若葉下駄箱考
さて、僕の名前はよく「カッコいい名前だね」とか「平安貴族みたいだね」とか言われるが、僕自身はそこまで気に入っているわけではない。名前はともかく、名字なんてモノは少なくとも今の僕では変えられないのだからしょうがない。将来婿入りでもしたら別だろうけど。
しかし、多分におどけた感じのこの名字があまり気に入っていないのも事実で、大体、この装飾過多気味な名前をつけた両親も両親だ。当人達は割と普通の名前を持っているので、きっと面白がっていたに違いない。こうして世の中の人が読めない名前が増えていくのだ。全く度し難い。
……勿論、ここまでの話はどうでも良い事だ。聞き流してくれても構わなかった。いや、ほんと。
ところで前述した通り、僕の名字は比較的珍しい。断じて「中島」ではない。しかし僕の目前にある上履きの中敷きには「中島」と書いてあるのだから、こいつは不思議だ。断っておくと、別に中島を卑下しているわけではない。本当だ。
どういう事だろう。僕の名字はいつの間にか「中島」になってしまったんだろうか。当然そんなはずはない。多分。さて、どうしたものか。
取りあえず僕の下駄箱から一番近い、同じクラスの「中島」の下駄箱を探す。ひょっとしたら入れ間違えたのかも知れない。指でなぞりながら三つほど確認すると、どうもさっきから隣で坊主頭をしきりに引っ掻いている彼がそうらしい。日焼けしているにも関わらず顔色も悪いし、きっと昨日はひどく疲れていたのだろう。挙動もおかしくなるはずだ。下駄箱を間違えたのも忘れてしまったに違いない。
「中島?」
「え?」
緩慢な動作でこっちを見た彼の目は、若干潤んでいるように見えた。
「これ、君のじゃないかな」
上履きを差し出すと、彼はのろのろと受け取った。中敷きに書いてあった名前を確認し、上履きを持っていない方の手でまた頭を掻いた。
「……ああ、僕のだ」
「良かった。僕の下駄箱に入ってたんだ」
「お前の下駄箱に? じゃあ、お前の上履きは?」
……やれやれ。
「貴方もですか」
和倉葉若葉(わくらばわかば)は、いつも通り曖昧な笑みを浮かべていた。
今日も今日とて、くしゃくしゃ、というよりはふわふわの髪の毛が風に吹かれて揺れている。小柄な体躯には最小サイズのブレザーがぴったりで、割と健康的な色をした顔には無表情以上アルカイックスマイル未満の絶妙な微笑みを浮かべていた。大体いつもこんな表情なのだ。流石に中島の顔色が如何に悪かったかという部分では少し目を落としていたが、それでもやっぱり微笑んでいたのだから、多分そういう風になっているのだろう。
「そういう事だよ。いやまったく、悲しい話だ」
僕は答える。実際とても悲しい話だ。いや、中島の事ではない。入学からこっち、ずっと付き合ってきた上履きだったのだから。
「それで、上履きは見つかったんですか」
「当然まだだよ」
僕は、ちょっと足をあげ、校名が入ったスリッパを見せた。足を戻すと、緑色のスリッパはぺたんと情けない音を立てた。そして、こんな状況になってしまったのは僕だけではない。
学校中の上履きが取り替えられていたのだ。さすがに生徒全員分ではないようだが、かなりの量の上履きが違っているらしい。しかもランダムらしく、一年生男子の下駄箱に三年生女子の上履きが入っていた、なんて事もあったようだ。無記名の上履き同士が取り替えられている可能性もあるので、サイズの違いが無ければ気づいていない幸せ者も居るかも知れない。面倒極まりなかったが、さらに二時間目が潰れて全校集会になる始末だ。生活指導主任の神経質な声を聴き続けた結果、勿論犯人は現れなかった。まあ、あのねちっこい性格の生活指導主任が五分保たずに「もういい」と折れたのだから、犯人探しは諦めているんだろう。嘆かわしい話だ。犯罪に屈しているのだから。正確には犯罪未満悪戯以上といった所か。
そして、少なくとも僕の上履きは行方不明である。道理で朝から昇降口が騒がしかったはずだ。……中島に会うまで気づかなかったけど。
「名前は書いてなかったんですか?」
若葉が聞いてくるが、僕は首を横に振る事しか出来ない。持ち物には名前を書くべし、という教育が間違っていなかった事が証明されたが、後の祭りだ。
「それじゃ、見つからないかも知れませんね」
