SS集
男の子たちは、少女が背負っていたランドセルを後ろから蹴飛ばした。少女は前へと倒れ、駐車場のコンクリートに体をぶつける。汚れた赤色のランドセルから、教科書や色えんぴつが跳び出す。使わない色えんぴつはどれも長いままだ。
女の子は無言で教科書を拾って、汚くなったランドセルに入れる。それ以上は乱暴なことも出来ず、男の子たちはゆっくりと遠ざかった。
最後に、外れてしまったキーホルダーをランドセルに付け直してから、少女は歩き出した。薄青の空と春色のスカートは駐車場に似合わない。
薄青の空が頭上で光っている。その青と全く不釣り合いな鉄の骨組みが、灰色シートに包まれた状態で立っている。工事の音がカンカン鳴り、現れる火花はすぐに消える。都会では建設中のビルを気にする人間なんて一人しかいないのか。
俺は会社に着く。エレベーターで駆け昇り、スーツを曲げて自分のイスに座り、パソコンで資料を作り始める。外は寒い風がこたえるが、暖房が効き過ぎている会社も良くない。これならオープンカフェで仕事をした方が良い。
くだらないことを想っているところで、同僚が気楽な装いで声をかけてきた。
「なあ、考え直したほうが良いんじゃないか?」
俺は無視をしてパソコンと向き合い続ける。最初の頃は親切に答えたものだが、今では愛想笑いも浮かべずに無視を通すほど、無鉄砲な男を演出できるようになった。
同僚が自分のデスクへ戻っていくのを足音で確認して、安心した。
コピー機の動く音が聞こえる。紙をめくる音と混ざり、雑音となって耳に押し寄せてくる。雑音はつまらないクラシックや人の言葉よりも好きだ。何かを強制することなく音を奏でて、意味のないものとして続いてくれる。
少女は美しいランドセルを背中に輝かせ、真夏の坂を駆け下りたところだった。
息を切らしても笑顔を消さずに、走るスピードを上げていく。住宅街を通る小さな車、横切った公園で鳴いていた蝉の声、自らの足、全てが合わさって夏の雑音が生まれる。迫りくる熱を全身に受けながら住宅街の路地裏を突っ切る。
学校が終わり、彼女は待ち合わせの場所へと急いでいたが、いつもの癖で細い両足は回り道を選んでしまう――――回り道は、真夏の太陽にも負けないくらい輝いている迷路だ。小さな路地裏は狭ければ狭いほどドキドキして、知らない場所に来れば、全ての想像が具現しそうな予感を覚える。
少女が背負っているランドセルには、四つ葉のクローバーをあしらったキーホルダーが付いている。
四つ葉のクローバーはラッキーだと、誰かが言う。だが見慣れている三つ葉のクローバーをラッキーだと思う人はいない。彼女は四つ葉のクローバーが半分に欠けていても構わなかった。
回り道の迷路を楽しんでから、都会の中でひっそりと営んでいるオンボロの喫茶店に着いた。待ち合わせの相手はそこにいた。時間の十分前に到着した少女よりも早く彼は来ていたようで、小学生らしくない雰囲気で喫茶店の前に立っていた。
「あ、俺のキーホルダー付けてんだ」
声だけは子供らしかった。彼の言葉に、少女は頷いた。四つ葉のクローバーは彼がくれたものだ。
「ありがとう。キーホルダー」
少女は頑張ってそう言った。
しかし彼は聞いていないのか、口を開けたまま喫茶店の大きな窓を見ている。
無視をされた気がして嫌だったが、少女もまた、窓の向こうにある喫茶店の中を見て立ち尽くした。
窓から見える喫茶店のお客は、穏やかな顔で薄茶色のテーブルを囲み、よく磨かれたコーヒーカップを持ち上げている。夏の太陽がコーヒーカップの白と合わさり、宝石に似た輝きを放つ。
喫茶店の中は迷路の魅力があった。そして二人で入らなければいけない、二人じゃないと迷路ではなくなる、小学生二人ではドアを開けることも無謀だった。
仕事が終わり、俺は都会の交差点を通って家に着いた。帰りの途中で見た建設中の建物はやはりビルになるらしい。
今日は同居している親に色々なことを説明して、明日からは荷物整理をしなくてはいけない。夕食の後に自分の考えを言った。
