A-7「大きなキャンパスにて」
ようやく本日の授業が終わると、恵那は一目散にプール前の花壇に来た。やっぱりこの花達も描きたい。花を描くのが好きな自分には、ぴったり過ぎるくらいの物件だった。
「神崎っ!」
振り返ると遠くに河村の姿が見えた。こちらに向かって走ってくる。恵那は何だろうと思いながらも隣に来るのを待った。
「……どうしたの河村?」
息を切らす河村をよそに恵那はきょとんとした顔で見つめる。
「どうしたって、心配して来たんだよ!」
「誰の?」
「お前だよ!朝からしょげてぼけーっとしてるかと思えば、急に生き生きしやがって。何しようとしてるんだよ。前にも注意しただろ」
「……何でわかったの?」
「お前すぐ顔に出るからわかるんだよ!馬鹿な事はやめとけって。高校行けなくなるぞ」
「…………」
あまりに自分の考えを的確に当てるので、恵那は何も言えなくなってしまった。もう河村にばれちゃったのか。やっぱりこの男は油断ならないと再確認した。いくらなんでも早すぎるよ。
「例えば河村の前に、珍しい植物があったら観察したいと思わない?」
「はぁ?」
「あわよくば持ち帰りたいでしょ」
強引に例え話を引っ張り出す。河村は何を言い出すんだと言わんばかりの顔を顰めて答えた。
「そりゃ……そうかもな」
「それと同じだよ。私も目の前に大きなキャンパスがあるから描きたい。自分の世界を描きたい」
「キャンパスってお前、あれはただの白い壁だぞ?」
「河村にとっては珍しい植物でも、他の人にとってはただの草なんだよ」
恵那はそう言い放つと、周囲を確認してから細道に入る。それを見ていた河村は、自分に神崎の欲望を止めるのは無理だと思った。母親に反対されたせいか、やけに反発的な態度と眼つき。たとえ無理に止めたとしても、何が何でも神崎は更衣室の壁に絵を描くつもりらしい。
河村は神崎がプールサイドに入った事を確認すると、自分も細道に入ろうと思ったが、やめた。今日は神崎一人っきりにさせてあげた方がいいかもしれない。あの様子だと昨日母親と一悶着あったみたいだし、自分が神崎なら一人にさせて欲しいと思う。それに自分がついていっても、してあげれることは何もない。河村は静かに察すると、声をかけた。
「神崎、俺今日はこのまま帰るわ。お前一人で壁とお話でもしてこいよ」
「あ、そう?」
てっきり恵那は河村も一緒に来るものだと思ってたから拍子抜けした。河村なりに気をつかってくれてるのだろうか。
「私が何描くのか気にならないの?」
「そんなのお前の顔に描いてあるじゃないか。ばればれなんだよ」
いちいち行動が見透かされているのに少し腹が立つ。これから河村だけは敵にまわさないようにしよう。
「それじゃあまた明日な。神崎一人だけじゃ危険だから、俺が見張っててやるよ」
「危険って、何よそれ」
「そのままの意味。絵の具とかいろいろ撒き散らしそうだしな」
「あっそう!じゃあねっ」
何だかよく分からないが嫌みを言われたには違いない。恵那は少し顔を引きつりながらも更衣室へ入っていった。
「今度はあいつの絵、ちゃんと見れるといいな」
花壇の花達に河村は呟いた。
更衣室に入ると、一気に孤独感と悲壮感が恵那を襲った。
その中で対峙するは高さ二メールトルはあるであろう白い壁。恵那は改めてスケールのでかさに圧倒された。背比べしてみてもとてもじゃないが敵わない。両手いっぱい広げてみても届かない。果たしてここに絵を描ききる事ができるのだろうか。何だかとても不安になってきた。
「何か測る物でも持ってこればよかったなぁ」
恵那は壁に沿って左右に歩く。また数歩下がってみたりもした。頑張れば描ききれるだろうが、どれくらいの時間を要するのかさっぱり検討がつかない。下描きだけでも何十日とかかりそうだった。それでも……それでも恵那はここに絵を描こうと決心した。何がそうさせるのかはよくわからない。もしかしたら今の家庭や、受験生という特殊な境遇のせいなのかもしれない。勿論描いたからといって、何か得られるものがあるわけでもない。寧ろいろんなリスクを背負わなければならないだろう。
