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夕方、睡蓮宮でのお勤めを終えて孤児院に顔を出せば、祈り手が少し困ったように笑っていた。どうやら本格的に熱をだしたらしい。一応部屋を覗いたものの、シャイロックはぐっすり眠っているようなのでメモを残して帰った。
眠っているシャイロックはやっぱり綺麗な顔をしていて、フランフィールは心の底から残念な人だ、と思う。
ゆっくり休んで、早く良くなるように。それだけ書いた簡素なものだけど、フランフィールがきちんときた証拠になるだろう。
祈り手に頭を下げて寮へと帰る。すっかり日は落ちていた。
朝、顔を出したが意識が混濁しているのかフランフィールが来たことにも気づかない様子だった。
小さな声でなにか呟いているので、苦しいところでもあるのかと思い近寄ればシャイロックはひたすらなにかに謝罪をしていた。
「ごめんなさい、ごめん、なさい、ごめん……なさい……」
あまりに苦しそうなので、睡蓮の乙女としては放っておけない。つい包帯の巻かれた左手をとり口を出していた。
「あなたの罪を許します。ゆっくりと休みなさい」
いつか聞いた祈り手の言葉をなぞっただけだけれど、それを聞いたからか、苦しそうに寄せられていた眉が元に戻る。呼吸も正常に戻った。
シャイロックの罪とはなんだろう。フランフィールは気になったものの、熱で浮かされた人の言葉を蒸し返すのはよくないと思い心に秘めておくことにした。
結局シャイロックは三日三晩寝込んだ。
四日目、フランフィールが睡蓮宮での務めを終えてほかの乙女たちと舟で帰ってきた時だ。
岸辺で大きく手を振る青年がいた。夕日に照らされて短い銀髪が眩しい。年若い乙女たちがその姿を見てそわそわと話をしている。レーデシェスカですら、フランフィールとのお喋りを止めてしまったくらいだ。
嫌な予感がひしひしとした。
「フランフィール!」
名前を呼ばれて、乙女たちの視線が集まる。
いたたまれなくなって舟を漕ぐ手を早め、岸辺のシャイロックの元へと早足で向かう。
「病み上がり。ここでなにを」
「あんたが帰ってくるのを見に。おかえり、フランフィール」
「どうも」
おかえり、とは寮母がいつも言ってくれる。でもシャイロックから言われるのはなんだか違うような気がして、ただいまとは返せない。
その間にもぞくぞくと乙女たちが岸へとたどり着く。小さなさざめきは止むことがなくフランフィールの居心地は悪くなる一方だ。
「それじゃ、帰って」
「残念、道が分からないんだ」
「……送っていく」
観念して歩き出す。シャイロックは慌ててついてきた。なにが楽しいのかにこにこと笑みを絶やさないで、もう閉まりつつある商店街をあちこち覗いてふらふらとする。
子供みたいにあれはなに、これはなにとシャイロックの足はとまる。そのたびにフランフィールは簡単に答えて彼を急かす。
孤児院までの道のりは普段の三倍ほどかかった。
「シャイロック。大人しくしていて」
「それは無理だ。だって楽しそうなものがたくさんある」
「それじゃ、子供たちに教わればいい」
「俺はあんたと話したい。今日はデートみたいでよかったな」
デートと言われて一瞬胸が跳ねたのは気のせいだ。
フランフィールは思わず半眼になる。
なにを言っても青年の前では効かないみたいで、この分では今日の晩ごはんも一人で食べる羽目になるだろう。
「わたしにも生活がある。明日はここに来るから岸辺にこないで」
「それは嫌だな。フランフィールがまっすぐ俺のところに来てくれる喜びを知ってしまった」
「それじゃ、会ったら自分で帰って」
「道が覚えられなかった」
思わず絶句する。風邪で寝込んでいたときの殊勝さは一体何だったのか。突き放して無視をしようかと思ったものの、湖からの客である、というシャイロックの立場を思い出す。失礼のないようにしなければならない。
仕方ないので、青年に懇願する。岸辺に来てもいい。でも帰りが遅くなると寮母が心配する。だから、自分で帰る努力をしてほしい、と。
「フランフィールはいまからまたあの岸辺に行くのか?」
「わたしの生活の場所はそこだから」
「女の子の夜歩きは確かに危ない。頑張って道を覚えるよ」
どうやらシャイロックはフランフィールもここの孤児院に暮らしているものと勘違いしていたらしい。それを正せば、きちんと納得してくれた。言葉が伝わるって素晴らしい。フランフィールは主様に感謝した。
寮に帰れば興味津々といった乙女たちがあちらこちらに待っていた。それらをかわして晩ごはんにありつく。レーデシェスカがお茶を入れてくれた。
「乙女たちの目の色が変わっているわ。みんな彼に夢中みたい」
「あんな残念な生き物に?」
「フランフィールは本当に睡蓮の乙女らしい乙女ね。他の子だったらいまごろお勤めに手が付かないで駆け落ちまで考えちゃうところよ」
「信じられない」
レーデシェスカが笑う。そんなに残念なの、と聞く彼女についざっくりと求婚されていることを伝えた。面白そうに聞いていたレーデシェスカが両手を上げる。
「フランフィールの鉄壁が健在でよかった、と言うべきかしら」
「どうして?」
「乙女が欠ければお勤めが増えるもの。それにしても湖からの客、ね」
初耳だけど面白そう、とは彼女の感想だ。フランフィールはちっとも面白くないので半眼で返す。軽く謝罪されて、頭を撫でれらた。
「あなたにとっては不満でしょうけど、私ちょっと安心しているの」
「なぜ」
「あなた、自分のことは一番後回しなんですもの。大事にされればそれも変わってくるかなって期待しているのよ」
だから彼の味方、とレーデシェスカが笑う。思わずフランフィールは渋い顔になる。一番の友人だと思っていたレーデシェスカに裏切られるなんて。
「でも結婚云々はフランフィールの味方。好きになさい」
「当たり前。わたしは導き手になるの」
「どっちに転んでも、私はフランフィールを応援するわ」
髪をすく手が優しい。相変わらず湖の精霊みたいにきれいね、と褒められた。同い年だというのにレーデシェスカはまるでお姉さんのような態度をとる。それはフランフィールにとって当たり前のことで、でも今日だけは不満だった。
ころころと笑うレーデシェスカは、導き手には私の方から説明しておくと言ってくれた。慎ましやかであれと言われる乙女に、場所を考えずに求婚する湖からの客。どちらを優先するかは導き手が判断するだろう、と。
「わたし、乙女をやめたくない」
「そこもきちんと説明するわ。大丈夫、あなたの不利になることはしない。信じられない?」
「レーデシェスカは信用している」
「ありがと」
翌日の掃除の時間、フランフィールは導師に呼び出された。湖からの客は大事にしなければならないけれど、過剰にもてなす必要はない、と。
「しかし、いまいる乙女の中であなたが最も適しているのも確かなのです」
どうやら昨日のちょっとした騒ぎはすでに導師の耳に入っていたらしい。
フランフィールはふらふらとなびかないところが評価されているそうだ。本当に嫌だったら祈り手に一任するから、と続けられてフランフィールは深く礼をする。
「わたしのお勤めは主様に仕えること。ご期待に副えるように努力します」
導師は目を閉じて頷く。フランフィールの日常には、シャイロックが加わったまま進んでいくことになった。