C-7「北館2階にて」
恵那が席を立った。志穂は恵那が始終冷めた目でこっちを見ていたのを、嫌でも肌で感じとっていた。恵那も汚れてしまった。傷ついてしまった。恵那だけは純粋にこの世界を生きていて欲しかったのに。汚れるのは自分だけで良かったのに。
感情的に溢れる涙を拭う。思わず恵那の前で泣き出してしまった。この現状にどう立ち向かえばよいのだろうか。収入源が逃げてしまったのだ。これから三人で暮らしていかなくてはならない。あのばばぁだけの収入では今後暮らしていけないだろう。何としてでも父を見付けなければ。
志穂は目の前のばばあを睨んだ。こんな女を、信用出来るわけがない。塾や勉強の事で頭いっぱいで、私達の事なんかわかろうともしなかったこの女を。こいつがお父さんを見つけれるとは思えなかった。涙がおさまるのを見計らって志穂は席を立つ。階段で制服姿の恵那とすれ違った。目も合わせてくれない。まるでかつての自分を見ている様だった。世界を知り、世界を憎んでいる。恵那だけは辛い思いをしてほしくなかったのに。志穂は恵那の後ろ姿を見届けると、部屋に置き去りにしていった携帯電話で杉浦に電話した。
『はい、杉浦です』
仕事中だから出ないだろうと思っていたが、杉浦はすぐ電話に出てくれた。
「……今何処にいるの?」
『何処って、仕事中だよ。志穂さん、今日学校は?』
「知らない。それより助けてよ。もうあんたしか頼めそうな大人はいないんだよ」
また涙が出そうになる。志穂は鼻を啜って誤魔化した。
『……とりあえず何処かで話そう。そうだな……五時に駅前でどう?』
時計を見た。まだ正午すらまわっていない。
「待てない。早く来てよ」
『うーん。それじゃあ僕の仕事場においで。場所は桜ヶ丘女学園……わかるよね?』
その言葉で杉浦の謎が解けた。あいつは学園の関係者だったのだ。でもあんな男を志穂は見かけた覚えすらなかった。
「あんた、学校の先生だったの?」
『いや、ちょっと違うかな。まぁおいでよ。一人で泣いてないでさ』
「泣いてなんかないわよ!」
志穂は無理矢理通話を終了させると、制服を着た。あの男、本当に学園内にいるのだろうか。職員室をよく出入りする自分ですら、杉浦の姿を見た覚えがない。教師ではないと言っていたが……とにかくあいつが何者なのか知りたい。志穂はリビングに一人いる母親を残して家を出た。
いつもの通学路を手ぶらで向かった。携帯だけをスカートの中に入れて。志穂は手すりを強く握りしめて早く『桜ヶ丘女学園前』に着くのを待った。杉浦はそこにいるという。嘘か本当か。どちらにせよ杉浦が自分の願いを聞き入れてくれる人かどうか判断しなければならない。駅に着くと駆け足で校門に向かった。
校庭では体育の授業が行われていた。志穂は辺りを見渡してから、もう一度電話を入れる。
『……はい、杉浦です』
「着いたわよ、今校門前」
『そうみたいだね。ここからでもよく見えるよ』
志穂は再び辺りを見渡した。しかし携帯電話で話している男は見つからない。
『あはは、僕は校舎にいるよ。北館2階の一番東の部屋……もうわかったかな?そこで待ってるね』
今度は一方的に電話を切られた。北館2階の一番東の部屋……確かスクールカウンセラーとかいう、胡散臭い大人による自己満足の部屋になっていた筈だ。あいつはスクールカウンセラーだったのか。杉浦にはめられた気分だった。自分は杉浦のいい対象物になっていたのだ。志穂はそう判断すると、無性に怒りが込み上げてきた。今までの自分に対する態度ですら、全て演技に思えてきたのだった。許さない、あの男。志穂はスクールカウンセラーのドアを思いっ切り引いた。
「いらっしゃい。ようこそ僕の仕事場へ」
志穂は杉浦の姿を捕らえると、真っ先に殴りかかろうとした。しかし杉浦は志穂の両手を押さえつける。
「あんた、嘘ついてたのね。最低!」
