A-6「報告会にて」
枕に顔を埋めていると、誰かが階段を上ってくる音がした。恵那がお母さんだと思って体を強張らせていると、ドアの向こうで声がした。
『恵那?部屋にいるんでしょ?お姉ちゃんよ。冷たい飲み物を持ってきたから、ここを開けてちょうだい』
お姉ちゃんだった。恵那はドアを開けるべきか悩んだ。今はこの泣き顔を見られたくない。そっと電気を消すと、外からもう一声発せられた。仕方ない。正直喉も渇いているし、コップだけでも受け取ろう。ドアの前にはったバリケードをずらして、少しだけドアを開けた。
「お姉ちゃんありがとう……」
お姉ちゃんが微笑んで言う。
「お母さんに何を言われようが、恵那のやりたい事をやりなさい。私は恵那の味方だからね」
それだけを告げると、お姉ちゃんは自分の部屋に入ってしまった。恵那は受け取ったコップのお茶を少し飲むと、また泣き出しそうになった。
お姉ちゃんは知っている。自分が絵を描きたい事や、それをお母さんに反対された事も。それらを踏まえてもお姉ちゃんは、やりたい事をやれと言ってくれた。応援してくれている。あまり言葉を交わさなくなってしまったけど、お姉ちゃんはお姉ちゃんだった。お姉ちゃんがいてよかった。
残りのお茶をいっきに飲み乾すと、今日は早めに寝る事にした。こんな心境では勉強も糞もない。それに明日は報告会があるから、どのみち学校へは行かなくてはならない。私は今更になって、報告会が朝からなのか、放課後からなのか迷った。河村の連絡先も知らない。まぁどちらでも対応できるように、明日は早めに学校へ行こう。
美雪に明日は一緒に行けないとメールを送ると、泣き疲れたおかげかすぐに眠りについた。
翌日恵那は無言で朝食をとると、何も言わずに家を出た。お父さんは泊まりがけの出張中なのか、それとも朝早く出て行ったのか家にはいなかった。
今日の朝食は人生の中で最悪だった。あんな無言の食事会は息がつまりそうで、お姉ちゃんにはすごく申し訳ない事をしてしまった。唯一の音源であるテレビだけが、あの場の空気を保つ存在だったのだ。お母さんはあれから私に何も言ってこない。今朝は朝食抜きを覚悟してリビングに入ったのに、自分の席にはきちんと朝食が用意されていた。どうしてだろう。お姉ちゃんがお母さんに言ってくれてたのだろうか。
どちらにせよ恵那はお姉ちゃんにお礼を言った。するとお姉ちゃんは優しく頭を撫でながら「私の分まで頑張れ」って言った。また少し、泣きそうになった。
恵那は裏門から学校に入ると、まず花壇を見た。土が少し湿っている。昨日雨は降っていないから、河村が水をあげたのだろう。今度は横の細道に回ってプールサイドを見てみると、河村が寝ていた。
「おーい、河村―」
私の声を聞いて、河村が面倒くさそうに体を起こした。
「よぉ。ちゃんと説明してきたか?」
「う……うん」
恵那はそれだけ答えた。説明したにはしたが、結局反対されて、朝から気まずい空気を味わってきた所だった。
「その様子じゃ反対されたみたいだな……まぁあのおばさん相手じゃ、勉強以外認めてくれそうもない感じだな」
「あはは……でもね、お姉ちゃんは応援してくれたんだ。河村と同じでやりたい事やりなさいって」
「よかったな。お姉さんはまだ物分りのいい人で」
互いに苦笑いをする。河村の方はうまく説得できたのだろうか。
「河村の方こそ、ちゃんと説明してきた?」
「ああ……しばらく沈黙された後、もう少し考える時間が欲しいって言われたよ」
「よかったね、まだ反対されなくて」
「でもあの様子じゃ微妙だな。まぁ提出期限までまだあるから、気長に勉強でもしながら待つよ」
勉強でもと言ういいぐさが感に触るが、よかった。まだ河村は反対されてなくて。それに比べて自分の親は何て理不尽なのだろう。ろくに話も聞いてくれなかった。勉強にしか頭にないお母さんだと知ってはいたが、あそこまで頑なに絵を描く事を否定されると、何だか自分の存在まで否定されたみたいですごく悲しかった。
「神崎?……大丈夫か?」
知らない間に俯いてた恵那に、河村は心配そうに声をかけた。河村がフェンスを越えてこちら側に来ると、鞄を手にして言った。
「とりあえず授業あるし、もう教室に行こうぜ。……それとも保健室に行くか?」
「ううん、大丈夫。教室に行こう」
恵那は力なく返事をすると、河村の少し後ろを歩く。隣で並んで歩くのは恥かしいし、何より今にも泣きそうな顔を見られたくなかった。唇を噛んで涙を堪えるのに精一杯だった。
授業が始まっても恵那は上の空だった。もうどうでもいい。授業なんてどうでもいいや。
自分のやりたい事をお母さんは認めてくれなかった。物凄く批判された。その事が昨日からショックで、恵那は今まで何で生きてきたのだろうとさえ考え始めていた。好きな事が出来ない人生なんて生きていても虚しいだけじゃないか。少しは自分の好きなようにさせてくれてもいいじゃないか。気がつくと恵那は無意識にペンシルを握って、何か描こうとしていた。それはもちろん黒板上の文字ではない。
そうだなぁ、何を描こうか。黄色い向日葵でも描いてみようか。恵那はノートの隅に向日葵を描く。駄目だ、花びらがはみ出てしまう。こんな小さなスペースでは、あの向日葵の偉大さまでは表現できない。もっと大きなキャンパスが必要だ。それこそ実寸大で描けれるようなスペースを。あの更衣室の壁が必要だ。
河村の言うとおり机の隅に落書きするのとは訳が違う。もし見つかったらどうなるのだろう。中学校までは義務教育だから退学にはならないだろうが、校長室に呼び出されるのは間違いない。それより警察に呼び出されるのが先だろうか。……あの水泳大会が終わった日から、白い壁が頭の隅にまとわり付いてはなれない。
恵那はどうしてもあの壁に絵が描きたくてしょうがなかった。もはやあの壁は、自分のために用意されたキャンパスとしか思えなくなっていた。自分がどこまでの絵を描けれるのか試したい。どうせあそこに絵を描いたって、誰かに迷惑をかけるわけでもない。きっと初めから壁に描かれていたかのように扱われるに違いない。プールの水さえ抜かずに来年の春まで放置してる管理体制なんだし、そこにスパイスを付け加えたっていいじゃないか。
恵那は考えれば考えるほど、いてもたってもいられなくなっていた。今日は塾がないから、早速絵を描くことができるかもしれない。どんな絵を描こうか。やっぱりあの花壇の花達を描きたいな。壁の大きさはどれくらいだっただろうか。この教室にある黒板の端から端までの大きさはあっただろうか。構図もしっかりと考えてから描かなければ。絵の具もどれくらい必要なのだろうか。
恵那はノートをめいいっぱい使って、描くのに必要だと思われる物をあれこれと書き出していった。楽しい。何だか凄くドキドキしてきた。それともワクワクかな。もしあの壁に絵を描ききる事が出来たのなら、たとえお母さんに勘当されてでも快く絵の勉強に徹しよう。