彼女はのんびりとそう言った。まあ、確かにそうかも知れない。正直なところ、無記名の上履きが無造作に放り込まれた「落とし物」と書いてある棚を見てきたのだが、いかんせん量が多過ぎてお話しにならない。同じ場所を一緒に見ていた生徒の大半も、僕と同じ事を考えていただろう。もちろん、開き直って適当に選ぶような暴挙に出る勇気もない。
「帰りがけに新しいのを買っていくよ」
僕がそう言うと、若葉はちょっと髪の毛をかきあげてから、きょろきょろとあたりを見渡した。確かに、少し長くなってきたかも知れない。
「結構いますね」
「何が?」
「スリッパです」
僕も周りの足下をちょっと見てみたが、確かにスリッパの奴が結構いる。大半は僕と同じく、上履きに名前を書いていなかった哀れな被害者なのだろう。自業自得とも言うけど。
若葉の足下に目をやると、白い上履きがきっちり履かれていた。ぬぬ。
「ほら、あれかも知れないじゃないか。えーと」
せっかくなので、考えてみる事にしよう。僕にだって考えられる事があるかも知れない。
目の前の若葉は、曖昧な笑みのままタンブラーからコーヒーを啜っている。彼女はこういうちょっとした問題を解くのが趣味なのだが、今回はまだ特に何も言っていない。
「……上履きを卸している店の人が、売り上げが減ったのを苦にして大量の上履きを買いに来させようと、とか。僕みたいに名前を書いてなかった奴は多いぜ」
「なるほど」
若葉は軽く首肯した。が、声は少なからず冷めていた。ありえないとは言い切れないだろう。確率で言えば、天文学的な話にはなるけど。
「でも、それだと名前のある上履きまでごちゃごちゃになる理由が分からないですね。それに、その場合はごちゃごちゃにする面倒をかけるより、全部持っていってしまった方が効率的です」
「そう……だね」
いや、本気で言っていたわけではないのだ。本当に。若葉はまたタンブラーを傾けているが、あの中はアイスコーヒーなのだろうか。欲しい。僕の麦茶はとっくに無くなっている。
何せ頭上には太陽が燦々と輝き、雲なんて奴は太陽を避けて空の端に大きく集まり、学校の横にある雑木林の向こうに入道雲を形成している。「涼しい」とはほど遠い、真夏の天気である。
若葉は体温調節機能が壊れているのか、ブレザーまで着ているのに一粒の汗もかいていないが、こちらはワイシャツ一枚にも関わらずもう汗だくだ。
こういう奴だから急に「ちょっと場所を変えませんか?」なんて言えるのだ。いくら給水塔なんかで陰があるとは言え、夏の屋上は限度がある。しかも昼ご飯は持ってこないで、僕がパンをほおばる間ずっとコーヒーを飲むだけなのだから、昼飯のお相伴に呼ばれたはずの僕としてはいたたまれない。
まあ、いいんだけどね。どうせ暇だし、暑い暑いと主張し愚痴ても涼しくなるわけではない。
そう思いながら、僕は立ち上がる。もう授業の時間だ。
もうすぐ夏休みだ。教室にも、なんとなくそんな雰囲気が流れている。成績表を気にする者、出かける算段を立てている者、宿題を憂う者の雰囲気だ。
僕は、今更成績をどうこう出来るとは思ってないし出かける予定もないし宿題は仕方ないモノだと割り切っているから、そういう雰囲気はいまいち共感出来ない。友人には「そんなひとりぼっちの思考しなくてもいいじゃん」とからかわれるのだが、ハードでボイルドな思考を信条としている僕にそんな事言ってもしょうがない。
そんな事はどうでもいい、とか思い直して、足下に目をやる。緑のスリッパに刻まれた校名は元は金色だったろうに、今はすっかりかすれ、良く読めない。
ふと考える。僕の上履きはどこに行ってしまったんだろう。
確かに長く連れ添った相棒であるし、雨の日も風の日も暑い日も寒い日も延々と僕の足下に居て、文句の一つも言わず着いてきていたわけであるが、いかんせん上履きであるのでそこまで思い入れがあったわけではない。が、この情けなくなるほど薄い上にすぐに足からすっぽ抜け、おまけにやたらと滑るこのスリッパがどうも好かない。ゴム底なら良かったのに。
ため息と共に視線がまた下を向く。悲しい時は何でも下がるものだ。他人の足下にきっちり収まる上履きが恨めしいほどだ。あの中に、僕の上履きが入っていないとも限らないのだ。大体学校側はこの事態をどういう風に考えてるんだろう。ただの悪戯にしては恐ろしく手が込んでいる。下手を打ったら保護者だって……。
……ん?
