A-23「×××にて」
「お疲れ、今日は意外と早かったな」
河村は携帯で時刻を確認した。まだ十八時を少し回った所だ。
「うん。もう雨も降りそうだし、明日までのお楽しみだからね」
神崎がそう言って意地悪く笑ってみせる。すっかり大丈夫そうだ。無邪気に振舞う神崎に河村も笑う。
何だ、過剰に心配しすぎただけか。河村は神崎の姿に安心すると、自転車にまたがった。
「今日も運転よろしく!」
神崎が荷物をかごの中に入れて河村の肩を掴む。河村が「はいはい」と言いながら自転車をこぎだした。
「何か急に元気になってないか?お前」
「え?……いや、明日が待ち遠しくてね。やっと完成するのかと思うとドキドキしてきちゃった」
「俺は違う意味でドキドキしてるよ……ったく」
安全運転で神崎を家まで送り届ける。玄関先で神崎が振り返って言った。
「明日の放課後……終業式が終わったら、更衣室で待ってるから」
「……わかった。期待しててもいいんだな?」
「少しはねっ!」
そう言って家の中へ入っていった。しょげっぱなしかと思えば、急に元気になりやがって。どんなに心配してたのかわかってるのかよ、あいつは。
河村は今朝の自分にため息をつくと、真っ直ぐ家に帰った。
家には誰もいなかった。当たり前か。
まだ十九時前なのでお母さんは仕事だし、お姉ちゃんは塾だ。自分の部屋に戻ると、急いで残りの作品達を詰め込んだ。
早く学校に戻らなくては。お母さんの携帯に「美雪の家に泊まってきます」とだけ伝言メッセージを入れると、誰も知り合いがいないのを確認しつつ学校へ向かった。いつにも増して慎重にプールサイドへと侵入する。
もしかしてもしかすると河村がいるんじゃないかと思いもしたが、近くに人のいる気配はない。
良かった。恵那は更衣室に入ると今持ってきた作品も含めて床にばら撒き始めた。スケッチブックや、ノートなんかは一枚一枚丁寧にちぎってばら撒く。
床一面に自分の作品達が広がった。
「……なんていい眺めなんだろう」
靴を脱いでそれらを踏みつける。床一面にも花達が、自分を取り囲むかのように咲き誇っていた。
恵那は現実の不可思議な光景にうっとりすると、横の大きな花畑を見つめた。これで下準備は整った。後は花に水をあげよう。
恵那はふらふらと立ち上がると、プールサイドに出た。雨がもう降り始めていた。
それに構うことなく河村御用達のホースを手に取ると、蛇口と更衣室を一本のラインで繋いだ。水が勢い良く流れ出て、床の花達を一気に湿らせる。排水口に花が詰まったらしくゴボゴボと音を立てた。
恵那は満遍なく水遣りをしようとホースを手に取り部屋の中央で踊った。流石に虹は出来そうにもない。
やがて飽きたようにホースを手放すと、お父さんの部屋から持ってきた酒瓶を開けて、それを一気に飲み干そうとした。
アルコールを摂取すれば、表面の血管が膨張するので素早く体温が失われるらしい。凍死するには直腸の体温を下げる必要がある。しかしアルコールを口にしたことがなかった恵那は、あまりの熱さと喉の痛みにむせ返ってしまった。それでも涙を流しながら一気に身体の中に取り込むと、ふらふらの足で外にでる。
雨は豪雨に変わっていた。へぇ、丁度いいや。恵那はふらふらになりながら、頼りない身体を濡らしていった。五分とも経たない内に全身ずぶ濡れになる。
すぐ横の二十五メートルプールを眺めると、雨が表面を叩いて激しい音を奏でていた。まるで余興のようだと恵那は笑った。風が、雨が体中の体温を奪っていく。
寒い、寒い。寒くて痛い。だけど身体の中は熱い。
制服がすっかり重くなってきて、視界を遮る髪の毛を退かすのも面倒だった。
痛い、痛い。
千鳥足になりながらも、恵那は更衣室に戻った。ホースからはまだ水が出ていた。
寒い、寒い。寒くて痛い。
開けっ放しの窓から風が入ってくる。余興がまだ近くで聞こえる。
恵那は何とか部屋の中央まで戻って来ると、そのまま横たわった。酔いが回って気持ち悪い。目の前がぐるぐるしている。
恵那は虚ろになりながら時が経つのを待った。もうすぐ自分は死ねる。この世界から消える事が出来る。
身体を震わせながら、歯をがちがちと鳴らしながら、恵那は薄ら目を開けて花畑を眺めた。綺麗だ。水を浴びて、外の明かりに照らされた花畑は最高に綺麗だった。
これで良かったんだ、これで。かじかむ手足を何とか伸ばして、花畑の真ん中で大の字になる。窓から来る風が、水を含んだ制服が、冷たい花畑が、コンクリートの土が急速に恵那の体温を奪い去っていく。
本当に死んぬだ、これで。
恵那は酔いと痛みに耐えながら、目を閉じて静かにその時を待っていた。