03. ノゾムとアキラ
あの後、隙をみて猛ダッシュで逃げてきた俺は、自己嫌悪ですっかり落ち込んでいた。
全速力で百メートルは走っただろうか。
駅に続く交差点を左に曲がったところでいったん立ち止まり、近くに公園を見つけて入っていった。
俺は置いてあったベンチに座り込んで頭を抱え、いまさら変えようのない失態に思いをめぐらせた。
「あー、どうしよう。最低だよ」
警察に突き出されなかっただけましかもしれないが、明日、登校するのが今から恐ろしくて仕方なかった。
瀬野って言ったっけ?
よりにもよって同じクラスのやつに見られるなんて、本当についてない。
なんの釈明すらせず、後先も考えないであの場を逃走してしまったけど、いま思えば最悪の対応だったと認めるしかなかった。
確かに冷静に判断できる状況ではなかったが、あれでは変質者です、と自ら認めたようなものではないか。
「明日、学校休もうかな」
明らかな現実逃避だし、休んだところで状況は変わらないとわかっている。
けれど他に名案は浮かんではこなかった。
「ただいま」
玄関脇の掛け時計は六時を指していた。
ナイキのスニーカーから庭いじり専用にしているサンダルに履き替えたところで、妹の晶がリビングから出てきた。
「お帰りなさい、お兄ちゃん」
女の子らしくない名前だったが、晶という名前を妹は気に入っているらしかった。
俺にはそんな妹の気持ちがさっぱり分らない。
俺は自分の女みたいな名前が大嫌いなのだ。
望なんて、どう考えたって男の名前とは思えなくて、人前で名前を呼ばれるのが恥ずかしかった。
さすがに今はなくなったが、小学校の低学年くらいまでは名前のせいでよく女の子と間違われ嫌な思いをしたものだ。
どうせなら兄妹、逆に命名してくれればよかったのにと思い抗議したこともあったが、母と妹に「逆だからオシャレなのよ」と一笑にふされてしまった。
オシャレかどうかなんて、どうでもいい。
第一どこがオシャレなんだか俺にはさっぱり解らない。何事も普通が一番なんだよ。
「どこ行ってたの? 買い物?」
「ただの散歩」
晶はクリーム色のトレーナーにジーンズという服装に、ピンクの花柄の入ったエプロンを着けていた。
染めてもいないのにちょっと茶色がかった長い髪は、今日はピンク色の髪留めでひとつに束ねてあった。
俺の髪質がくせのつきにくいストレートなのに対し、晶の髪はふんわりとしたウェーブがかかっている。
兄の俺が言うのもなんだけど、かなり可愛い。
色白だし目なんかもパッチリしていて、睫毛も長かった。
晶は中学生のときからかなりモテていたみたいで、前の高校では思いつめた表情の男子生徒が家の前に立っている、なんてことがよくあって、彼女いない歴と年齢が同じ兄の立場としては複雑な心境だった。
「いいな。引越してきたばかりでこの辺まだよく分らないし、散歩するなら私も誘ってくれればいいのに」
「ごめんごめん。次は誘うからさ」
「その言い方、なんか嘘っぽい」
あっさり見透かされてしまった。
でもシスコンじゃあるまいし、兄妹で出歩くのってどうかと思う。
「まあいいわ。ところで、お兄ちゃん、これから庭いじり? ほんと好きねぇ。もうすぐ夕飯だよ」
使い捨てビニール手袋を着けて、下駄箱の脇にあるガーデニング用の棚から摘心ハサミをひっぱり出す俺の姿を見て、あきれたように晶は言った。
ふん、好きで悪かったな。
「ちょっとだけだからさ。ちなみに今日の夕飯なに?」
「から揚げと茶碗蒸し。晶ちゃん特製のパリパリサラダもあるよ」
「うまそー、出来たら速攻呼んで」
「オッケー」
パリパリサラダというのは細切りの大根の上に、これまた細く切って素揚げにしたジャガイモをたっぷり乗せて和風ドレッシングでいただく、という晶の得意料理である。
これがけっこう美味いのだ。
大根の他には、ニンジン、カイワレ、レタスや水菜なんかのバリエーションもあって、もちろん全部入れるってのもありだ。
「それと……晶さあ、なんか飲むもの持って来てくれる?」
「いいよ、ウーロン茶でいい?」
「サンキュー」
晶はきびすを返すと、うさぎの毛みたいにやたらフワフワしたスリッパをパタパタさせながらリビングに戻っていった。
どうしよう。
やっぱり明日は行くしかないよな。
晶にまで迷惑かけるわけにはいかない。
俺のせいで「変質者の妹」なんてレッテルでもはられたら、晶に申し訳がたたない。
俺は絶望的な思いで決意した。
ああもう! 覚悟を決めるしかないじゃないか。