C-3「スパゲティ屋にて」
電車の手すりを握り締めながら、志穂はいつもの帰り道の延長線を辿っていた。この時間帯はいつも座れない。人が多すぎる。気持ち悪い。志穂はいつも降りる側の出入口付近を確保すると、床に鞄を置いた。こんなに重い物を毎日持ち歩かなければならない。当たり前と言えば当たり前なのだが、今の自分には不必要な代物だった。
『次は……駅。出口は右側です』
耳障りなアナウンスが降りる場所を告げた。これから志穂は『白い鴉』とかいう男に会う予定だ。あのメールのせいだ。腹が立つ。志穂はむかむかする胸元を強く抑えながら改札を出た。
「公衆電話の隣……ここか」
荷物を降ろすと柱にもたれかかった。向こうは自分の顔を知っているようだが、こっちはどんな男なのか見当もつかない。約束した時刻まで後五分。白い鴉とやらはもう来ているのだろうか。実はすでに来ていて、この光景を遠くから見て楽しんでるのかもしれない。どちらにせよ、最悪な放課後を過ごす事になるだろう。志穂が目を瞑って待ち構えていると、不意に上から声がした。
「お待たせいたしました」
背の高い痩せ型で、眼鏡にスーツとビジネスマンの格好をした男が目の前にいた。随分と若い男だ。こいつか、白い鴉とやらは。
「……あれ?神崎さん聞こえなかったのかな?」
こいつだ。志穂は思いっきり男を睨むと開口一番に言った。
「あんたなんて知らないわよ」
「……そうですか。でも僕はあなたの事知ってます」
「どうしてよ」
「立ち話もなんですし、どこかお店に入りましょう」
そう言って男は志穂の荷物を勝手に床から拾い上げると、スタスタと駅ビルの方へ向かっていった。志穂仕方なく男の後ろをついて行く。こいつ何者だ?自分の覚えている限りでは、恐らく会ったことがない。初対面の男だ。だが向こうは自分の事を知っている。もしかして前の奴の友達か?いや、それにしては身なりが他の男共と違いすぎる。
「スパゲッティは好きかな?」
男が振り返って志穂に尋ねた。それを無言でやり過ごすと、男は「嫌いではないみたいだね」と呟いて一人そのお店の中に入っていった。
「二名様御来店でーす」
「いらっしゃいませー」
店員の笑顔がやたら胸にささる。志穂達は禁煙席に腰を掛けると、男がメニューを広げて言った。
「このスパゲッティおいしそうだね……神崎さんはお腹空いてない?」
「……知らない男と食事するつもりはないわ」
「そう?知らない男とは寝るのに?」
志穂は男を睨んだ。
「あんた、どこまで知ってるのよ」
「さぁ。確かなのは名前くらいかな」
肘をついて見つめてくる。本当に何なのよ、こいつ。
「じゃあ何で名前知ってるのよ」
「すれ違ったからかな。多分こういう運命だったんだよ」
「ふざけないで!何が目的?さっさと用件言いなさいよ!」
痺れを切らして叫ぶ志穂に、男は「まぁまぁ」と言ってなだめた。
「用件はメールに書いてあったでしょ?一緒に夕食でもどうですかって。僕はこの期間限定スパゲティに決めたよ。君も早く決めてくれないと店員さんが呼べないなぁ」
「……じゃあ一緒の奴でいいわ」
志穂は足を組み直して窓の外を見た。この男のペースに呑まれているのはしゃくだが、確かにお腹は空いている。どうせ奢らせるんだからと、普段の自分なら一番高いメニューを頼むのだが、この男にはそんな気すら起きなかった。
「いつまでそんな顔してるのかな?せっかくの夕食会なんだから楽しくやろうよ」
「この状況でどうやって楽しめっていうのよ。さっきの答え、まだ聞いてないわよ」
「答え?」
「何で名前知ってるのか」
「ああ。じゃあ今の所は君のふった男友達とでもしておこうかな」
「…………」
嘘か真か。この男の表情からは読み取れなかった。でも名前を知っている可能性があるとすれば、それくらいしか思いつかない。これまで本名を隠して男共と遊んで来たが、何処かでばれたのだろう。それにしてもこの男が一体誰の友達なのか。そっちの方が見当つかなかった。
「じゃあそのお友達の復讐でもするつもりなの?あれはお互い同意の上でやってる事。第三者が口出しする事じゃないわ」
志穂がそれを告げると、男は鼻で笑った。
「まさか。僕は単に君に興味があるだけだよ」
「興味って……」
「君とお話がしたかっただけって事。お、頼んだ物がきたよ」
男は広げたメニューを丁寧にたたんでしまった。同じ品が二つ、テーブルの上に並ぶ。
「美味しそうだね……頂きます」