「だって本当の事を言えば僕とデートしてくれなかったでしょ?これは仕方のなかった嘘だよ」
「いつからこの学園勤務になったよの。あんたを見かけた覚えはないわ」
杉浦は志穂の手を離すと、ソファーに座るよう促した。志穂はその手を振り払う。
「質問に答えてよ。あんたは何処で私を知ったのよ」
「まぁまぁ落ち着いて……僕は先週からこの学園に来たばっかりだよ。この近辺の学校にあちこち出向いているのさ」
「何で私を知ってたのよ」
「そうだな、一度だけすれ違ったとでも言っておこう」
「また嘘をつく気なの!」
「いやいや、本当だよ。本当にここに来た初日、君と廊下ですれ違ったんだ。まぁそんな事君がいちいち覚えている訳もなかったんだけどね……何か飲むかい?」
「話を誤魔化さないで!例えすれ違っていたとしても、どうして私だと分かったのよ。あの出会い系サイトもどうしてわかったのよ」
「…………」
杉浦がソファーに座る。志穂は杉浦を見下ろした。
「僕もあのサイトに登録してたんだ。こんな事、スクールカウンセラーがやっているなんてね……まぁ僕も男なんだよ。そこで君の写メを見つけたんだ。首から下だけだったけど、僕にはすぐにわかったよ。あの時廊下ですれ違った女の子だって。そこで君の事を調べさせてもらったのさ。最初に言ってたストーカってやつかな」
「嘘よ!あんな写メで分かるわけないじゃない」
志穂はそう突っぱねたが、杉浦がまっすぐに見つめる。
「それが分かってしまったんだ。君だと気づいたら居ても立ってもいられなくて……何としてでも君に近づきたかったんだ」
「目的は?じゃあ目的は何よ。スクールカウンセラーだから、こんな援交してる女子生徒の心理でも知りたかったわけ?それともいっちょ前に説教でもするつもりだった?」
「僕は……君を一人の女性として助けたかったんだ。もうこの仕事に関係なくね」
杉浦が再び立ち上がると、志穂を抱きしめた。志穂はそれに動じることなく、直立不動のまま聞く。
「何?一人の女性って。まさか本気で私の事、好きだなんて言わないでよね。変態」
「ああ、好きだよ。本当に君に一目惚れしたんだ……もう嫌われちゃったみたいだけどね」
抱きしめられた手が震えていた。志穂は考えあぐねいて、この際杉浦に頼みごとをしてみようと思った。
「……本当に私の事、好きなの?」
「ああ。自分でも信じられないくらいに」
「じゃあ、あんたに頼みたいことがあるんだけど」
「頼みたいこと?電話で言ってた事かな?」
「そう。私と妹を、あんたの家に住まわせて欲しいのよ」
杉浦がどういう事か分かりかねて、一度志穂を離した。
「それは…………その、いきなり家族になろうってことかい?」
「それでもいいわ。一緒に住むのが無理なら、保証人になってくれるだけでもいい」
杉浦は志穂の目を見た。志穂も杉浦を見返す。こっちは本気だ。
「ちょっと待ちなさい。志穂さん、君はもしかして家出するつもりなのか?」
「そうよ。妹と一緒に」
「馬鹿な考えはやめなさい」
「馬鹿じゃないわ。お金だって三百は用意できてる」
「……君は、家を出る為だけに援交をしてたのか」
「手っ取り早く稼ぐ手段だったのよ」
「君と妹だけで、この世の中生きていけるわけないじゃないか」
「だからあんたの、大人の力も必要なのよ。もう杉浦しか頼めそうな人はいない」
「そう言われてもなぁ……」
杉浦が困ったように目を泳がせる。志穂がすかさず杉浦にキスをした。
「私の事、本気なんでしょ?だったら、私も本気よ」
志穂と杉浦はしばらくの間見つめ合った。そして杉浦が照れくさくなったように呟く。
「やれやれ、ここは学校だぞ。とんだ悪魔に捕まったなぁ」
「あら、誘ったのはあなたの方じゃない。可愛い悪魔でしょ」
「そうだな……全く」
杉浦が入り口の鍵を閉めると、志穂をソファーに押し倒した。今度は杉浦からのキス。これで必要なコマは揃ったわ。志穂は心の中で笑うと、杉浦との愛を確かめ合った。