「考え直しなさい。だいたい、家を離れるって」
母親が必死な顔でテーブルの向こうに座っている。
母親が持っているコーヒーカップを見ながら、俺は素直に言った。
「俺は説得してるわけじゃないよ、説明してんだ」
「あなたは子供じゃないでしょ。もう少し考えたらどうなの」
素直に逃げろと言えば良いのに。
昔から迷ったことなどなかった。どんなお菓子を選ぼうか、どんな映画が面白いだろうか、くだらない迷い事はしょっちゅうだ。しかし大切なことは迷えなかった。
他人や親から見れば、どうやら俺の平然とした顔が気に入らないらしい。
結局は親の反対を押し切る形で終わり、シャワーも浴びずに部屋のベッドへ体を預けた。一瞬で真っ暗闇を迎えてから時計のアラームで目を覚ました。部屋のカーテンが閉まっていたため、朝になっていたことにしばらく気付かず、慌ただしくスーツを着て家を跳び出す。朝食を食べる暇すらない日常が、朝を迎えることの驚きが、俺を狡猾に考えさせようとする。
会社に着いた。おそらくこの後も、家に着き、会社に着き、くだらないことに少しだけ優越感を持ち明日を迎える。パソコンを見つめる頭の中では、真っ黒な渦が生まれていた。
同僚の足音が段々と近付いてきた。そして言葉が聞こえた。
「よう。やっぱりアレは決心したのか」
アレ、というのが冷たいから、壊したいと思ってしまった。
パソコンの電源を落とす。隣にいる同僚を睨みつける。同僚は未だに笑っていたが、次の時には倒れていた。自分の手が彼の茶色いネクタイを掴み上げ、そのまま首を締め上げていた。
静かな歩みを止めないでデスクの並ぶ迷路を突き進んでから、エレベーターで地上へと降りる。ネクタイを解くと、首筋に冬の風が入ってきた。
運良くタクシーを拾い、暖かいのか冷たいのかよく分からない車内に体を潜らせる。シートの感触が何故か新鮮だった。
運転手が言う。
「どこへ?」
「走っててください。お願いします」
少女は季節を意識したピンク色の靴で、学校の廊下を歩いていた。
水彩の絵が廊下の壁にたくさんあった。旅行の思い出を描く宿題が冬休みにあって、春になった今でも飾られている。山や海などの自然の風景、家族の笑顔、中にはタクシーの絵まである。どれもあまり上手くない。
少女は無表情でその絵を見ていた。彼女は絵を描かない。それだけで他人は不幸だと決める。
涙を目に溜めたまま走り出す。ピンク色の靴がパタパタと音を鳴らす度に、汚いランドセルに付いている四つ葉のキーホルダーは揺れた。
玄関に置いてあった、季節外れのピンク色の靴をしまう。その間、私は高校生の頃のエピソードをふと思い出した。
高校生の時、学校が終わってから待ち合わせをして、特に行き先も決めないデートをするのが私たちの日課だった。
彼は無愛想な顔でいつも話してくれる。私は愛想笑いをしながら、彼がどのくらい私のことを好きなのか計る。小さい頃から知っている彼が、私を嫌いになる瞬間をずっと恐れている。時計の針の動く音を、眠れない夜にじっと聞いているのと似ていた。
あなたから見ると私はどう映っているのだろう。彼はいつになれば、私の魅力がどこにも存在しないことに気付いてしまうのだろう。あの頃から私は疑っていた。
いつかの帰り道、都会らしいビルの並んだ場所で私たちは学校行事について話していた。紅葉の木々のアーチで飾られた道は、枯れ葉の絨毯が続いていて、すぐ近くに都会があることを忘れさせる。秋を感じるのはやはり真っ赤な葉だ。
彼は急に立ち止まり、遠くに見える小さな空地に目を向けた。
「喫茶店があったところだよな、あそこ」
彼が独特の冷たい声で言った。
確かにあの空地には、私たちが中学生の時によく寄っていたボロボロの喫茶店があった。
喫茶店はたとえボロボロでも私たちにとっては憧れの場所だった。
彼はいきなり告白した。
「あそこにビルが建ったら結婚しようよ」
「何それ」
「お前がそんなんだから、こんな感じでしか言えないんだよ」
