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主様を見たシャイロックは一言もしゃべらなかった。仕方なしにフランフィールは彼に声をかけ続け、心ここにあらずといったシャイロックを孤児院まで送っていった。
祈り手には、主様の偉大さに心を奪われたようです、と誤魔化してしまった。
本当なら誰かに伝えなければならないのだろう。主様の姿を見てあんな反応をする湖岸の民はいない。あんな反応をされて傷つかない民もいない。湖からの客というのがどこまで本当かも怪しくなってくる。
けれど、フランフィールは放っておくことにした。彼の挙動が多少不審でも、湖岸の民に馴染み、よく孤児院を助けているらしいことに変わりはない。そう自分に言い聞かせながら。
本当は主様を気に入ってもらえなかったことで多大なるショックを受けた。
だって主様は、フランフィールにとってはなによりの生きる支えなのだから。
翌朝、シャイロックのところに顔をだす。いつも通りの明るい笑顔が返ってきて、拍子抜けしてしまった。
「昨日はごめんな、びっくりしちゃって」
「そう。元気が出たならよかった」
「ありがとうフランフィール。そろそろ結婚する?」
「お断り」
ぽりぽりとシャイロックがほほを掻く。すっかり元通りで、昨日のことなんかなかったみたいに振舞っている。でもどこかおかしい。
それでも。フランフィールは自分の行動を思い出す。シャイロックは覚えていないだろうけれど、わたしは彼の罪を許すと言った。言葉には責任がある。他の誰が見放しても、シャイロックのことを見放さないようにしよう、と決意を固めた。
睡蓮宮で壁に手をあてていると、いつも通り最後の一人のレーデシェスカがやってきた。昨日遅くなった晩ごはんに付き合ってもらって以来だ。レーデシェスカはいつも晩ごはんが遅れるとそれに付き合ってくれる。
「彼、大丈夫そうだった?」
「朝から求婚された」
「もうすっかり大丈夫ね。主様を初めて見たのなら、驚くのも無理はないわ」
そんなレーデシェスカにまで嘘をついている。いままで彼女に後ろめたいことなんてなかったのに。ちくりと胸が痛むのを感じる。
二人そろって睡蓮宮に入る。祈りと説法の時間が終われば掃除の時間だ。
担当場所で掃除をしていれば、シャイロックを拾った日のことを思い出す。
縁を丁寧にブラシでこすっていると、何故か水がいつもと違う方向に流れていく。
不思議に思う暇もなく、続けて味わったのは浮遊感。
慌てて舟に飛び乗る。フランフィールはどうして自分がそんなことをしたのか分からなかった。分からなかったけれど、目の前の光景に直感が正しかったことを知った。
睡蓮宮の花びらが閉じる。最初はゆっくりと、だんだんと速度を付けて。
あちこちで乙女たちの悲鳴が上がる。
「中にいるものは中心まで来なさい、すぐに! 外のものは湖へ逃げなさい!」
導師と導き手が叫ぶ声が繰り返し聞こえる。慌てて舟の係留を外し睡蓮宮から少し離れる。
呆然と浮き上がり閉じていく花びらを見送る。さっきまでフランフィールはあそこに立っていたのだ。そのままだったらどうなっていたことか。無意識に座り込む。
睡蓮宮が閉じるなんて前代未聞だった。
外にいた乙女たちは岸を目指す。閉じた花びらからはもう声も届かなくなってしまったのだ。導き手も導師もいない。そうなれば、向かう場所はひとつ。王城である。
睡蓮宮と王城には連絡手段がある、ということを乙女たちは知っている。具体的にどうやっているのか分からないものの、シャイロックの時だって舟が岸につくまでには連絡が言っていた。
一番上の乙女たちに従って岸辺に戻ってきたのは24人の乙女たち。岸辺には王城からの遣いが来ており、早々に謁見室に呼ばれた。
シャイロックの件を伝えに来て以来の謁見室だ。フランフィールは年上のほうなので最前列に並ぶ。
王と、大臣、何人かの騎士。それからいつかの丸メガネの学者。
壁際には不思議なことにシャイロックがいた。さざめく乙女たちを大臣は咳一つで止めて見せる。部屋には緊張が走った。
「睡蓮宮が閉じた件については、こちらでも観測しました」
学者が話し始める。ヴェールを被った乙女たちはじっとそちらを見つめる。フランフィールも手を握る力がこもる。
「なにか、前兆を感じた方はいらっしゃいますかな?」
再び乙女たちがさざめく。一通りしゃべるとぴたりととまり、一番前の中央に立つ年上の乙女が手を挙げた。
「誰も、何も。急なことでした。導師様はなんとおっしゃっていますか?」
「彼女も予兆はなかった、と連絡してきました」
「そうか、やはり突然のことなのか」
王が口を開く。王城内では乙女たちがつくまでに散々話したことなのだろう。大臣が代わって説明をしてくれた。
「この件について、我々の見解はなかなかまとまりません。しかし、主様がなにかしら心を閉ざされているのだという点では一致しました」
「まあ」
「主様が?」
ざわめきが広がる。騎士たちも真剣な顔で話に聞き入っていた。意外なことにシャイロックも。大臣はシャイロックを熱心に見つめる。
「湖からの客人。あなたにはなにか心当たりはありませんか」
「残念ながら」
「そうですか。ああ、いえ、過剰に期待をかけたのはこちらですので気にし過ぎないように」
あからさまに肩を落として大臣が続ける。ピリリとした緊張感はフランフィールの焦りを加速させる。
「このままでは、湖岸の民にも不安が広がるでしょう。乙女たちは国中で祈りを捧げてください」
「質問をよろしいでしょうか」
乙女の誰かが手を上げる。揺れる声が不安を伝える。
「はい。なんでしょう」
「いままでこのようなことは、ありましたでしょうか?」
「あなたたちもご存知の通り、ありえませんでした」
ぎり、とフランフィールが奥歯を噛みしめる。
大臣があえて言わないことがある。
睡蓮宮には、食べ物が持ち込めない決まりがある。閉じた睡蓮は隙間がなく、人はおろか物も通せないだろう。そうなれば中の人の命は考えるまでもない。
24人の中にレーデシェスカはいない。その事実だけでも重かった。
フランフィールは手を上げる。
「ひとつよろしいですか」
「はい、なんでも聞いてください」
「主様のもとへ赴くことは許されますか」
フランフィールの質問に乙女たちだけでなく室内が騒然となる。シャイロックだけは訳が分からないと言った顔をしていた。
「あなたは、それでいいのですか」
「わたしは孤児です、悲しむ者は少ないでしょう。唯一の証は睡蓮の乙女になった際に献上しました。乙女として、責務を果たすことは許されますか」
「それで解決できるとは限らないですよ?」
丸メガネの学者が気遣って声をかけてくる。そんなことはフランフィールにだって百も承知だ。でも、なにもせずに祈っているだけでレーデシェスカが帰ってくるとは、睡蓮宮の花が開くとは、主様の心が開かれるとは、そんな楽観的なこと思えなかった。
「構いません。許していただけませんか」
「少し考えさせてはくれませんかね?」
「一刻を争います。すぐに答えを」
シャイロックは目の前で行われているやり取りの意味が全く分かっていないのだろう。分からないなりに真剣な顔をしている。誰かに世話係を頼まなければ。頭の中でメモを取る。
王が重い口を開いた。
「許す。乙女、名をなんと」
「フランフィールと申します。陛下、身に余る光栄を感謝いたします」
ざわりと室内がまた騒がしくなる。当然だ。
この国で主様のもとへ赴くというのは、人柱になるということなのだから。