10. きみはカリスマ!
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しぶしぶではあったが、どうしても嫌ってわけじゃなかった。
むしろ、その反対だ。
体裁、あるいは本音と建前。
ちゃっかりしている、っていう自覚はある。
けれど出逢いが出逢いだったし、いまさら素直に「お願いします」なんて頭をさげるのは、ばつが悪かった。
だからこそ。そう、だからこそ不機嫌なふりなんて三分も持たなかった。
当初の「三十分で帰るからな!」なんて台詞すら、あっというまに忘却の彼方へと吹き飛ばされる始末だ。
目の前には、圧倒されんばかりに咲きほこる、ロココ、ロココ、ロココ――外の通りに面したフェンスは、あでやかなピンクが全面を覆っていた。
初めてこの場所に立ったときは、まだ半分が固い蕾のままだった。
今日はほぼすべてが開花して、それも終わりに近づいている。
散りぎわの薔薇にはなんともいえない風情がある。風が吹くたび、はらりと花びらが舞い落ちる光景は、まさに夢そのものだった。
「こっちだよ」
「え? ……あ、うん」
なかば放心状態で眺めていた俺は、その声にようやく我に返った。なごりおしさに何度も振り返りつつ、瀬野の後に着いていく。
玄関へと続く門扉をあけはなし、瀬野がふりかえる。
おそらくは特注品、木製でできた門の頭上にはしゃれたアーチがかかっていた。
「サマーソング!」
空へと向かって駆けあがるオレンジに俺は歓声をあげた。
「あ、わかった? 発表されたのは2008年だから、まだ比較的あたらしい品種なんだけど」
目に驚嘆を浮かべる瀬野に、俺はにやり、と笑いかけた。わからいでか。
「もちろん」
薔薇は頻繁に品種改良が行われ、毎年たくさんの新作が発表されている。
デビット・オースチンが手がけるイングリッシュローズだけでも毎年10種類前後が新たに登場するのだが、その中でもサマーソングの独自の色合いは異彩を放っていた。
マニアのあいだでは、日本で発売が開始される前から話題になっていたくらいだ。
そんなわけで、市場に出まわってまもないサマーソングは超がつく人気品種だった。店頭に並ぶどころか、ネット予約だって売り切れ続出というありさまだ。
当然ながら実物を見るのは、これが初めてだった。
カタログやどこかの画像でしか目にする機会しかなかったけど、そんなことは関係ない。噂どおり、いやそれ以上の、まさに夏の太陽みたいな薔薇だ。
「けど、サマーソングなんて珍しい品種、よく手に入ったなあ……」
「ちょっとしたツテがあってね」
瀬野は郵便受け――レトロな雰囲気の、どう見ても特注品だ――からダイレクトメールを取り出すと、門の反対側のフェンスを指し示す。
「表のフェンスはこの門をはさんでこっち側がロココ、向こう側がスパニッシュハーレムになっているんだ」
スパニッシュハーレムとは明るいローズピンクのつる薔薇で、店頭には並ぶことはないが、これも人気品種である。
うながされるままに門扉を抜けて、敷地へと足を踏み入れる。
「表はピンク、門扉から玄関先にかけては黄色を基調にして植えてあるんだ」
俺は頷いて、瀬野の言葉を引き継いだ。
「パットオースチン、ゴールデンセレブレーション、それからこれが――」
「バタースコッチ……なんとも美味しそうな色だろう」
「黄色は考えたことなかったけど、こうして見ると……すごくいいな」
「だろう」
そう言って瀬野は笑みを浮かべた。
黄色といってもイングリッシュローズのそれは、店頭に並んでいる原色とはまったく違っている。優しい色合いの、どこかふんわりとした印象なのだ。
「くわしいんだな」
「母の影響かな。この環境で育ったから、これが普通だったし、これを嫌いな人はそうはいないだろう」
確かにそうだ。意味もなく、これを嫌いになる人間がいるだろうか。一度でもこの光景を目にしたら、きっと誰だって感銘を受ける。
心が洗われる、とでもいうのだろうか。なんだかすごく豊かな気分になってくる。
綺麗なものを見ているからだろうか。あれほど嫌っていたはずの瀬野ですら、なんだかいい奴に思えてきたくらいだ。
いや、嫌っていたというよりは、ただの苦手意識みたいなものかも知れない。
なにしろ初めての遭遇が最悪だったから、きっとそれがすべてを悪い方向へと押しやっているのだ。
でも同じ薔薇好き同士、これからはもう少しくらいは仲良く出来そうな気がしていた。
薔薇にかぎらず植物には、そんな不思議な力が宿っているのだ。
三十分の約束はどこへやら。
俺はちゃっかりと瀬野の家へと上がり込み、くつろいでいた。
そこは南に面したサンルームになっていて、みずみずしい芝生がしきつめられた中庭が一望できた。
外側からは見えない奥まった庭は、ボーダーガーデンになっていた。
メアリーローズやヘリテイジ、シャリファアスマを始めとした淡いピンクの薔薇に混じって、エグランティーヌがある。
別名をマサコといい、民間から皇室へと嫁がれた女性にちなんで命名された可憐な薔薇だ。
その足下には青味の強いキボウシ、銀葉が美しいシロタエギクなどの葉物が彩りを添えている。
自然とそこに視線が行くようにと、一カ所だけ赤い木薔薇が植えられている。
ウイリィアムシェイクスピア2000――ベルベットのような深い赤色だが、不思議とどぎつさは感じられない。すぐ横に設置されたバードパスにはなみなみと透明な水がはられ、小鳥が水を飲んでいた。
「すごいとしか言いようがない」
三十分どころか、何時間でも見ていられそうだった。
ドーム型をしたガラス天井から流れ落ちるようにしてサンルームを覆うのは、風に揺らめくランブラーローズ――ポールズヒマラヤンムスクだ。これも薔薇なのか? と疑いたくなるような小輪の花で、ピンクと白が繊細に混じり合っている。
「ちょっとした見物だけど、仕立てるのは一苦労なんだ」
「でも、すごいよ……ほんとに」
瀬野がため息まじりに言う。
「まあね。場所もとるし扱いにくい品種だけど、まあそれが、手放せない理由かな」
つる薔薇のなかでもランブラーローズは大型で、どの品種もかるく五メートルくらいにはなる。
トゲも多い上に、するどい。専用の手袋をはめても指が傷だらけになることもある。だが、それを差し引いても欲しくなるのがこのポールズヒマラヤンムスクなのだ。
気のせいかな?
