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 湖には主様が住んでいる。

 ここ、湖岸の小さな国では小さな子供でも知っていることだ。フランフィールも幾度となく話を聞き、実際に主様の影を、姿を、御業を見ながら育ってきた。


「いつか主様につかえる」


 それが子供のころのフランフィールの口癖だった。同じ孤児院の子は笑ってそんなの無理だよってあっさり否定する。保護者の祈り手ですらなれるといい、としか言わなかった。


 主様はとても大きなお方で、まれに跳ねると湖には大波が立つ。

 そんなときは町の大通りまで水があふれて大騒ぎになる。主様がご機嫌だとみんな喜んだ。

 日に照らされて真っ白に輝く鱗、七色に反射するヒレ、流線型の美しい形。

 主様の存在は湖岸の民にとっての誇りだ。


 主様の御業もまた美しくそして繊細だった。

 湖岸より手漕ぎ舟で一時間ほどかかるその場所はフランフィールの仕事場でもある。

 遠目に見れば水に浮かぶ一輪の睡蓮のように見えるが、近づけば半透明のピンク色のそびえたつ壁そのものだった。触れれば固くひやりと冷たい。


 フランフィールは外輪の花びら部分に舟をよせ、そっと手を添えてその感触を味わう。


「フランフィール、今日も早いわね」

「レーデシェスカ。当たり前。だってここに来れるんだもの」


 湖岸の民はここを睡蓮宮と呼ぶ。

 巨大な半透明の睡蓮は自慢であり、また祈りの場でもあった。

 フランフィールは物心つく前からこの睡蓮宮に憧れていた。ほんの一握りの少女と指導者しか入れない、神聖な地。少女は睡蓮の乙女と呼ばれ、指導者は導き手と一番格上の導師だけである。女性だけで固められた、信仰の地。


 藍色のズボンにワンピース。同色の後ろに長い布をつけた白い刺繍入りの帽子。白を基調とした、裾や袖、襟元に藍色のラインが入った羽織り。着るものの色合いこそ地味だが、睡蓮の乙女は湖岸の少女の憧れである。


 フランフィールが周囲の否定を跳ね返して睡蓮の乙女の役についてから5年となる。睡蓮の乙女となってから一度たりとも遅刻せず誰よりも早く通い続けたのはひとえに彼女の信念だった。

 ただ、主様に仕えたい。それだけを頼りにフランフィールは生きている。


「さて、私が来たってことは朝の説法の時間が近いってことよ」

「分かっている。舟は係留してあるから、中に入るだけ」

「なんだか毎朝フランフィールに歓迎されているみたいで嬉しいわね」

「レーデシェスカはもっと早く来た方がいい」

「その綺麗な目で睨まないでちょうだい。可愛いのが台無しよ?」


 睡蓮の乙女の一日は睡蓮宮の中心に集まり祈るところから始まる。それが終われば導き手の説法だ。


 帽子を取り、波打つ藍色の髪を整える。レーデシェスカに褒められたということは、今日もフランフィールの目は水の色をしているのだろう。彼女は自分が乙女に選ばれたのはこの髪と目の色のお陰だと思っていた。

 帽子をかぶり直し、羽織りの襟を正す。睡蓮宮に入る前の癖のようなものだ。


 そうしてそっと花びらに飛び移る。

 今日もいつもどおりの一日が始まる。目を閉じて花びらをもう一度撫でる。なにごとも変わりなく滞りなく進みますように、と祈りながら。




「今日も主様の睡蓮宮が美しく保たれるように、湖の精霊の声に耳を傾けましょう」


 決まり文句となっている掃除の開始の挨拶を受け、担当場所へと向かう。水の傍は藻が生えやすい。外側の花びらの根元から、開ききった花びらの上、三枚ある睡蓮の葉を分担して掃除をする。

 一年につき5人、6年までしかいられないの乙女たちは常に30人しかいない。巨大な睡蓮のあちらこちらをどれだけ頑張って掃除しても汚れは消えないのだ。


 フランフィールの担当は花びらの上だった。ブラシを片手に水辺の汚れを落としていく。花の付け根のところは隙間になっていて、なかなか藻が落ちない。


「ごめん、ここは主様のための祈りの場だから」


 水をかけ、藻を湖に返していく。

 さて、次の花びらにいこうかと舟に手をかけたときだった。

 後ろからザバッ、と派手な水音がする。さてはだれか落ちたか。この季節はまだまだ水中は寒い。

 慌てて振り向く。


 そこにいたのは青年だった。体半分乗り出したものの、そこで力尽きたのか足がまるごと湖に浸かっている。男子禁制の睡蓮宮にどうやってきたのか。不安に感じながらも青年を引っ張り上げる。

 かなり重かったものの、主様の湖で溺死なんて許されない。


「うわあ」


 目を閉じている青年は銀色のきれいな髪をしていた。朝日に反射して眩しい。主様の真っ白にはかなわないものの、髪が短いのが惜しいとフランフィールは本気で思った。

 まわりを見渡す。舟のようなものはない。先ほどの不安がどんどん大きくなってくる。この青年は一体どこから来たのだろう。

 それから、包帯。青年の左手にはぐるぐると固く包帯が締められていた。怪我でもしているのだろうか。

 慌てて青年を揺さぶる。

 もし水を飲んでいるのなら吐かせなければいけない。


 ぴくりと指先が動いた。生きているようでまずは安心する。

 ゆっくりと開いていく瞳は見たこともない深い紫色をしていた。多分こういうのを宝石のような、というのだろう。よくよく見れば青年は町にでれば騒がれそうな整った顔をしている。


 彫が深いというのだろうか。目鼻立ちがしっかりしているし、これまた銀色のまつげが長い。孤児院の女の子なんかが見たら王子様か精霊だと騒ぎ立てるに違いない。

 そういったことに疎いフランフィールですら、一瞬息をのんだほどなのだ。


「大丈夫? 息はできている?」


 じっと顔をのぞき込む。不審者だったらどうしようと思うものの、睡蓮宮にそんな不敬な輩は入れないだろうという不思議な安心感もあった。特にここは立ち入り禁止地区。舟もないのなら、少し離れたところから流れてきただけかもしれないし。

 青年が浅く息をする。フランフィールはじっと彼の言葉を待った。


「お、俺」


 言葉は通じているようだ。


「あなたは睡蓮宮に流れ着いたみたい。起きられる?」


 顔にかかる髪をのけてもう一度ゆっくりと聞く。紫色の瞳は呆けたようにフランフィールを見上げて、そうして息を整えていく。青年はゆっくりと起き上がり、まっすぐフランフィールを見た。


 さて、彼はどんな事情を抱えてこの場所にたどり着いたのか。導き手の皆に報告しなければ。フランフィールは彼の言葉を待つ間、今後のことを目まぐるしく考える。今日はちょっとばかし厄介な日みたいだ。


「あの」

「はい」

「俺と結婚してくれ」

「は?」


 訂正しよう。今日は随分と厄介な日みたいだ。

 正気に戻っても発言を撤回する気のないらしい青年を前に、遅まきながらも帽子からヴェールを取り出してかぶり直す。睡蓮の乙女はたやすく顔を見せてはいけなかったのだ。


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