A-21「河村の告白にて」
翌日から恵那は毎朝美雪と登校し、学校の授業に出てから絵を描き、終わったら河村に送ってもらうという奇妙な生活を送っていた。
美雪の方も以前より増して自分を励まし、笑わせようとしてくれる。恵那は河村と美雪の存在に感謝しながらも、その一方でひたすらに絵を描き続けていた。
早くこの世界を完成させなければ。早く自分を完成させなければ。絵を描く事が恵那の全てになっていた。そう思い込まなければ、恵那はこの世界には居られそうもなかった。
お姉ちゃんとお母さんは、協力してお父さんを探し始めている。お姉ちゃんは少し変わった。丸くなったというか、入るべき所に入って落ち着いたというか何というか、とにかく変わった。自分はどうかと言うと、未だ何をすべきなのか分からずに、ただひたすら現実から逃げていた。勉強からも逃げていた。ただ絵を描き続けていた。
これからどうすればいい。どうしたらこのとてつもない不安から開放されるんだろう。着々と色づいてきたキャンパスを見つめながら、一人世界に取り残されている自分に気がついてしまった。
気がつくと季節は冬だった。もうすぐ冬休みに突入しようとしていた。そして恵那の世界も完成しようとしていた。
相変わらず恵那は今日もキャンパスに向かう。ただひたすらに。お父さんはまだ見つからなかった。それでもお母さんは私達に迷惑がかからないようにと働き、探し続けていた。もういいよ、お母さんお姉ちゃん。いなくなっちゃったのは仕方が無い事なんだよ。もうどうでもいいよ、こんな世界。
恵那はキャンパスを見上げた。もうすぐ、もうすぐだ。やっと終りが見えてきた。自分の世界に終りが。終末が。今日はここまでにしておこう。恵那が早めに片付けにとりかかると、ふとドアがノックされた。
『神崎、今日も入っていいか?』
河村だ。最近河村は図書室で勉強してから更衣室に寄るようになっていた。そして壁の絵を見て帰る。恵那が帰る時になったら、メールを送ってお迎えに来てもらっていた。
「いいよ。どうぞ」
恵那はそう言って、ここがまるで自分のアトリエかのように振舞う。河村が絵を見て呟いた。
「もうすぐ完成しそうだな」
「うん。夏休み明けから振り返ると、長かったね」
「そうだな」
河村がゆっくりと部屋の中央に行き、壁を見上げた。
「俺、素直にお前のこと尊敬するよ、本当。最初この壁に絵を描くって言い出した時は半分冗談だと思ってたけどさ……ここまで描くなんて凄いよな」
河村が絵を見つめたまま微動だにしない。何か様子が変だった。
「河村、どうしたの?急に……」
「神崎、お前この絵を描き終わったらどうするつもりなんだ?ちゃんと勉強に専念するつもりなのか?」
「何でそんな事聞くのよ」
恵那は河村を睨みつけた。それに怯むことなく河村は続ける。
「こないだの期末テストはきちんと出来たのか?そろそろこんな所に閉じ込もっていないで出てこいよ、神崎」
「うるさいな。そんな説教しに来たなら帰ってよ!」
怒鳴りつけても河村は動こうとしない。更に話を続ける。
「俺、お前の考えてる事分かるぜ。……当ててやろうか?」
そう言って地面に転がっていた絵の具を拾いだした。赤色の絵の具だけを拾っている。
その行為自体気味が悪く、恵那は河村から離れた。
「お前…………この絵が完成したら、自殺するつもりなんだろ。そうだろ」
河村が赤い絵の具を握り締めながら恵那に近づいた。
「来ないで!」
恵那は歩み寄ってくる河村が、次の言葉が怖くて、更衣室の隅で動けなくなっていた。
「来ないでよ!こっちに来ないで!」
半泣きで叫ぶ恵那を、河村は力尽くで容赦なく抱きしめた。持っていた絵の具が辺りに散らかる。力強く抱きしめられて、恵那は呼吸をするので必死になった。
「そんな事させるかよ、馬鹿野郎!そんなの俺が全力で止めてやるからなっ!」
耳元で叫ばれて恵那は涙を流した。河村が優しく恵那の頭を撫でる。
「……好きなんだ、お前のこと。ずっと前から。いい加減俺の気持ちに気付いてただろ」
恥ずかしくて、河村から目を逸らす。
「逃げるなよ、現実から。ちゃんと向き合えよ。今のお前、もう見てられないんだよ…………っ」
「河村…………」
見上げると、河村も泣いていた。
「…………返事、絵が完成するまでに考えとけよ。俺、待ってるから」
そう言ってふらふらと頼りない足取りで更衣室を出て行った。
恵那は泣いた。ただその場で泣いた。何が悲しいとかではなく、河村の優しさにただ泣いた。その場で泣くことしか出来なかった。