あ。
ああ!
放課後を迎えた途端、若葉からメールが入った。
「第二図書室に来て下さい」
若葉は一時期、メールの漢字変換機能が使えないほど疎かったのだが、数ヶ月でずいぶん進歩した。後は件名欄に本文を書かないよう矯正する事が課題だろう。
冷房のある第一図書室と違い、校舎の一階端にある第二図書室には冷房が無い。こんな日にそんな所まで、といつもなら思うが、今日は違う。意気揚々と扉を叩くと「どうぞ」と小さな声がした。
中に居た若葉はというと、せめて涼もうとするかのように窓を開け、その下に椅子を引きずってきて眼を閉じ、何かを聴いているようだった。校庭からは、奇声とも言えるかけ声が聞こえている。
「呼んだかい」
声をかけると、若葉はゆっくり眼を開けた。紙切れ一枚分くらい口角が上がっている、ように見えなくもない。
「実は、上履きをごちゃごちゃにした人に、心当たりが出来たんです」
「……何だって?」
思わず聞き返してしまった。くぁん、と甲高い金属音が聞こえた。
「上履きをごちゃごちゃにした人に、心当たりが出来たんです」
若葉は同じ台詞をもう一度言い、リボンの位置を整え、襟元を正す仕草をした。割とカッコいい。僕も負けじと襟元に手をやったが、ワイシャツにノーネクタイのクールビズだったのでいまいち決まらない。
が、今回ばかりは負けていられない。
「奇遇だね、僕もだよ」
そう言ってやると、若葉は非常に珍しく一瞬ぽかん、とした表情になった。本当に一瞬だったのだが。
そう、僕にもこの事件の真相が分かったのだ。全てのつじつまは合い、完璧だ。後は犯人にこの事実を突きつけるだけで良い。
「そうですか」
若葉の声はいつもの如く静かだ。むし暑いのにテンションが上がってきた僕は、ふふん、と楽しげな鼻息すら出てきた。
「さて、答え合わせでもするかい?」
「しますか」
若葉は静かに椅子から立ち上がった。しかし、ちょっと陽光が気になったようで、窓に手を伸ばし、カーテンを閉めると、小さく微笑んだ。
「分かった。分かったけど、オブザーバーが欲しいと思わない?」
取りあえず提案してみたが、若葉は数秒の沈黙の後頷いた。素直なのは良い事だ。無謀と勇気は違うし、勇者が英雄と崇められるとは限らない。僕は多分若葉と同じ考えに落着しているはずだから、僕たちの意見を客観的に見れる上犯人に影響のある人物を入れるべきだ。
「でも、どなたに頼むんですか」
……確かにどうしよう。誰に頼んでも大して変わらない気もする。
が、冴えている時はとことん冴えている僕の記憶が、一人の人物を導き出した。
よし。今日は若葉の出番は無い。
そういうわけで、僕たちの前には僕の所属する図書委員会の顧問で、社会科担当の若い女性の先生がいる。当然今回のオブザーバーだ。彼女は多分事件に関わっていない上に、こちらの話をある程度きっちり聞いてくれる、はずだ。
「で、上履きの件で話したい事って何?」
彼女は手帖と鉛筆を取り出し、構えている。マメな人だ。
若葉はいつも通り中途半端に微笑んでいたが、僕は無表情以上の顔を作れなかった。こういうのは初めてなので緊張しているのだ。
何故彼女を呼び出したのかと言うと、少し前の試験期間に起きたちょっとした事件の解決をしたのが若葉で、先生はそれを職員室に伝える役割を担ったのだ。別に若葉がそうしろと言ったわけではなく、若葉の推理を鵜呑みにした彼女も彼女なのだが。だが、どうも正解だったらしく、件の国語科教諭は休職している。彼女が今回の面倒な件について、若葉の話を聞こうと腰を上げたのも頷ける。
