11. 誤解はさらなる誤解をよぶ
◆◆◆
高い壁は、空まで届きそうに思えた。
その壁を縫って、ほそい道が続いている。
どこまでも。くねくねと、あるいは枝分かれをして。
ここがどこなのか、すでにわからなくなっていた。
来たのは右なのか左なのか。
ふりむいたとたん、どっちが前でどっちが後ろなのかもわからなくなる。
「ママ! ママッ……!」
ついさっきまで一緒にいたはずの母と妹の姿が消えている。ざわめく緑の闇に取り込まれてしまったかのように。
不安で足がすくむ。
ふいに叩きつけるような突風が吹き上げて、枝葉を激しく震わせた。
「……ママ! ねえ、どこなの? あきらぁ……!」
風をはらんで波打つ緑が恐ろしくて、がむしゃらに走り出す。とめどなく涙があふれ、頬をつたった。
走っても走っても、出口は見つからない。
そもそも最初から出口なんてないのかもしれない。深い深い緑の迷宮をひとりきり、永遠にさまようしかないのだ。そんなふうに思えてくる。
たぶん小石にでもつまずいたのだろう。前のめりに倒れこむ。
ぎゅっと両目をつむり、痛みをやりすごす。それでも噛みしめた奥歯のあいだから嗚咽がもれた。
うつぶせに地面に伏したまま、そろそろと顔だけをあげる。手の甲と両膝がすりむけて、血がにじんでいた。
「……なに?」
すぐ目の前に階段があった。
下へとつづく階段。緑の壁の陰に、ひっそりと隠れるようにして。転ばなければ、きっと気づきもしなかった。
ふいに目の前が開け、立ち止まる。
明るい陽射し。ぬけるような青空がまぶしくて、目をほそめる。
階段を降りた先は、開けた空間になっていた。まっすぐにそびえる緑の壁は、そこにはない。恐ろしさも、どこかへ吹き飛んでいた。
雪みたいにまっしろな花が咲いている。
空間の四方をとりかこみ、しなやかに枝葉を伸ばす低木。白い花。どこまでも純粋で、けがれなき、その色。風にふわりと舞う、花びら。甘い香りが、ほのかに漂っている。
なぜだか涙がこぼれた。
でも、さっきまでとはまったく別の涙だった。胸の奥、熱い感情がこみあげる。
薔薇の低木に隠れるように、あるいは花の影から顔を覗かせるように、小ぶりの白い石像がいくつもある。リスやウザギに小鳥。コップを手にした小人や、蝶みたいな羽根をはためかせる妖精の姿もあった。
広場の中央には噴水のついた水場があり、本物の小鳥が水を飲んでいる。
その足下にはたくさんの青い花――パンジー、ビオラ、ゲラニウム。空へと駆け上がるようにつるをのばすクレマチス。
緑の迷宮の奥に、ひっそりとうずもれた花園。
ふいに、遠い日の記憶がよみがえってくる。
ヒントをあげる。
青だよ。最初の青が教えてくれる。
◆◆◆
「青ってなんだ?」
電子音が鳴り響いている。
目覚めたばかりの俺は慌ててタイマーを切ると、天井を眺めつつ物思いにふけった。
あれはまだ俺が、幼稚園に通っていた頃のことだ。家族でどこかの迷路に行った記憶が、おぼろげに残っている。
空に届きそうな、緑の壁。緑のつるが絡む、背の高いフェンス。
おそらくどこかの薔薇園だろう。
けれども、つる薔薇の季節は終わっていた。
それは秋の初め。花の季節が過ぎ去ったあとの乱れて疲弊した、それでいて荒々しいほどの生命力にあふれた、緑の迷宮。
迷子になって、泣きながら迷路をひとりさまよった。
歩けども歩けども出口は見つからず、どんどん深みへとはまっていった。
気づけば迷路の奥の奥。そう、あれは偶然だったのだ。
転ばなければ気づくことのない地面すれすれの、まるで地下へと降りていくかのような階段に気がついた。頭上には長いつるを幾重にものばす、緑の枝と、風に揺れる葉。
階段を降りると、一段低いところに庭園が広がっていた。ひっそりと隠された一角。
白薔薇が咲き乱れる、夢のように美しい花園。あれはどこだったのだろう。