まるで子供のように手を合わせると、スプーンも使って器用に食べ始めた。志穂もそれに続いて食べ始める。確かに美味しい。
「僕、ここのスパゲッティ大好きなんだよ。一人でたまに食べに来るのさ」
「そう。で、用件は何なの?」
「何が?」
「まさか本当に食事だけしに来たわけじゃないんでしょ」
「どうして?」
男がぽかんとした顔で見返す。
「名前をネタに、私をゆすりに来たんじゃないの?」
「なるほど、そういう手もあるね」
「あんた、私を馬鹿にしてるの?」
「馬鹿にはしてないさ。今日は本当に食事をしにきただけだよ」
わからない。何なのこの男は。今まで何人かの男と食事を共にしたが、流石にここまでわからない男はいなかった。みな次なる目的と下心丸出しだったのに。
「……何であたしと食事がしたかったのよ」
「だから君に興味がある、お話がしたかっただけなんだよ。随分と疑り深いなぁ」
男は口元をナプキンで拭いてから水を飲む。きっちりした男だ。もしかして育ちはいい方なのかもしれない。紳士っぽい、と言えばいいのだろうか。
「あなたの名前、聞いてなかったわ。免許書見せてくれる?」
この男の口だけでは信用ならない。
「ああ、そういえばまだ名前を名乗っていなかったね。……免許書まで見せなきゃだめかい?」
「口だけじゃ信用出来ないわ」
「わかった」
財布を取り出すとそこから免許書を引き抜く。志穂にそれを見せながら言った。
「杉浦幸太郎です。名前は信じてくれるかな?」
「ええ。仕事は何をしているの?」
「一応薬剤師という事にでもしておこうかな」
嘘臭い笑みで杉浦が答えた。本当かどうかは分からないが、確かにこの男はスーツより白衣の方が似合いそうだ。
「ふーん。でも今日はスーツなのね」
「白衣で出歩く訳にはいきませんしね。初対面の女性には、スーツがいいでしょう?」
「そうかしら。少なくとも私には似合ってる様には見えないわ」
「言うねぇ。まぁ僕も白衣の方が似合ってると思うけどね」
「それにしては若い薬剤師さんだこと」
「そう?こう見えても今年で三十なんだけどなぁ」
杉浦が照れくさそうに呟いた。そんな杉浦を志穂は睨みつける。
「……女子高生と食事できて楽しい?あなた本当は援交したいんじゃないの?」
「うーん。確かにこれは援交の一種だね。でも僕は君にしか興味がないならどうかな?」
薄ら笑いで志穂を見つめる。何なのこの男。これ以上関わるといろいろ面倒な事になりそうだ。志穂は綺麗に食べ終わると、鞄を持って立ち上がった。
「帰る。ご馳走でした」
そういうなりさっさと店を出た。後ろの方で何か聞こえたが、無視して先を急ぐ。これ以上あの男に関わりたくはない。だが、惜しくも改札に定期を通す寸前でその手が止められた。
「ま、待ってくれっ!」
杉浦が呼吸を整えながら強く言った。志穂は止められた手と男を交互に見る。
「離して」
「嫌だ」
「何でよ」
「……わかった、正直に話そう」
杉浦は改札前から自分を遠ざけると、一度深呼吸をして、大声で叫んだ。
「その、僕は君に…………一目惚れしたんです!」
「はぁ?」
何こいつ。人の事脅してくるのかと思えばいきなり告白しやがって。しかも公衆の面前で。
「ちょっと!」
志穂は杉浦を無理やり引っ張ると、人目がつかない所にまで連れてきた。
「あんたさっきからどういうつもりなの!何がしたいのよ!」
怒鳴りつけると杉浦は「すみません」と頭を下げた。
「でも僕は本当に君に……一目惚れしたんだ。自分でもおかしな事してるのは分かってる……分かってるんだ……」
初めて杉浦の顔が崩れた瞬間だった。そしてそれは本当の事を意味した瞬間でもあった。
「私とは何処で初めて会ったのよ」
「それは……悪いが今は言えない」
「何でよ!さっさと吐きなさいよ!」
「…………」
杉浦は頑なに口を閉ざした。
「……もういい。あんたはストーカーだったのね」
「どちらかと言うと、そうなるね。まぁそう言われても仕方ないか」
悲しそうな目で遠くを見つめる。本当に何なのよ、こいつ。
「で、私にどうしろと言うのよ。また食事にでも付き合えと言うの?」
「そうだなぁ。今度はデザートでも食べに行きませんか?神崎志穂さん」
「……わかったわよ。どうせ断れそうにもないしね」
志穂は吐き捨てるように言った。断った時こそ名前をネタにゆすってくるに違いない。これはこれで面倒な男に捕まったものだ。
「じゃあ次の日曜日はどうですか?僕の仕事も午前中で終りですし」
だがいい獲物でもあった。