が、くどいようだが一回くらい僕の出番があったって良いと思う。ワトソンが何も出来ないと思ったら大間違いだ。
僕が機先を制しようと口を開けたが、若葉が先に声を発した。
「実は、彼が犯人を推理したようなんです。それを聞いて頂こうと思いまして」
ほう、先攻の権利を譲ってくれるらしい。余裕なのだろうか。……いや、冷静に考えれば、若葉が僕と同じ所に辿り着くのは自明の理だ。つまり、僕に花を持たせようという事だろう。良い奴だ。ほんと。
先生は不思議そうな顔で僕に向き直った。そりゃそうだ。前回僕がやった事は先生と同じで、感嘆する事だけだったのだ。
僕はもったいぶって空咳をし、貸し出しカウンターに寄りかかって立ち、それから静かに事を始めた。
「何故上履きはあちこち取り替えられたんだろう、と考えた時に、ふと思い当たったんです。『取り替えられた』のではなく『ごちゃごちゃにする事』自体が目的だったんじゃないかと考えました」
窓際の椅子に行儀よく座った若葉にちらりと目をやると、彼女は微笑んだまま目を閉じ、静かに耳を傾けてくれているようだった。
「それで、僕は『ごちゃごちゃにする事』を目的にする理由は何だろうと思ったんです。そうしたら『ごちゃごちゃにする理由』が分かったんです。僕自身がこの通り証明しています」
そう言って足を上げ、スリッパを見せたが、先生はいまいちピンと来ないらしい。まあ、しょうがないか。
「つまり、上履きが無くなった事を隠す為じゃないかな、と考えたんです」
ふうん、と先生がため息をついた。それに被せる形で、僕もそっと息をつく。凄く緊張する。
「上履きが無くなるというのは、結構特殊な事例だと思います。普通は下駄箱に入ってるか履いてるかだし、持っていこうとする輩はなかなかいないでしょう。悪戯で、という事もあるかも知れませんが、今回のは大規模に過ぎます。つまり悪戯程度で収められない理由があったという事です。あちこちの上履きを取り替えてまで隠さなくてはならない『上履きの紛失』とは何でしょう?」
先生の方をぐっと見つめるが、彼女は首を振る。若葉にはちらっと流し目を送ってみたが、まだ目を閉じたままだ。
では、答えを提示しよう。
「僕はその理由に思い当たりました。ずばり、いじめじゃないかと考えたんです。『上履きを隠す』といういじめを隠蔽する為に、あらゆる上履きを取り替えたんじゃないか、と」
僕はそう言い、一旦言葉を切った。
先生は手帳に何か書き付けていたが、それが終わると頭を上げ、僕をまじまじと見た。
「それで、犯人は?」
「いじめが発覚して一番困るのは学校です。つまりいじめ問題の責任を取らされる事を恐れた教職員の誰かが犯人ではないかと思います。具体的には総責任者、つまり校長先生です」
……よし、決まった。僕はもたれていたカウンターから身を起こして、もう一度若葉を見た。若葉はやはり微笑んだままで黙っていたが、何故か渋い顔の先生は手帖とにらめっこしている。
「えーと、その仮説を証明する物証とかは無いわよね?」
「はい」
それはしょうがない。逆に物証があるなら欲しいくらいだ。確かに飛躍的論理かも知れないが……。
「でも、少なくとも校長先生はやってないって証拠はあるのよね」
……え?
