下に強靭な筋肉を持っているのが見た目にもわかった。農耕には向かなさそうだが、走ればどんなに早いのだろうか?
──こんな素晴らしい馬に乗せてもらえるのかしら?
知らずレイフェリアの胸が高鳴る。
久しく乗ってなかったが、乗馬は大好きだったのだ。自然と目がどの馬に乗ろうかさまよってしまう。だが、城を出て以来、レイフェリアが馬に乗ることはなかったので、自分の乗馬術がどれだけ錆び着いてしまっているのかわからない。
「これが俺の馬だ」
ティガールは四頭の中でも、ひときわ大きな馬の馬房の前で足を止めた。大変立派な若い黒馬である。馬は主人に会えて嬉しいらしく、しきりと鼻を鳴らしてティガールに鼻先を擦りつけている。
「素晴らしい黒馬ですね。とても賢そうです」
主はぶっきらぼうだが、馬はとても人懐っこい様子だ。
「ああ、こいつはとても賢い」
「それで……私はどの馬に乗ればいいのですか?」
レイフェリアはわくわくしながら尋ねた。この馬ほどでなくても、どの馬もとても様子がいい。
「……こいつだが?」
ティガールは黒馬の額を撫でた。
「……は?」
「これだ」
「え? 一緒?」
──まさかの相乗り?
ポッカリと口を開けたレイフェリアをティガールは面白そうに覗き込んだ。
「心配はいらない。こいつは強いから大丈夫」
「大丈夫って……雪道には慣れていないのでは? 負担になってしまっては……」
「ここに来るまでに慣れた」
どう言うわけか自信たっぷりのティガールだが、レイフェリアにしてみれば、できたら相乗りという事態は避けたいところである。
「そ、そうですか。でも私も雪道に慣れています。もしよければ別の馬を……」
レイフェリアがそういった途端、金色の瞳が翳った──ような気がした。ただ、もともと厩は薄暗いし、ほんの刹那のことだったので気のせいだったかもしれない。
「あなたは、俺の馬に、乗るんだ」
彼は言って聞かせるようにゆっくりと言葉を紡ぐ。それは有無を言わせぬ迫力があった。
「……わかりました。ではこの馬に同乗させていただきます」
仕方なく頷くと、ティガールは黙って馬を馬房から出した。馬用の毛布をかぶせ、その上から美しい馬具や鞍を手際よくつけていく。鞍は特別製のようで、大きくて見事な細工がなされていた。
「行くぞ」
ティガールは肩に掛けていた濃い臙脂色のマントを下ろす。二人は前後して厩を出た。薄汚れた雪の積もった前庭に誰の姿も見えない。皆どこに行ったのだろうか?
「ところでティガール卿はどこか見たい場所はありますか? 町に行く前に城の周囲でも回ってみましょうか?」
行き先がわからなくては案内できない。
「俺じゃなく、あなたが行くところがあるのだろう?」
「え?」
「行きたいところがあるのではないのか?」
男は辛抱強く繰り返した。
「……」
確かにレイフェリアは、住んでいた屋敷に両親の形見を取りに行こうと考えていた。だが、なぜ彼に知られてしまったのだろうか。叔父とは散歩に行きたいと行って揉めていただけなのに。
「イェーツ殿からもらった時間は短い。行くなら急いだほうがいい」
そう言いながらティガールはひらりと馬に飛び乗った。そしてレイフェリアに大きな掌を向けてくる。上質な皮革でできた手袋は、やはり夕陽の色に染められていて、滑り止めの細かい模様が型押しされていた。
レイフェリアは思い切ってその手を取った。大きな掌がぐっと締まったかと思うと、あっという間に鞍の前に跨がらされ、あまり勢いがついたせいで反対側に落ちそうになってしまう。
「わっ!」
「……お!」
すぐさま太い腕が腹に回った。
「軽い、軽すぎる」
「はぁ。私……生まれつき見た目よりも軽いんです」
なんとか体勢を立て直しながらレイフェリアは応じた。この体質は遺伝なのだ。でも、面倒なので説明はよしておく。
「思ったより高くてびっくりしました」
馬の高さはよく知っているつもりだったが、馬種が違うせいもあって、思っていたよりもずっと高かった。相乗りなので鐙もなく、姿勢の保持が心もとない。
「大丈夫か?」
「は……はい」
「では行くぞ」
軽く手綱を振っただけで黒馬は軽快に歩き出した。久しぶりに外に出るのが嬉しいのだろう。
「こいつの動きに慣れるまで俺にもたれていた方がいい。この鞍は大きいからな」
「……はい」
本当はしゃんと背筋を伸ばしていたかったが、足を支えるものがないために、どうしても体が不安定になってしまう。情けないとは思ったがぐらぐらするのはみっともないし、馬の負担にもなるだろうから、レイフェリアはその言葉に大人しく従うことにした。
預けた背中は大きく硬く、それでいて案外心地がいい。体の側面を支えるように腕が添えられ、手綱を操っている。なんだかこの男の囚われ人になってしまったようで、レイフェリアはきまりの悪さを感じながらも、大きく呼吸をして体の力を抜いた。緊張していると思われるのは嫌だったのだ。
ティガールは相乗りに慣れているのか、最小限の動きで馬に指示を出している。
──この人の体の匂い……私は知っているような気がする。父上に似ているのかしら?