だけどこの光景、どこかで見たことがあるような……
家の人は誰もいないみたいで、瀬野が手ずから紅茶を淹れてくれた。ティーパックではない。ちゃんとした紅茶葉のやつだった。
トワイニングの四角い缶をいくつか見せられて、その中から俺が選んだものだ。もちろん、どれがどれだか俺に見分けがつくはずもない。そんなもん、適当に選んだに決まっている。
「母の仕事はちょっと不定期なんだ」
家に誰もいないのか、と尋ねると瀬野はそう答えた。
なんでもショップを経営していて、仕事であちこち出かけることが多いらしい。それも泊まりがけでだ。
「この時期はとくに忙しくてね」
「ひとりで留守番なのか?」
ひとりっ子だという瀬野に尋ねると、もう慣れたよ、と答えが返ってきた。まあ、女の子ならともかく、高校生の男が寂しいもないかも知れないけど。
俺は皿に綺麗に並べられたクッキーをひとつ取ると、もぐもぐとやった。うまいな、これ。
「ところで望は、前に東武線沿いに住んでいたって言っていたよね?」
「うん。でも幼稚園の頃の、それもすごく短い間だったから、あんまり覚えてないや」
父親の転勤の関係で、たぶん住んでいたのは一年くらいだったと思う。
おぼろげではあったが近くに薔薇園があって、何度か見に行った記憶がある。俺の薔薇好きが開花したのは、それが発端なんだ。
「あのさ……」
テーブル越しに瀬野が身を乗り出してくる。やけに真剣な顔をしていた。
「ん?」
同じように俺も顔を寄せ――
ピンポーン! と玄関チャイムが鳴った。
「ただいまー」
女の人の声。きっと瀬野のお母さんだろう。
リビングのドアを開け、足音が近づいてくる。
「あら、お客さま」
明るい色合いのショートカット。耳元ではダイヤのピアスが光っていた。エレガントなクリーム色のスーツ姿がよく似合う、綺麗な人だった。
お邪魔してます、とかしこまる俺に「こんにちは」笑顔を振りまく。
あれ? でもこの人……
「クラスメイトの相原望君……最近引っ越してきたばかりで、彼は薔薇が趣味なんだ。それで庭を見せてあげようかと思ってね」
「まあ、そうなの! だったら、ちょっと待っていてね」
嬉しそうに言って、いったんサンルームから出ると、一冊の本を手に戻ってきた。
「これ、まだ発売前なんだけど、よかったらどうぞ」
それはガーデニングの本だった。
おもて表紙は写真になっていて、サンルーム一面を薔薇が覆っていた。桜を思わせる淡い色合い。いま目の前に広がる風景そのままの……
「マダム・アキコ!」
見覚えがあるはずだ! イングリッシュ・ガーデンのカリスマじゃねーか!?
驚くなかれ。この世にカリスマ美容師やカリスマモデルがいるように、ガーデニングの世界にもちゃんとカリスマが存在する。
そりゃ、日本全国に名をとどろかせる超有名人とまではいかないが、俺たち薔薇マニアの間では神様みたいな人達だ。
いままさに目の前にいらっしゃるマダム・アキコを始め、つる薔薇の村田先生や、イングリッシュローズの貴公子までいるんだ。あれ? よく考えたら意外と男もいるな。
「そ、そうか! あー……うん」
なんか、ものすごく勇気が湧いてきた。
そうか、俺だけじゃないんだ。っていうか、瀬野だって立派な薔薇好き男のひとりだよな。うん。
ますます瀬野が好きになってきた、なんて言ったらゲンキンだよな、やっぱり。