彼女は完全に動揺していたであろう僕に向けて、手帳のページを突き出してきた。昨日の行動予定らしい。
そこには「校長午後半休」と細かい文字で記されていた。手帳の後ろにある先生の顔が、凄く申し分けなさそうだ。
「校長先生、昨日は午後半休取って病院に行ってるの。上履きをいじれないわ」
確かに上履きの取り替えは放課後でないと出来ない。当たり前だ。上履きが下駄箱に入ってないといけないのだから。放課後にいなかったのなら、勿論その人は犯人ではありえない。
「そ、それがどうしたんです? 放課後に戻ってきたかも知れないじゃないですか」
「誰にも気づかれずに学校に戻ってくるのは難しいんじゃない?」
「じ、じゃあ、ほら、外から電話で指示をした、とか」
「流石にそんな荒唐無稽な隠し方に着いていく先生はいないわよ」
先生はそう言って手帳を閉じた。
……………。
うわ、すっごく恥ずかしい。文字通りピエロの気分だ。いやピエロは恥ずかしくちゃやっていられないだろう。
そうじゃなくて。
横目で見やると、若葉の微笑みは目視出来るほどになっていた。
「なるほど、それでは校長先生ではありませんね」
彼女は静かにそう言うと、目を開けた。静かな光をたたえた瞳が、完全に打ちひしがれた僕を見ている。うわぁ、辛い。辛い。
「ううん、でも真剣に考えてくれたのよね、ありがとう」
先生の温かいフォローが逆に痛い。不登校になる人間の気持ちが分かってしまいそうだ。というか、今すぐ家に帰って部屋に鍵をかけ布団をひっかぶり三年ほど時が過ぎるのを待ちたい。
「でも、その考え方は一理あると思います」
ん?
顔を上げると、若葉はちょっとだけ首を横に傾げ、慈愛のこもった風な目で先生と僕を見ていた。
なるほど、ここから彼女の推理が始まるのだ。
「先ほどの話を整理します。事件が起きたのは、確実に放課後でしょう」
「……そうでしょうね」
先生の声に若干の希望が混じっている気がする。彼女の声のトーンは変わらない。
「つまり、学校に遅くまで残っていた人が犯人であると思われます。というか一番最後ですね」
「ええ。でもそうなると」
何か言おうとした先生を遮るようにして、彼女は話を続ける。
「それから、犯人は複数でしょう。先生の仰る通り、被害に遭った人は一年生から三年生まで、男女問わず広がっていますから、これらを一人でやりきるのは難しいと思います」
「そうね」
続きを促す先生の声は冷静だ。確かに、ここまでは事実を再確認しているに過ぎない。彼女は一体何を考えているのだろう。
「これで、犯人は遅い時間まで学校に居た複数人ではないかと考えられます。それに、先ほどの推理を総合してみます」
「僕の話……?」
ほとんど呆然とした声が口から漏れた。彼女は、少し時間を置いてゆっくり言葉を吐き出した。
「つまり、犯人はいじめの隠蔽を目的にしていたのだろうという事です。これほど大規模な悪戯をするには必ず理由があるでしょう。要するに「木を隠すなら森の中」の発想です」
「でも、こんな事をした結果大事になっちゃったわけじゃない! いじめよりもっとひどいわよ!」
先生が大声を上げ、手帖を放り出したようで、紙の擦れる音が大きく聞こえた。怒ったのか呆れたのか、はたまた意味が分からず思考を放棄したのか。
彼女が静かに立ち上がり、影が揺らいだ。先生の放り出した手帖を拾い上げたのだろう。
「これで状況が揃いました。一つ目、学校を出るのが遅い。二つ目、複数人による行為である。三つ目、いじめを隠蔽する必要がある。この三つの状況を軸に考えるべきだとすると、一つの可能性が浮かびます。それは、部活動です」
