A-5「更衣室にて」
「絵が好きなら、美術系の学校にいけばいいじゃないか」
「それ、お母さんには絶対反対されそうだよ」
「何でだよ。絵を描くのだって勉強だろ。やりたい事があるなら、やりたい事をやれよ」
「そう……だよね」
未だに恵那は絵の学校へ行きたいとは言い出せずにいた。言う自信もなかった。
ただ絵が描きたいからと言って、それでは受験から逃げているのがばればれだった。
「そういう河村は、第一志望どこなの?」
「俺は……」
お金がなくていけそうもない。とは言い辛かった。でも神崎に散々言わせておいて、自分が言わないのは卑怯だとも思った。先生も信用にならないし、こういった単なるクラスメイトに話した方が気は楽になるかもしれない。
「俺は植物が好きで……将来的にも植物の研究をしたいと思ってる」
「あー。だから園芸部でもないのに花の水遣りとかしてたのね」
「そうかもな。それで農業科のある学校にいきたいと思っているんだが……」
河村は鞄の中から二つ折りの紙を取り出す。
「その学校は自宅から通うのには遠くて、寮に入らなければならない。金銭的に厳しい家庭の俺には無理ってことさ」
「それ、確か夏休み前に提出した奴じゃない。出してないの?」
「今日担任の先生から返されたんだ。来月までには埋めて来いだとさ」
河村が苦笑いした。その表情だけで、すごく悩んでいるんだと窺えた。
「お母さんにはまだ言ってないのね」
「ああ」
「さっき、私にやりたい事やれよとか説教たれてたのはどこの誰よ」
「そうだよなー」
河村はそう言うと、ごろんと仰向けに寝そべった。もうすっかり空は赤く染まり、今にも太陽は西に沈もうとしている。
「言うだけ言ってみたら?案外何とかなるかもよ」
「何とかなればいいんだけどな。俺が一人出て行ったら、残された弟や妹の世話は誰がするんだよ」
「河村って、案外いいお兄ちゃんなんだね」
「俺は優しい男、優二だからな」
そう言って恵那に笑ってみせる。
「普通自分でそういう事言わないよ?まぁ私からしてみれば、変な男だけど」
「俺からしてみれば、神崎の方が変な女だけどな。更衣室覗きに来たとか、変態のする行為だろ」
確かにその通りだ。河村に正論を言われて、恵那は何も言えなくなった。そんな恵那の姿に河村がくすくす笑う。そっぽを向くと、更に隣で笑い声が上がった。
「もうっ!そんなに笑わないでよ!」
「悪い悪い。もう日も落ちてきたし、部屋の電気を点けるのはまずい。早く更衣室覗きに行こうぜ」
そう言うとまた笑い出したので、恵那は無視して先に更衣室へと入った。さすがにまだ湿気臭さは残っている。人がいないせいか、今日着がえていた時よりも広く感じた。
「ねぇ……この壁に絵を描いたら、怒られるかな?」
恵那は奥の白い壁の前で立ち止まると、河村に尋ねた。
「ん?……普通怒られるだろうな。壁の落書きは器物損壊罪で逮捕されるぞ?」
「逮捕はまずいね」
「安心しろよ、名前までは載らないからさ」
河村はそう言ってちゃかしてきたが、恵那は真剣にこの壁に絵を描こうと考えていた。こんな白くて大きなキャンパスにめぐり会える機会はそうないだろう。
壁をじっと凝視する恵那を、河村はおいおいといった様子で声をかけた。
「本当にこの壁に描こうっていうのか?馬鹿な考えはやめとけ。机彫るのと違って、スケールがでかすぎる」
「……そうだよね。今日はここの部屋を見に来ただけだから、もういいや。帰ろう」
「お前そんなに絵が描きたいなら、自分の家で堂々と描けばいいじゃないか。美術部の時だって、多少なりとも家で描いてたんだろ?」
部屋を出ようとする恵那を引き止める。そんな河村に恵那は歯向かった。
「この前……自分の部屋でスケッチブックに絵を描いてたら、怒られた。勉強もしないで絵なんか描いてるから、お姉ちゃんに追いつけないんだって。もう絵を描くのはやめて勉強しなさいって……」
「神崎はちゃんと絵の勉強したいって、お母さんに説明したのか?」
「それは……まだ……。怒られるの分かってるし……」
そう言って恵那は白いキャンパスを見上げた。お母さんは自分がこそこそ隠れて絵を描いているから、怒ったのだろうか。きちんと絵の勉強がしたいと言えば、堂々と描かせてくれるのだろうか。
「お前も俺と同じかよ……まぁ気持ち伝えるのって、難しいよなぁ」
河村も家庭の事情を気にして、親に自分の進路希望を言えないでいた。提出物を白紙で出すくらいだ。河村の方が立場が重いに決まってる。そんな河村に、恵那はある提案をしてみた。
「ねぇ、こう言うのはどう?河村も親に自分の進路を言うの。私もお母さんに言ってみるから」
「なんだよ、それ」
「ずっと言えないで夏休みを過ごしてきたんでしょ?……私もそうだった。ただ隠れてこそこそ描いてるだけだった。勉強も、絵もどっちつかずの自分が嫌だった」
「神崎……」
「でももう、我慢したくない」
恵那は更衣室の扉を思いっきり開けると、外に飛び出してフェンスに駆け寄った。