彼は高校生らしくない疲れた表情で、しかし唇だけは不敵に吊り上げて私を見つめてくる。何がそうまでして私にこだわるのだろう。
高校に入ってから不良と仲良くなり、危険なことをたくさんした。成績は悪く、大学にも行けないかもしれない。家がお金を持っておらず、それだけで世界が暗く見える。趣味もない、つまらない生き方をしてきた。
何も出来ない最低な女を、彼は宝石と勘違いしている。
彼の横顔はビルとビルの間から吹き出す風に彩られ、一段と大人に見えた。私がどこに行けば良いのか分からない時に、彼はいつまでも景色の水平線を見ている。あの日から私は、彼と一緒にあの空地を見るのが怖くなった。私にどうしろというのだ。
彼が社会人になっても、彼は私を捨てなかった。私は実家で家の手伝いをしているだけの、永遠のバイト暮らしだ。友達もいない、家族からも冷たい目で見られている。大学に行けないという理由だけで近くの人の見方はここまで変わるのだと、称賛すら送りたくなる気持ちに最初はなった。
玄関の掃除を終えて、私は料理を始める。途中でエプロンのポケットに入れていた携帯電話が鳴った。
「あそこの空地、やっぱビルになるみたい。工事してるの見た」
電話の向こうで、彼はいきなりビルの話を始める。
私はそれが何を意味しているのかすぐに気付いたが、馬鹿馬鹿しいと思って平然な態度を保った。
「喫茶店だったところの? それがどーしたの」
「分かってるだろ。すぐに無理なら一緒に住むだけでいい」
彼はここまで頭がおかしかったのか。笑えずに、握りしめていた包丁をとりあえずまな板に置き、震える息遣いを無理に押し込んだ。
「からかってるの?」
「俺が嘘言ったことなんてないだろ」彼が嘘を付いたことは何回もあった。「お前は俺と結婚したくないのか」
「迷惑かかる」
「結婚したくないのか」
「結婚したい」
私は泣いていた。彼は迷路を壊しながら進む人だということを遅れて知った。褒められたことではないけれど。
エプロンを外して、リビングのテーブルに体を支えてもらいながら聞いてみた。
「今どこにいるの?」
「タクシーの中。今日は休みにした、何か食べに行こう」
タクシーの中で告白している彼をイメージして笑った。
家のベランダから景色を覗けば、曇天が笑っているように見える。もうすぐ雪が降るかもしれない、こういう日には雪でも降ってほしい。私は部屋に飾ってあるクローバーのキーホルダーを取りに行った。
喫茶店の代わりに生まれたのは駐車場だった。途中までビルが建つ予定だったが、何かの理由で結局は空地に戻り、そこから面白くもない小さな駐車場ができた。
少女は汚いランドセルを駐車場のコンクリートに置いて、泣き始めた。空では曇天が銀に輝いていて、それが少女にとってはとても寂しく映ってしまった。
時間が経ち、夕暮れの真っ赤が駐車場に入ってくる。女性の影がそこに映った。
「探したわよ。どうしたの、こんなところで泣いて」
「お母さん」
少女はランドセルを持って立ち上がった。クローバーのキーホルダーが揺れた。
「何かあったんでしょう。言ってみなさい」
「絵描きたくないって言ったら、友達が蹴った」
「描かなかったの? 宿題だったじゃない」
「描きたくない」
少女の母親はため息をついた。絵を描きたくない子供も珍しいと他人事のように思ったからだ。
「あなたはお父さんにそっくりね」
母親は少女の涙をゆっくりと手で拭った。励まそうとはしない、彼女はもう進んでいるらしい。
「描きたくなかったら描かなくて良い、どっちでもいいわよ」
そう言ってみると、少女は可愛らしい顔をしかめて考えてしまう。最後の最後に考えてしまうのは、自分に似ていると母親は思った。
「今日は遠回りをしよっか。私しか知らない道」
母親がそう言って笑うと、子供も少しだけ笑顔を見せた。
二人は駐車場を出た。彼女のランドセルには四つ葉がくっついている。
歩いている途中、少女は振り返る。あるのは動かない駐車場だけだった。桜のアーチの道を二人は歩いてどこかへ消えた。