この時の僕と先生の顔は、まるっきり一緒だったろう。つまり、口が半開きで目がまんまるだったに違いない。
そんな事は一切気にしていないようで、彼女は何の感慨も無いような調子で話を続ける。
「一つ目の前に二つ目、三つ目の状況から考えます。まず、部活動ですから複数人です。一つ条件をクリアしました。そして、いじめを隠蔽しなければならない理由は、大会です。部内で、もしくは部員がいじめを行っていたとしたら、それが何らかの形で発覚すれば、その部は大会に出る事が出来なくなるでしょう。そして、大会前であれば当然、練習が長引いて学校を出るのも遅いでしょう。これで三つの条件をクリアしました」
一つ一つ数えていく彼女の影は全く変わらないままだ。話の内容はとんでもないのに。
「恐らく、いじめ自体は前からあったのでしょう。ただ、物理的ではなかったのではないかと思います。言葉とか、そういった目に見えないものだったのではないでしょうか。でも、今回は対象が「上履き」という物体でした。それがどういう事かと言うと、目に見える物証になるという事です。それがバレた途端、大会もへったくれも無くなってしまう。それを隠す為に、部員を動員して上履きの交換をしたんでしょう。しかし、いじめを行った当人が、その後を恐れて後始末をする為に部員を動員出来るとは思えません。大体、部員の間でバレたならばイジメの「共有」が可能だったと思われます。当然、自らもいじめられる事を恐れる生徒はその提案に乗ったでしょう。つまり「露見すれば大会に出られなくなる」という脅し文句で、この大規模な計画を実行するには、部員より上位の立場であることが必要不可欠という事です。要するに、いじめはもっとマズいところに露見したのではないでしょうか」
「……どういう事だよ」
小さく、低い声が尋ねると、小さく、しかし美しく響く声が答える。
「さて、そこで確認です。学校側は、果たして犯人を特定出来るのでしょうか?」
「それ、は」
先生は口ごもる。当たり前だ。無理にも程がある。彼女だってそんな事は分かっている。
「非常に難しいでしょう。それが犯人の狙いの一つでもあったわけです。大規模で物証の残らない行為によって捜査が諦められる事が。しかし、学校は探さなくてはいけません。これ以上の揉め事は避けなくてはならない。当然そう考えた先生方は、至極真っ当な手段で犯人を捜したじゃありませんか」
「……全校集会ね」
先生の声がか細くなる。彼女は頷いたように見えたが、影の具合だったかも知れない。
「犯人は考えます。自分が言い出す事は無いが、他の犯人はどうだろう、と。誰かが言ってしまうかも知れない、すると全てが露見し水の泡だ。そこで、犯人は自分に出来る最良の方法を採りました。つまり、全校集会をさっさと終わらせたのです」
危うく声を上げそうになってしまった。しかし、先生が椅子から立ち上がる音でそれはかき消される。
彼女は、静かに告げる。
「以上の事から大きな大会を、具体的には夏の高校野球全国大会の予選を控えていた部活、そして、その部の顧問であり、生活指導主任である人物が犯人なのではないかと考えます」
僕はそっと息を吐いて俯いた。扉が開いて、先生が出て行く音がした。
……僕が欲しかったものは手に入れた。もう、ここに用はない。
「待って下さい」
ぎくりとして、身体が動かなくなった。
「私は、一つの答えを示したまでです」
……落ち着こう。僕に向けられた言葉ではない。ないはずだ。
「先生には申し訳無い事をしました。ですが、どうしても先生のいない所で確認したい事があるんです」
バカな。
そんな、僕が?