「早く帰ろう。河村もきちんと言いなさいよ、私に説教たれたんだから」
「……わかったよ、駄目もとで言ってみる。明日、ここで結果報告でもしようぜ」
河村がそう言いながら手を振った。お互いに状況が似た者同士。仲間から勇気を貰った恵那は、夕食が済んだらお母さんにきちんと説明してみようと思った。どんなに怒られても、言うだけ言ってみよう。絵を描いてもいいように説得してみよう。
神埼が一人先に帰った後も、河村はなかなかその場から動けずにいた。
もう日はすっかり落ちてしまって、辺りが暗くなり始めている。そろそろ帰らないと、母親より先に弟達に怒られそうだ。河村はゆっくりと自分の荷物を手に取ると、プールサイドを後にした。
「あいつと変な約束しちまったなぁ……今日はお前達から元気を分けてもらおうと思って来たのに、とんだ誤算だった」
河村は少し笑って、花に話しかけた。
玄関を開けるとカレーのいい匂いがした。もうじき夕飯が出来るらしい。河村が家に上がると、さっそく弟達が出迎えた。
「遅いぞ優二兄!今日は一緒に遊んでくれる約束だろー」
「悪い悪い、ご飯食べたら一緒に遊ぼうな」
そう言いながらも母親の方を見る。この弟達がいる中で、どう話を切り出そうか。
河村はとりあえず自分の部屋に向かう。自分の部屋と言っても、弟達と一緒なのでプライベートもへったくりもないが。部屋着に着替えた河村は、進路希望調査の紙を持って母親の元に戻った。
「母さん、ちょと相談があるんだけどさ」
「どうしたのよ、そんな改まっちゃって」
「いや……進路の事なんだけど」
そう言って紙を見せる。母親はそれを見て鍋にかけてた火を止めた。
「……お父さんにも相談した方がいいでしょ。下の子達が寝てからでもいい?」
「ああ、そうしてくれ。……ご飯よそうの手伝うよ」
河村は母親からしゃもじを受け取って、弟達のご飯をよそう。両親に自分の進路希望を伝えたからと言って、今の経済状況じゃ無理だと言われるに違いなかった。それでも何かしら手を打ってくれるかもしれない。薄い期待で母親に背を向けながら、河村はその時を待った。
夕飯までの時間、恵那は自分の部屋で待機していた。
これから絶対に怒られるだろう。そう考えると胃がきりきりと痛んだが、一方的に約束してしまったんだ。もう後には退けない。それにしても河村が進路で悩んでいたなんて意外だった。河村は自分より頭がいい。学年でも確か上位に入っていたはずだ。
行きたい学校があるのに、家庭の経済状況を気にして言い出せずにいたなんて……自分の家庭は勉強オタクだけど、経済的には恵まれている方だから、金銭面では問題は無いはず。河村はもう親に言ったのだろうか。先程から下の音ばかり気にしている自分が何だか情けなくなってきた。
夕飯を終えると、お姉ちゃんは先にお風呂に入ると言って部屋を後にした。チャンスがあるとすれば今しかない。恵那は食器を洗っているお母さんに話しかけた。
「お母さん、私……絵の学校に行きたい」
「…………」
水流音が邪魔して聞こえなかったのだろうか。それとも自分の出した声が、あまりにも小さくなってしまったのだろうか。もう一度言おうとした時、ぴたりと音が止んだ。
「恵那、何を言ってるの?」
「お母さん……」
明らかに声の主は怒っている。恵那は覚悟していたが、思わず体が畏縮してしまった。
「絵なんか描いて、この先生きていけると思っているの?馬鹿な事言ってないで、早く勉強しなさい」
「でも……絵を描くのだって立派な勉強だよ」
「また落書きなんてしていたのね!お母さんあれほど勉強しなさいって言ったのに、何で勉強しないの!」
やっぱり怒鳴ってきた。恵那はあまりお母さんの顔を見ないようにと下を向く。
「だからお姉ちゃんに追いつけないのよ!受験まで時間がないのに。今まで何をしていたの!」
「私は……お姉ちゃんと同じ所になんか行かない!」
ズボンの裾を強く握りしめた。ついにお母さんに言ってしまった。
「私は絵の学校に行きたいの!絵の勉強をしたい!もっと堂々と描きたい!」
半泣きの目でお母さんに訴えた。恵那はビンタが飛んできても舌を噛まない様にと、唇をぎゅっとつむる。
「絵の学校なんかに行っても何にもならいでしょうが!いい学校に入る事が、いい人生の第一歩なのよ!」
それを聞いて恵那は唖然とした。何て愚かな人だろう。高学歴のお母さんは、いい人生を送ってきたとで言いたいのだろうか。それがこの結果なら、それは大した人生ではないと思った。
「私の人生なんだから、やりたいようにやらせてくれたっていいじゃない!私はお母さんの言いなりじゃない!」
もうこれ以上お母さんと話してても無駄だ。恵那は勢いよく席を立つと、そのまま逃げるようにして自分の部屋に入った。駄目だ、お母さんには勉強以外の事は通用しない。話にもならなかった。
恵那は部屋に誰も入ってこないようバリケードをはると、布団の中で声を殺して泣いた。