10 三者
「花嫁候補としてあなたを南へ連れて行く」
南から来た男──ティガールはそう言った。
それは昨日の午後のこと。
──私は南の領地へ行く。
朝の支度をし終えたレイフェリアは、ルーシーを下がらせて一人で部屋にいた。
結局、昨夜の晩餐にはレイフェリアは参加させてもらえなかった。叔父が「姪は少々混乱して頭痛がするらしいので休ませてやりたい」と言ったからである。
もちろんそんなことはない、叔父があの会見で存在を重要視されなかった事を不快に思っての仕打ちだ。
イェーツは自分が主体となって話を進められなかったので、今度はレイフェリアを蚊帳の外におこうとしたのだ。
だからティガールとはあれっきりだ。しかし、却ってよかったとレイフェリアは思っている。
一晩考えたレイフェリアの気持ちはすでに固まっていた。叔父から唐突な話を聞かされた時は、受け身で承知したが、今は自分の意思で行くという思いが強い。
もう、戸惑いはなかった。
故郷を離れる不安はある。だが、ここにいてもなにもできないことも確かだ。罪を着せられた父の汚名を雪ぐためには、先ずここから出なくてはならないのだ。それに叔父の約束も当てにはならない。約束した念書もまだ貰っていないのだから。
「国王の推挙で花嫁候補になるのだとしたら、私は一応有力な候補と思っていいのかもしれない。正式に婚約者と決まったら、いずれ王都へ挨拶に行く機会もあるだろうし……その時に昔の事件について調べる機会があれば……」
レイフェリアは鏡の中の自分に話しかける。
その顔は数日前、彼女がこの城に来た時よりも明るくなっていた。それは昨日のティガールのむっつりとした顔を思い出しても変わらない。
「……確かに王様のご推挙で、自分の結婚相手になるかもしれない女を決められては不愉快だろう。意志の強そうな人だったし。他に好きな人がいるのかもしれないし……」
嫌われることにはすっかり慣れているから、今更そんなことでレイフェリアは消沈しない。嫌っていても王に義理を立ててレイフェリアを尊重してくれるならよし、もし粗略に扱うなら自分もあの男を軽蔑するまでだ。
──そうなのだけど……なにか忘れているような……。
「あっ!」
思わず声を上げてレイフェリアは鏡を覗き込み、額を打ちつけそうになった。
「獣……獣だ!」
一昨日の夜、幻のような月の光の元で獣を見たのだった。
その前にも叔父が見たという獣の話を聞いている。その時は突拍子も無い話だと思ったので、その獣の姿を想像してなどいなかった。
──でも、もし叔父の話が本当だったとしたら……? あの大きくて縞模様の獣が幻ではなくて、昔、イェーツ叔父が見た獣と同じものだったら……。
鏡を覗き込みながらレイフェリアは考え込んだ。紫の瞳は今は翳り、深い色に沈んでいる。
──獣、獣か。嘘みたいだけど、でも……。
二つの獣には共通する言葉があった。
「南方領主家……」
かつて叔父が獣に襲われたのは南方領主の屋敷の中だと聞いた。そしてレイフェリアが獣を見た夜は、南方領主の後継──あの男が、城に到着したその日の出来事だったのだ。どちらの件も時刻は深更だ。
「これは偶然ではない……かも」
叔父のいうとおり、南方領主家にはもしかしたら何か重大な秘密があるのかもしれない。あの獣は言うなれば、南方領主家の守り神──守護獣とでもいうような存在なのだとしたら?
「守護獣……」
あまり聞かない言葉だが、伝説としてならあったような気がする。
その昔、神の末裔である真国王により四方侯が任ぜられた時、国を守るための特殊な能力や技術を授けられた伝説を父から聞いたことがあった。その力はその家独特のもので、みだりに人に言ってはならない能力であると伝説は語っていた。
現に、それほど特殊な能力と言えるかどうかはわからないが、この北方領主家にも跳躍という力がある。
──だけど、三代に一人出るか出ないかの力だし、能力と言えるほど強い力ではないわ。ましてや国の役になんて立ちそうにもないけれど……もし伝説が少しでも真実を伝えているとしたら? 南の領主家には一族を守る獣がいるなんて、ありそうもない話かしら?
「でもなんの確証もないわ」
レイフェリアは首を振った。ともかく、叔父の話が全くの偽りではない可能性が高まったことは事実だった。
だが、もし彼の話が全部真実だったとしたら、その獣は人を襲い、殺しているのだ。イェーツは自分が襲われそうになり、助けようとした部下が殺されたといっていた。
「……だけど、私が見た獣から殺気は感じられなかった……むしろ私を怖がらせないように、ゆっくり動いたり、身を伏せたりしていたような……単にお腹が空いていなかったのかもしれないけど」
一昨夜のことを思い出そうとしてみても、それ以上はどうしてもわからない。どちらにしてもティガールについて南方へ行かなくてはならないのだとしたら、手がかりも見つかるかもしれないのだ。レイフェリアは獣についてそれ以上考えることを諦めた。
「結局、父上の冤罪のことも獣のことも、いまの私の立場ではなにもできないんだわ」
だからこそ行かなくてはならないと決心したのだ。あの不躾で不思議な男、ティガールの花嫁候補として。
「……」
鏡の中の娘は、急にそわそわとし始めたように見えた。
花嫁候補。
それは夫になるかもしれない男を前にした娘を表す言葉である。
ティガールは真国王に勧められたからレイフェリアと婚約するのだと言った。国の東西南北を治める四方侯の配偶者は、国王の御前で結婚の報告をするのが慣例だ。結婚式を王都であげる領主もいると聞く。
現国王のゼントルムは大らかな人柄で、領主の意向を尊重するというが、例えば自分で見初めた女性であっても、王への報告と承認がなければ正式な婚姻とは認められない。それがこの国のしきたりである。
──それにしてもどうして、アリーナでなく私なのかしら?