動揺する僕の頭の上で、鋭い衣擦れの音が響く。
顔を上げると、微笑を浮かべた魔女が、僕の上に影を落としていた。
窓の側に歩み寄ってみると、確かに坊主頭で野球のユニフォームを着た生徒が唇をわななかせながらその場に座りこんでいた。カーテンを開けた部屋の中は多少明るさを取り戻していたが、夏の夕暮れは足が速い。
「初めまして」
若葉は首を微かに傾げ、お辞儀した。彼は未だ動揺しているようで、こっちを見たまま動きもしない。
「ああ、確かに僕が見た「中島」だよ」
僕の言葉で、彼はようやく正気を取り戻したらしく、小さく頭を振った。
「ぼ、僕、は」
「はい。中島さんではありませんよね」
若葉が静かに告げると、彼はひっ、と喉から悲鳴を漏らした。
一応弁明しておくと、僕は自分のクラスに「中島」がいることを下駄箱でもって理解していたわけで、いかんせん彼が「中島」当人であるのかを確認する術を持たなかったのだ。だって、クラスに男子生徒は30人もいるのだから、顔と名前が一致しないなんてざらだろう。……ざらだよね?
つまり、僕が今朝下駄箱で出会ったのは、中島のふりをした彼だったという事だ。名前は知らないが。
「不思議だったんです。昼の間、私はずっと見られている気がしていました。なんでだろうと思っていたんですが、見られていたのは私ではなかったんですね」
若葉が微笑みながらこちらを向く。はっきり「鈍感」と言っているように思えなくもない。心外だ。
なるほど、若葉が食事の場所を移そうと言ったのも、それが原因か。
「不安だったんですよね? 自分が「中島」でない事がバレないか、バレた場合どうなるか。……非常に申し上げにくいのですが、杞憂だったわけです」
彼は僕を見て、唸るような音を立てた。凄く心外だ。
「外界に対して凄く鈍感な方なので、昇降口の騒ぎにも関心が無ければ上履きに関しても同様だったので、貴方のやろうとしていた事に気づくはずは無かったんです」
若干ため息気味に吐き出された言葉は、僕に向けられているのか窓の下にいる「中島」に向けられているのか。どちらにせよ、若葉は多少呆れてはいるようだった。
「上履き事件がいじめをどさくさに紛れさせる事を目的としていた、というのは多分真実です。しかし、貴方のやろうとしていた事は上履き事件のどさくさに紛れた行為でした」
あわあわと唇を震わせながら、彼は後ずさる。若葉は微笑んだまま、彼の視線を捉えて離さない。
「貴方は野球部員として昨日の上履きの入れ替えに参加し、その際に中島さんの上履きを自分の上履きと取り替えたのです。そして、今日それを返すつもりだった」
ほとんど涙目で若葉を見ている「中島」の目には、自らを見下ろしながら語る巻き毛の少女がどんな風に映っているのだろう。
……魔女だろう。多分。
若葉は気にせず、横目で僕の方を見た。
「ところが、その場に彼が来たので焦ってしまった。咄嗟に下駄箱に上履きを突っ込んだのですが、咄嗟過ぎて近くにあった彼の下駄箱に入れてしまったのですね。だから、あの状況が生まれた」
「な、な、んで」
彼の反応は至って当然だろう。普通はこんな所まで気づかれるとは思えないし、思わない。当たり前だ。ただ、今回若葉がそれに気づいた理由の一端は僕にあるという事だけは言っておく。
そりゃそうだ。僕がこの話を若葉にしなかったらこんな事にはなっていない。という事にしておく。
「そんな事をしたのは何故でしょう。そして、ここで私たちの行動を盗み聞きするほどこの件に固執する理由は、何でしょう?」
……そういえば、この話の流れ上、僕は若葉にメールをもらってここに来るまで、彼に尾行されていた事にすら気づいていなかったという事だ。こんな目立つユニフォーム着てるのに。ああ、恥ずかしい。
そんな事はどうでも良いようで、若葉は完全に対バケモノ用の怯えた目つきをしている「中島」に向かって、人差し指を立てた。
「一つは、自分に疑いが向かないか確認する為だったでしょう。しかし、それでは危険を冒してまで上履きの再交換をした理由が分かりません。つまり、貴方には今日中島さんが気づく前に、上履きを再交換しなくてはならない理由があったのです。事件に気づかせない為でしょうか? いえ、それは無理です。昇降口は大騒ぎになっていましたから。ならば、中島さんが事件に巻き込まれていないという事にする、というのが目的だったのではないでしょうか」
