02. 怪しい人ですみません
「……ねえ」
ああ! たのむからもう勘弁してくれ。
いっそこのまま走って逃げようかと思ったが、それじゃあまるきり変質者だ。
もし捕まったりしたら、それこそ目もあてられない。
「おーい、聴こえてる? 転校生」
最悪だ。俺のこと知っていやがる。
なおもしつこく食い下がってくる相手に根負けして、俺は仕方なしに振り向いた。
ちょっと長めの前髪の奥の、日本男児って感じの、心持ち切れ長の目が興味津々と言わんばかりに輝いていた。
一言でいうなら、見るからに頭が良さそうでスポーツ万能、女の子にキャーキャー言われて誰からも好かれるタイプの好青年ってやつだ。あー、やだやだ。
そいつの身に着けている紺色のブレザーに青と緑のストライプのネクタイは、よく見知った物だった。
転校生として第一日目を過ごして、三十分ほど前に帰宅したばかりの、それは俺の新しい学校の制服なのだ。
まだ顔と名前までは一致しなかったが、俺より二十センチは背の高いこいつには見覚えがあった。
それにしても、一体いつから見ていたんだろう。
転校初日から変質者のレッテルを貼られたりしたら俺、今後やっていく自信ないよ……
「相原望」
内心のあせりを隠して、ぶぜんとした面持ちで俺はそいつを見上げた。
長身といい、男らしい顔立ちといい、いちいち俺のコンプレックスを刺激してくれるやつだった。
うさんくさいやつ、と思いながらじっと見つめていると、困ったような顔をして、やがてそいつは、はにかんだような笑みを浮かべた。
「ああ、ごめん。相原君、俺のこと覚えてる? 同じクラスなんだけど」
「覚えてない。悪いけど」
無愛想に答えた。
俺としては暗に、これにて会話打ち切りで願います、って意思表示をしたつもりだったけど、どうやら相手には伝わらなかったようだ。
出会いが出会いだし、なるべくならあまり関わり合いになりたくないんだけどな。
「瀬野孝明。瀬野でも孝明でも、呼びやすい方で呼んでくれていいよ」
苗字よりも名前で呼んで欲しい、そんな口ぶりだった。
瀬野は右手を差し出した。これってつまり握手しようってことだよな。
「あ、そう。俺は相原で頼む」
「うん。わかった」
突き放したような俺の返事に気を悪くしたふうもない。むしろ愛想よく瀬野は頷き、笑みまで浮かべた。
差し出された手を俺は無言で見下ろした。
そのまま数秒が経過する。
やっぱり感じ悪いよなあ。でも握手ってなんか苦手なんだ。
いきなり握手なんか求められても、日本人にはそぐわないというか、とにかく俺は躊躇してしまった。
それに名前で呼ばれるのは本当に好きじゃないんだ。
握手を求めて伸ばしたままの瀬野の手のひらは大きくて、がっしりしている。
野球とかバスケでもやっていそうなスポーツマンの手のひらだ。
俺はなかば無意識に自分の手のひらに目をやって溜息をついた。
「どうかした?」
「べつに」
瀬野は伸ばした手を引っ込める気はまったくないようだった。
それどころか、わざとらしく指をひらひらさせて催促をしてきたのだ。
やけに親しげで自信たっぷりな仕草に反感を覚え、俺は目を細めた。
大きくてがっしりした手のひらも百八十センチはありそうな身長も、なんだか妙に鼻について仕方がなかった。
こいつとは今後も距離を置こう、そう決意を新たにした。
「それじゃあ……」
この場を一刻も早く離れたくて、俺は背を向けた。
差し出された手は気づかないふりを装って無視した。
「ところで、相原はここで何してたの?」
思わず振り返った。
手を握られ、声が裏返った。
「え!?」
いまさらながら話を蒸し返さなくたっていいじゃないか。
抗議しようと口を開きかけて、俺は慌てて言葉を飲み込んだ。
変質者、覗き魔、そんな単語が脳裏をかすめ俺はますます動揺してしまった。
「覗いていたよね?」
「べ、べつに覗いてなんか!」
握手というべきなんだろう。けれど手はがっちり握られていて、俺は逃げるに逃げられない状況だった。
「そうなの? てっきりうちに何か用があったのかと思って声をかけたんだけど」
「なんだって!?」
表札には確かに瀬野と書かれていた。
そして視線を少し上げた先はベランダで、そこにはブラジャーとかパンツといった女物の下着がいっぱいぶら下がっているのだった。
目の前がまっくらになる。
これで、今日から俺は、立派な変質者というわけだ。
「覗いていたよね? うち」
笑顔で決定打が下される。
俺はと言えば反論する言葉も気力もなく、ただ呆然と瀬野の顔を凝視するばかりだった。