どうやって、戻ったのかは覚えていなかった。
たぶん、両親に見つけてもらったのだろう。
ただ、記憶の奥底に刻まれた風景がいまも残っている。
しろい、しろい、庭園。
そして、あの言葉。
最初の青が教えてくれる。
◆◆◆
朝っぱらから変な夢を見たせいで、すっかり遅くなってしまった。遅刻ぎりぎりだ。
朝食もそこそこに家を飛び出した俺は、ぜいぜいと息を切らしつつ、どうにか学校へたどりついた。
よかった。なんとか間に合った。
必死に走ったのが幸いだったのか、多少ながら時間に余裕もある。
正門は登校途中の生徒であふれかえっていた。残り時間あと五分。こういう時間帯こそ一番に混雑するんだ。まあ、誰だって朝は苦手だってことだな、うん。
「……あ、あのッ!」
いきなり背後から声をかけられた。
ここ最近の俺なら反射的に身構えそうなものだが、声の主は瀬野ではなかった。
どことなく遠慮がちな呼びかけ。声だって、やけに可愛らしい。
「……相原センパイ」
ふりむくと、やけに綺麗な子がこっちを見つめていた。
いかにもキューティクルが多そうな、さらさらヘアー。きめの細かい、すべすべな肌は色白で、前にテレビでみたビスクドールを連想させた。
ちょっと長めの前髪の奥、黒い瞳はやたらときらきらしていて、じっと見つめていると星のひとつも見つかるんじゃないか、なんて思えてくるくらいだ。
そいつは小首をかしげると、長い睫毛をパチパチとさせた。
「あ、あの……ボク……」
ほそくてちっこくて、仔犬みたいに愛くるしい。が、れっきとした男だ。俺のことをセンパイと呼ぶのを考えるに、たぶん一年だろう。
「相原センパイですよね? あの、ぼく……」
「そうだけど、俺になにか用?」
うつむいて、胸の前で両手を握りしめているそいつに向かって、俺はたずねた。
身長は俺とそう変わらない。いや……俺の方が1センチは高いな、たぶん。
「あの……ぼく、センパイのこと尊敬してるんです!」
もじもじ美少年は言った。なんだよ、やぶからぼうに。
「センパイは、すごく……その、かっこいいです!」
「……へ?」
そんなこと初めて言われた。
けど誰だって、かっこいい、なんて言われたら悪い気はしないよな。
「綺麗でかっこよくて……それに、すごく勇気があるし! ぼくはセンパイみたいに勇気が持てなくて……」
綺麗って言われてもぜんぜん嬉しくはないけど、ほめられているみたいだし、喜ぶべきだよな。
けど、勇気があるってなんのことだろう。
「あ! もしかして、あの趣味のこと?」
「だっ、だめです! 言わないで下さい……恥ずかしいから」
顔がまっかになっている。
こいつも薔薇男ってわけか! なるほどね。しかし本当に多いんだなあ。
「あの、これ……」
そう言って目の前に差し出されたのは、一通の手紙だった。ん? 勇気がないって、これのことか?
「これって、つまり俺――」
手紙を届ければいいんだよな? と聞くつもりが、途中でさえぎられた。しかし、なんと古風な……
「そうです! ご迷惑かなって思ったけど、ぼくの気持ちを形にしたかったんです」
「そっか……わかった」
可哀相だけど、この手紙を妹に届けたとこで、どうなることもないのはわかっていた。
どう考えたって晶の好みじゃないし、こんなふうに誰かから手紙をあずかるのは、なにも今回が初めてじゃないのだ。それこそ前の学校では数え切れないほどあった。
そんなことを考えながら手紙を裏返す。
「深見、えっと、ひかり……それとも、ひかる君?」
「リヒトです。ドイツ語で光のことを、そう言うんですよ」
ドイツ語か。すげぇな。
っていうか、かわった名前だよな。
晶ふうに言えばオシャレってやつか? けど俺は願い下げだ。やっぱり普通が一番だと思う。なにごとも。
うん。妙な名前どうし、なんだか親近感が湧いてきた。