黒馬は主人に従っていそいそと門に向かって進み始めた。門衛は寒そうにしながらも、すぐに馬一頭が通れるだけ重い扉を開けてくれる。
二人は何の障害もなく、城外へと滑り出た。
「では、しばらく道なりに走ってくださいますか」
まだ城が近いので、レイフェリアはあえて目的地を告げずに道程を示した。
「わかった。は!」
手綱の一振りで黒馬は気持ちよく走り出す。彼は優れた騎手であるらしく、滑らかに速度が上がった。馬も優秀で、ぬかるんだ雪に足を取られることもない。鞍の下に敷いた馬用の毛布がひらひらと足を打つ。この南からきた馬は慣れない自分が操るのは難しそうだから、相乗りさせてもらって正解だったとレイフェリアは思った。
今日は馬飾りこそつけていないが、馬具も美しく、やはり赤いものが多かった。
「……全部赤いのですね」
この速度だと、ものの半刻で屋敷に到着するだろうが、その間何も話さないのも気詰まりだ。しかも相手はどういうわけか、レイフェリアの意を汲んでくれているのだ。そう思ってレイフェリアはティガールに話しかけた。と言っても、共通の話題などないから、自分が興味のあることについて尋ねてみただけだが。
「赤?」
短い返事が返ってくる。どうやら話す気はあるようだ。
「身につけられる物のほとんどが、暖かい色をしております。お仲間も、馬も」
「ああ、我々の住む南方では太陽が信仰されている。赤はその象徴だ」
「綺麗ですね」
「……綺麗か」
ティガールはレイフェリアの後頭に向けて呟いた。
二人は城の前の街道を抜け、やがて湖の広がる森の端へと出た。レイフェリアは右へと道を指し示す。
「ええ、それにしても本当に様々な赤色があるのですね。淡い赤から暗い赤まで。どうやって染めるのですか?」
「確か、植物を煮出したり、赤い泥に浸して染めるのだと思うが、俺は詳しくはない。城下の街に職人が数多くいるから彼らから聞いてみればよい」
「……南の領土のことは、本で見たことしか知りません。それも少しだけです」
「行けばわかる」
「あなたの花嫁候補が私でいいのですか?」
それは昨日、中途半端に終わった話題だった。今ここで出すのもどうかとレイフェリアは思ったが、城では誰かの目があるし、二人で話す機会などそうそう無いので思い切って尋ねてみることにしたのだ。
「それは……今は考えなくてもいい」
「なぜです?」
「……」
「王陛下のお言葉で仕方なく迎えに来られたのですか?」
「……それだけではない」
「ではなんですか?」
「……それは」
どんどんティガールの口が重くなっていく。
「今は……言いたくない」
「……わかりました」
何か事情があるのだろうと察して、レイフェリアはそれ以上尋ねなかった。
──やっぱり何かあるんだ。声がなんだか弱々しいもの。
それが自分に関係があるのか、ないのかはわからない。ただ、これ以上教えてもらえそうにないことだけは伝わった。
その間も駿馬は軽快に森の道を駆け抜け、湖の岸を回った。昼間なので曇っていても視界が開けると明るい。
「もうじきです。速いですねこの子」
心から感心してレイフェリアは言った。自分が徒歩と氷滑りをしてきた城までの道のりが、その五分の一以下の時間で逆走される。
「名前はなんというのですか?」
「パブロ、こいつが生まれた丘の名だ」
「パブロ」
──耳慣れない音だけど、素敵な響き。
レイフェリアが感じている間に再び森に入る。いくらも進まないうちに茶色い屋根が見えてきた。
森の中の小さな屋敷、七年間暮らしてきた彼女の住まいだった。