「…………」
恵那は壁の前に立って、キャンパスと向き合った。ただひたすらに。ひんやりとした更衣室の空気だけが、この部屋の中をうごめいている。壁の色が白から黒へしっかりと変化するまで、互いに見つめ合っていた。
翌日から恵那は早速行動を開始した。まずはキャンパスの寸法を測らなくてはならない。恵那は家からメジャーを引っ張り出してくると、今日も早めに学校へと向かった。
お母さんとはあの日以来会話をしていない。それでも今朝も自分の朝食は用意されていて、感謝しながら全て平らげてきた。
「よぉ」
裏門の前には河村がいた。恵那の姿を見つけるなり、すたすたとこっちに向かってきた。
「河村……今日も早いわね」
恵那は半ば諦め気味に、河村に見つからずに更衣室に行くのは無理だと思った。
「早起きは三文の得だからな。その様子だと今日も下見に行くところだな。俺も手伝うぜ」
河村はそう言うなりさっさと門をくぐった。恵那は溜め息交じりに河村の後ろをついて行く。
「昨日はどうだったんだ?」
「どうって?」
「白壁と二人っきりだったんだろ?大丈夫だったか」
河村は振り返るなりニヤニヤしながら尋ねてきた。恵那はあほらしいと思いながらも話を合わせる。
「大丈夫よ、彼すごい無口だったから何事もなかったわ」
「その無口な彼に今日も会いに行くのか?」
「昨日が初対面ってわけじゃないけど、まだ仲良くなれてないしね。今日は彼の身長を測ってみようと思って」
恵那はそう言うと鞄から無駄に五メートルも測れるメジャーを取り出して見せた。
「お、準備してるじゃん。俺も手伝ってやるから、彼のスリーサイズとっとと調べちゃおうぜ」
河村がへらへらと笑いながらプールサイドに一番乗りする。恵那もそれに続く。校舎側に細心の注意を払いながら二人で更衣室に忍び込んだ。
「やっぱりカルキ臭いのは顕在だな。それに妙に黴臭い」
「それは仕方ないよ。最近まで更衣室を使ってたんだし」
「ふーん」
河村はそう言うと部屋の中をうろうろしだした。
「何してるの?」
「いや、神崎はいつもどの辺で着がえていたのかと」
「殴るよ」
私は思いっきり河村を睨み付けた。
「悪い悪い。いやぁ更衣室って、俺達は入った事ないから、どんなもんかと思ってさ」
「ああ、男子は教室で着がえてるもんね」
「そうそう。こないだ入った時は薄暗くてよく分かんなかったけど、案外広いのな。この壁も見事に綺麗な白色だ」
河村が感心したかのように壁の前に立ち尽くす。河村もこの壁から何かを感じとってくれるだろうか。自分と同じように。
「よし、ちゃっちゃと測っちゃおうぜ。悠長に時間があるわけでもないしな」
恵那は荷物を置いて再びメジャーを取り出す。まずは身長から測ろうか。
「はい、端っこ持ってよ。手伝ってくれるんでしょ?」
恵那はメジャーの端を河村に渡すと、それを上に持っていく様促した。
「お前……俺の手が天井に届くとでも思ってるのかよ」
「そこのロッカーに乗ればいいじゃない。高い所好きでしょ?」
「まぁ好きだけどさ」
河村はそう言いながら身軽に、恵那ほどの背丈のロッカーの上に乗った。
「おい!ズボンが埃塗れになったぞ……どうしてくれるんだよ」
「あーごめんごめん。制服汚れちゃったね」
恵那は河村の心配を他所に、自分が上らなくて良かったと思った。
「くそー、お前も高い所平気なら上れよ」
「やだよ埃塗れなんか。そもそもスカートだし」
「どうせ短パン履いてるだろうが!」
恵那と河村は互いに不満を言い合いながら、寸法を測った。一を言えば二と三と文句を言う河村相手に、恵那の口は渇く。それでも協力してくれてるんだし、いい奴だと思う。
「ありがとう河村。手伝ってくれて」
「はぁ、朝から疲れたなぁー」
ぱたぱたと手で顔を扇ぐ河村を見て、素直じゃないなと笑った。