6
朝、いままでよりずっと早く起きて支度をするのが日課になった。孤児院に顔を出してシャイロックの様子を見に行けば、早朝にもかかわらず彼は起きている。朝焼けを見るのが気に入ったらしい。
「寝ていてもいいのに」
「フランフィールと一緒に居られる時間を無駄にしたくない。結婚して」
「お断り。それじゃまた夕方に」
早足で岸辺に戻り、舟を出す。睡蓮宮までは遠いけれど、フランフィールはこの時間を気にいっていた。巨大な睡蓮がゆっくりと近づいてくる姿は何度見ても壮観だ。
手にできたまめがつぶれ皮が厚くなっているのは、乙女としてきちんとお勤めを果たしている証拠。ときおり嘆く乙女がいるのを知っているけれど、フランフィールにとっては勲章である。
今日も一番乗りで睡蓮宮に近づいたことを確認して、安心する。睡蓮宮の冷たい壁の感触を楽しみながら一日の始まりを待った。
今日の午後のお勤めは歌の日だ。レーデシェスカとおしゃべりをしながら昼ごはんをとる。寮母さんに渡されたサンドイッチは種類こそ決まっているものの、味は確かだ。
「歌の日って憂鬱。今日ってよりによって独唱曲でしょ?」
「レーデシェスカは別に下手じゃない」
「フランフィール。あなたと比べられるから嫌なのよ」
「わたし?」
思わずフランフィールは振り向く。長く一緒に勤めているもののそんなことを言われたのは初めてだった。
「導き手様たちはフランフィールの歌は褒めるけれど私の歌は褒めてくれないもの」
「そんなこと言ったら、レーデシェスカの踊りなんてみんな見惚れてる」
「ありがと、あなたって褒めてくれることもあるのね」
「なにそれ」
「興味がないのかと思っていた」
レーデシェスカの踊りは美しい。睡蓮宮でくるくると回る乙女たちの中で一番と言っていいほど上手だ。軸がぶれないし、羽織が綺麗に広がる。なによりも、その笑顔がいい。
それを説明しようとして、フランフィールは挫折した。言葉がうまくでてこない。
無表情で唸るフランフィールを見てレーデシェスカは笑う。
「まだお互い知らないことばっかりね。あなた、私の踊り好きだったの」
「そう、それ。わたしレーデシェスカの踊りを見るのが好き」
「嬉しいわ。次の踊りのお勤めが恋しくなっちゃった。あのね、フランフィール。さっきは憂鬱って言ったけど、あなたの独唱好きよ」
ぱちんとウインクしながら伝えられて、心の中が温かくなる。主様のためだけに歌っていた歌を褒めてもらえた。主様も気に入ってくださるだろうか。
「ありがとう」
精一杯それだけ返せばレーデシェスカは笑った。ほんとうにレーデシェスカはよく笑う。フランフィールの分まで笑ってくれているみたいだ。
フランフィールはほほを引っ張る。顔の形を変える努力を怠ってきた結果がこの無表情だ。いったい何が気に入ってシャイロックは結婚なんて申し込んでくるんだろう。刷り込みか何かなんだろうか。
お勤めを終えれば真っ先に帰る。いままでは一番最後にゆったりと返っていたものの、シャイロックが岸辺までやってくるのだ。他の乙女たちに求婚されているところなんて見られたくなかった。
慣れた櫂さばきでスピードを上げる。内心で湖の精霊にもっと早くとお願いしながら。年若い乙女の中にはついて来ようとするものもいるけれど、経験で突き放していく。年上の乙女は慎み深いからそんな真似はしない。
「おかえり、フランフィール!」
「どうも」
「今日はプレゼントだ」
「はい?」
花冠が目の前にある。赤色、オレンジ色、黄色。明るい色でまとめられたそれを帽子の上からかぶせられて、フランフィールは呆然とした。
「やっぱり似合う」
にぱっとそれこそ花が咲くようにシャイロックが笑う。似合うも何も、フランフィールはヴェールを被っている。ニコニコと笑い続けるシャイロックには悪気なんて一切なくて、フランフィールは呆然としてしまう。
その間にどれだけの乙女が通り過ぎたのだろう。中にはシャイロックに挨拶していくも乙女もいた。そうしておそらく最後、レーデシェスカがフランフィールの横に立つ。
「あら、素敵な贈り物ねフランフィール」
「それならあなたが貰えばいい、レーデシェスカ」
ようやく出てきた言葉はそれだけだった。内心を誤魔化すように早口になる。そういえばお礼もまだ言っていない。いや、お礼がいるのだろうか。フランフィールは相変わらず混乱している。
「それは困る。俺はフランフィールに花を贈りたくて買ってきたんだ」
「お金はどこから」
「働いていたら溜まった」
「有効に使うべき」
「好きな人への贈り物は充分有意義な使い方だろ」
「そのとおりね、いいこと言うわあなた」
正直に言えば、この贈り物はフランフィールにとって嬉しかった。
フランフィールが花を好きなことなんて知っている人はほとんどいない。花冠が一番素敵なんて誰に言っただろう。子供のころから孤児院の中庭で何度となく花冠を作って遊んでいた。
孤児院。祈り手がフランフィールの子供時代について語ったのだろうか。さあっと顔から血の気が引いていく。
「ただ花を贈るだけじゃ面白くないから、子供に習ったんだ。よくできているだろう?」
「見えないから分からない」
「帰ったらじっくり見てみて。ついでに俺のことも考えて」
近頃のシャイロックは手を変え品を変え直接求婚してくることが少なくなった。その代わりに、こうして贈り物を渡したり意味深なことを言っては帰る。
睡蓮の乙女たちはすっかり彼の存在に夢中で、中には直接フランフィールに世話係を代わってくれるよう頼むものすらいるくらいだ。導師に直接頼むようと言えばたいてい引き下がるのだけど。
「それじゃ、また明日。フランフィール」
「あら、私には挨拶もなし?」
「俺一途なんだ。ごめんね乙女さん」
「冗談よ。ほどほどにしてね、フランフィールが乙女たちにいじめられちゃう」
結局お礼も返事もしないまま、シャイロックが帰るのを見守っていた。
花冠を外す。手のひらほどの花がいくつも重なったそれは、決して安くはないだろう。なんでここまでしてくれるのか、フランフィールにはさっぱり分からない。
「フランフィール。今日は機嫌がいいのね」
「花に罪はない」
「そう。あなたの基準って難しいわ」
部屋に帰って帽子を外し、花冠をかぶってみる。鏡を覗きこむ。
波打つ藍色の髪の上に乗せられた華やかな花冠は、水辺に浮かぶ花々のようだ。フランフィールの気分が高揚する。花に罪はない。この贈り物はありがたく貰うことにしよう、とベッドサイドの小さな机の上に飾った。
お礼をしていないことに気付いたのは次の日の朝だった。
いまさらお礼なんてどんな顔して言えばいいのか分からなかったフランフィールは何事もなかったように孤児院へ向かう。
「おはよう、シャイロック。今日の具合は」
「おはよう、フランフィール。あんたの顔が見れて絶好調だよ」
「そう。それじゃ」
「結婚については考えてくれた?」
「うん。お断り」
がっくり肩を落とすシャイロックの様子が面白かった。
湖を覗いてその様を思い出し笑いそうになる。すぐに、気が緩んでいると奥歯を噛みしめた。睡蓮の乙女の仕事でシャイロックの相手をしているだけ、そう自分に言い聞かせながら睡蓮宮へと向かう。