若葉はまた、首を小さく傾げた。傍目には笑いかけているように見えるのだが、対象の「中島」はひたすらに震えている。
「つまり、今回の「上履きの隠匿」といういじめを受けていたのは、野球部のどなたかだけではなかったという事です。そして、貴方はそれを知っていた。理由は色々考えられましたが、貴方のお名前で分かりました」
そう、彼の白い練習用ユニフォームの胸には、名前がはっきりと、マーカーで書かれていた。
まったくそのまま、きっちり「中島」と。
「貴方は中島さんのお兄さん、若しくは弟さんなのではないかと思います。だから中島さんがいじめられていた事を知っていたわけで、上履きを自分の物と取り替えた理由も説明がつきます。自分が見ていないうちに他の部員がどこかに持っていってしまうのを防ぐため、そして、それを自分が持っておく事によって戻す事を容易にするため、最後に自分はこの上履き事件に関与し切っているわけではない、と自分に免罪符を与える為です」
最後の言葉は若干厳しかったようで、中島の目から涙がこぼれた。……まあ、事実なので僕には何とも言えない。
ただ、彼はこの理不尽な糾弾に弁明する事も釈明する事もしなかった。ハードでボイルドだ。称賛に値する。
「以上です。いじめの件については貴方が先生に報告すべきです。私たちには出来ない事です」
ここまでの全ての台詞を微笑みながら言い切った若葉は、静かに頭を下げた。中島は数秒ぼんやりと涙を流していたが、ゆっくり立ち上がり、何も言わずに、涙も鼻水すら拭かずに走り去っていった。
若葉は大きく息を吐いて肩を落とすと、椅子にすとんと座り込んだ。疲れたのだろう。暑いし。
無言の室内が嫌で、僕は一つ空咳をして、最後の疑問を確認する事にした。
「なあ、若葉」
「何です?」
「結局奴は「中島」だったわけで、つまり「中島のふりをした」っていう推理がおかしくならないか? どうやって奴が「中島」を偽装してるって分かったんだよ」
「ああ、それでしたらこれを」
若葉が示したのは、小さくプリントされた名簿だった。どうも僕のクラスのものらしい。
「さっき先生が投げた手帖から拝借しました。……見ますか? 少し悲しくなるかも知れませんが」
訳の分からない事を言う。僕はそれを受け取り、僕の名前を確認して、それから「中島」を探した。それで、若葉の呆れた笑みの理由が何となく分かった。
僕のクラスにいる中島は一人だけだった。ずばり「中島晴子(なかじまはるこ)」。
……………。
……やれやれ。
枯竹四手です。宜しくお願いします。
三作目の投稿になります。
凄く時間のかかる小説でした。というのも、このオチになるまで二転三転し続けていたからです。
最初にふっと思いついたのは「上履きが大量に入れ替えられる」というしょうもない語群でした。それがこうしてオチがつくまでに発展した理由は未だ不明です(笑
それくらい、最後の見えない小説でした。
で、このオチです。
多方面から石を投げつけられる覚悟を持って投稿した次第です。キーワードは「まるっと鵜呑みにして下さい」。何も言わないで全てを信じた先生の如く、まるっとでお願いします。多分そうでもしない限り今回の推理に納得のいく方はいらっしゃらないのではないかと……。
ただ、個人的には「オチをつけた」という空虚な自信を持っています。ただ、視点変更部分は今回二段落空けということにしましたが、もっと良いやり方を探したいと思っています。次までに。
何より困ったのは「僕」でした。口調は一向に安定しないわ何言ってんだか分かんないわ名前出すタイミングはまた無いわで一度全削りまで考えたのですが、するとさらにわけの分からない事態に陥った為、辛くもワトソン契約更新となったわけです。
とりあえず、彼は「思考のうざくて一言多いキャラ」ということになったんではないでしょうか?
あまり愚痴を言っても、また弁明してもしょうがないので、今回はこの辺で。
感想等ありましたら宜しくお願いします。とっても喜びます。