A-4「またプールサイドにて」
家に帰ってからも恵那はある考えで頭がいっぱいだった。
「あそこなら……誰にも見られずに、自由に絵を描く事が出来るよね」
ある考えとは、プールの更衣室で絵を描こうというものだった。
今日でプールの授業が終了したので、更衣室にはもう誰も入ってこない。誰もプールに近づかないだろう。……しかし普通に考えれば、学校の敷地内に不法侵入する事になる。でもこんな勉強家族の中で、誰にも邪魔される事無く絵が描けそうな場所は、もうあそこしか思いつかなかった。中間テストでますます家と塾に勉強を強いられた恵那はもうたくさんだった。別にお姉ちゃんと同じ学校に行きたいわけでもないのに。
「もう一度だけ……見るだけ見に行ってみよう」
恵那は描きたい衝動の元、学校へと向かった。学校に近づくにつれ、部活動のかけ声が聞こえてくる。裏門から入ると一目散にプールへと向かった。が、もうすでに入り口には鍵が掛けられていた。
「えっ!もうここ閉まっちゃってる……どうしようかなぁ」
試しにがちゃがちゃフェンスを動かしてみても無駄だった。
「もう一度だけ更衣室見たかったのになぁ……」
すっかり戦意を喪失させられて、その場で項垂れる。ここから登るのは無理そうだし、鍵が閉まっているのではどうしようもない。せっかくここまで来たのに。
恵那は足取り重く花壇の前でしゃがむと、花達を覗き込む。……描きたいなぁ。花弁を指で弄っていると、上から声が聞こえた。
「神崎かよ……」
「うわぁ!」
恵那はびっくりしてその場に尻餅をついた。慌ててパンツが見えないようにスカートを押さえる。
「どうせ短パンはいてるんだろ」
「うるさいな!……っ何で河村がそこにいるのよ」
「さあなー」
河村はそう言うと植木の影へ隠れてしまった。恵那が未だに困惑していると、植木越しに河村が言った。
「更衣室に入りたいんだろ?だったら横の排水口がある細道から登って来い。そこにいて誰かに見られるとまずい」
恵那は辺りに誰もいない事を確認すると、河村の言った通りに細道へと回った。フェンス越しに小さな声で河村に尋ねる。
「何で河村がそこにいるのよ」
「そこから登って入ったから」
「何で入ったのよ」
「一人になりたかったから」
「はぁ」
やっぱりこの男は分からない。それより自分はまた河村に見つかったのか。しかも今度は尻餅という特典付。最悪だ。
「手伝ってやるよ。パンツも見せてもらったしな」
「なっ……!黒いのは短パンよ!」
恵那は真っ赤になって反論すると、河村はしてやったりの顔をする。
「やっぱり短パンはいてるじゃん」
河村はフェンス越しに向き合うと、恵那に手を差し伸べた。
「ほら、手伝ってやるから早く来いよ。ここの植木の影なら、校舎の上からでも見られる心配がない」
「…………」
恵那はどぎまぎしながらもフェンスを登る。河村は一体何を考えているのだろう。何故いつも行く先々に、こう都合よく現れるのだろうか。恵那はフェンスの柵の上に乗ると、河村の手を借りて飛び降りた。
「……もうちょっとスカートが短かったなぁ」
「……あんた、そういうキャラだったの?」
恵那が眉を顰めると、河村は冗談だよと言って座り込んだ。
「神崎と俺、変な所で会うよな」
「河村が変な所にいるからでしょ」
「神崎が変な所に来るからだろ」
「……はいはい」
河村とは口喧嘩で勝てそうな相手ではない。恵那はあっさりと引き下がった。
「何で更衣室なんか見に来たんだよ?」
「それは……」
単刀直入に聞かれて言葉につまる。どうしてこの男はいちいち食いついてくるのだろう。とっくに河村は気付いている筈だ。自分が何をしようとしているのかを。
「言えよな。忘れ物を取りに来ましたーとは言わせないぜ」
「……わかったわよ、きちんと言うよ。もう分かってるみたいだけどさ」
恵那は河村の少し隣りに座る。そういえば男の子と二人っきりなんて、生まれて初めてな気がした。
「……私のお母さん、勉強にすごくうるさい人だから、自宅でなかなか絵が描けないの。プールの授業も終わったことだし、ここの更衣室で絵が描けないかなぁ……っと思って、今日は覗きに来ました」
「ふーん……お前、あそこの花壇でも描くのか?」
「まだ何を描くかは決めてないけど……花を描くのは好きだよ」
「だから花壇で俺と会ったのか」
「初めの動機は違ったけどね……ここの花壇、ちゃんと見た事なかったから」
振り返って花壇を見ようとしたが、ここからでは見えなかった。
「花壇の花はもう描いたのか?」
「まだ……これから描けたらいいなぁ」
恵那が膝を抱えて座り直す。これでは真正面からスカートの中が丸見えだなとも思ったが、同時に短パンはいてるからいいやと思い直した。
「河村は?なんでここに忍び込んだのさ」
「さっきも言っただろ?一人になりたかったからだと」
「どういうこと?」
「自分の家だと弟と妹の世話をしなきゃいけないから、一人になれないんだよ」
「兄弟多かったもんね、上は大変だなぁ」
「神崎にも確か兄弟いただろ?」
「お姉ちゃんが一人いるよ。……最近はまともに話してないけど」
「仲悪いのか?」
「お姉ちゃんも勉強で忙しいみたい……ほら、桜ヶ丘女学園って知ってる?あそこにお姉ちゃん通ってるから」
「……もしかして神崎のお母さん、PTA会長だったりする?」
「するね」
「うわー、あのおばさんやたら自分の娘の事自慢してたから、嫌でも覚えてるわ……ってごめん、お母さんの悪口言って」
河村が恵那に謝る。それに対して恵那は「もっと言っても大丈夫だよ」と笑った。
「お姉ちゃんがあの学園に入れたからって、私にもそこに行かせようとするんだよ。毎日勉強しろ勉強しろってうるさくてうるさくて」
「大変な親を持ったな。神崎はお姉さんと同じ学校には行きたくないのか?」
「嫌だよ。もっと下のランクの高校でいいですって感じ。まぁ今の私の学力じゃあ、絶対受かりっこないだろうけど」
「神崎の第一志望ってどこ?」
「無難な西大高校かな。あそこは公立だし、ランクは普通よりちょっと下だけど……ここからなら通いやすいし」
「……お前、自分の利便性だけで学校選んでないか?」
河村の口調が怒っているようだったので、恵那は思わず口をつむる。確かに通学的にも、学力的にも一番楽な所を選択していた。しかし無理して上ランクの学校に入ったとしても、ついていける自信もないし、しんどいだけだ。
恵那は自分自身をはぐらかすように空を見上げた。