あまりよい関係とは言えない北方領主と南方領主の仲を、国王が取り持ちたいならば、現領主の娘であるアリーナをティガールに娶らせる方が効果的だ。
「ああ、そうか。叔父上が……」
アリーナはイェーツの一人娘で、情の薄い彼にしては珍しく大切にしているようだから、王はそこを慮ったのかもしれない。
だとすれば、どういうつもりかわからないが、王はレイフェリアが反逆の汚名を着せられ、自死した前領主の娘であると知っていながらティガールの婚約者に押した可能性もある。
ならば。
──もしかして……もしかしたら救いはあるの……?
いつか再び王都に赴くことがあったら、是非ともゼントルム王に会ってみたい。レイフェリアは強くそう思った。
──そのために私は、あの人の妻にならなくてはいけないのだろうか?
ティガールと結婚することになれば、レイフェリアも王に会うことは必然となる。そう考えると彼女の胸は高鳴った。
「だけど……あの人は私との婚姻なんて望んでいるとは思えないけれど……」
鏡の中の娘は少し悩ましげな顔をしていた。
***
イェーツは面白くなかった。
昨日、南方の客にレイフェリアを引き合わせたが、この城の主たる自分が口を挟む余地が全くなかったのだ。
あの場の主導権は、完全に派手な見てくれの南方領主の息子が握っていた。彼はほとんど口を開かなかったにもかかわらず。
──くそ! あの忌々しい野蛮人と、くそ生意気なじゃじゃ馬娘め!
二人は睨みあうような、惹かれあうような、妙な雰囲気を醸し出し、自分がその場にいないように振舞っていた。従者たちでさえ、彼を見ていなかった。
イェーツは南の領主家が大嫌いだった。現領主である彼の父親も、ティガールと同じように見てくれのよい男だったが、その男はイェーツが密かに恋をしていた娘の心を一目で奪ってしまった。
二人はイェーツの心も知らずにどんどん親しくなり、かなりの歳の開きがあったのにも関わらず、とんとん拍子に婚約を果たした。
イェーツは荒れ狂い、当時の国王が結婚を認めてしまう前に、二人が滞在している王都郊外の広大な屋敷に忍び込んだのだ。娘を攫い、既成事実を作る為に。
そしてあの獣に襲われ、逃げ帰った。
思い出しても腸が煮える。イェーツはぐっと拳を握った。
「落ち着け」
事は概ね自分の望んだように進んでいる。感情だけが邪魔なのだ。
──感情の爆発で事態が良くなったことなど一度もない。俺は常に冷めた頭で、物事の流れを冷静に見極めながらここまでやってきたのだから。そうだ。
正当な領主の血を引く兄が二人も死んでくれたおかげで、三男で腹違いの自分に領主の地位が転がり込んだ。
次兄は若くして病に倒れた。長兄の被った災難は想定外だったが、七年間、真国にひたすら恭順の意を示すことで、次第に制裁の枷も少なくなった。
姪のレイフェリアが嫁せば、豊かな南方の交易品もどんどん入るようになるだろう。そして彼の領主家の秘密を暴く事ができれば、サーザン領主家の力を削ぎ、もっと多くの身内を南方に送り込める。徐々に南方に自分の力を食い込ませてやる。レイフェリアはその布石になるのだ。
──そうとも、犠牲になっても損のない、都合のいい布石にな。
イェーツの口の端が上がる。
「その為にもあの娘をうまく操らねば」
イェーツは書紙を広げると、慎重に言葉を選んで文字を連ね始めた。
***
「主様」
「……」
「主様?」
「……」
「主様ってば!」
「なんだ!」
ティガールは若い従者の呼びかけに獰猛に答えた。
「もう……そんなに落ち込むくらいなら、姫様にもっと紳士的に接すればよかったんですよぅ」
「うるさいぞ!」
「まぁまぁ、お茶をどうぞ。北の地のお茶もなかなかいけますぞ。なにやらぴりっとした風味で体が温まります」
オセロットが、暖炉に向かって背中を丸める主の傍に大きな湯呑みを置いた。
「北国の湯呑みは重うございますな。きっと飲み物が冷めにくいようにできているのでしょう」
「……」
ティガールは応えず、ひたすら暖炉の炎を見つめている。金色の瞳の中に炎が踊り、まるで蜂蜜と金剛石を混じり合わせたようだとオセロットは思った。
「俺は……」
──馬鹿みたいに思い込んでいた。会えば直ぐに上手くいくなんて、どうして勝手に信じてしまったんだろう……考えてみれば彼女は俺を知っていた訳ではなかったのに。
「馬鹿だ……」
炎に向かって漏れた小さなつぶやきを、耳のいい従者が捉える。
「主様、そんなご謙遜を」
「ヒューマ、黙っていなさい」
年配のオセロットが、好奇心むき出しの若い従者の背中を押して部屋から出て行ったが、ティガールは一顧だにしなかった。気がついてもいない。
「……どうすりゃいいんだ」
つぶやきを飲み込んだ炎が笑うように爆ぜた。




