A-2「花壇にて」
「学校行ってきまーす」
今日は八月一日、夏休み最初の出校日。恵那はいつもより早く起きると、今日提出期限の宿題をつめて学校へと向かった。
家から学校までは徒歩で約十五分。そう遠くはない距離なのだが、今までクーラーの中で過ごしてきた恵那にとって、外は地獄と化していた。
「久しぶり恵那、あんた白いわねー」
恵那の姿を見るなり、いつも一緒に学校へ行く美雪が言った。
「最近部屋に引き篭もってたしね。そういう美雪は黒すぎるんだよ」
恵那と対照的に黒い肌の美雪は「あはは」と笑った。
「陸上部で走っていたのもあるし、何せ昨日まで沖縄旅行だったからね。はい、これお土産!」
手に持っていた紙袋の中から一つ、黄色い袋を取り出して恵那に渡した。
「シーサーのキーホルダーだよ。可愛いでしょ?」
袋から取り出したシーサーと目が合った。笑っている。可愛いかどうかは絶妙だったが、恵那は「ありがとう」と言って鞄にしまった。
「美雪も受験生なのに、よく旅行に連れてってもらえたわね」
「恵那の家族が勉強オタクすぎるんだよ。たかだか高校の受験でしょ?成績そこそこ取っていれば、普通に公立の高校受かるって」
「私は勉強オタクじゃないわよ。いいなぁー美雪のお母さんは勉強にうるさくなくて」
「恵那のお母さんPTAの会長様だもんね。その娘とならば、県内一位の高校に行かせたいわけだ」
「もうお姉ちゃんだけで十分だよ……はぁ、嫌になるなぁ」
「まぁ県内一位の高校に入らないにしろ、勉強しとくのは損じゃないからいいんじゃない?」
「でも自由な時間がなくて死にそうだよ。毎日毎日勉強勉強うるさいし」
じっとりとした汗が頬をつたう。こうして友達と話しながら歩くだけでも、汗が大量に出てくる。
夏にやたら地球温暖化を騒ぎたくなるわけだ。
「じゃあ、授業が終わったら玄関で待ってるね」
ようやく四階まで上った後、そう言って美雪は自分の教室へと入っていった。恵那の教室は一番奥のため、暑い日差しが照りつける廊下を、あと三教室分歩かなければならない。
こんなちょっとした事まで、暑さが絡むと無性に腹立たしく思えた。
毎年恒例とも言える先生からの夏の挨拶と、大掃除が終わった後、美雪と再び玄関で合流した。
「はぁー、登校日ってほんと意味ないよね。特に大掃除!」
「どうせまたお盆休みの時に埃溜まるのにねー」
口々に学校や先生に対する不満を言いながら、恵那達は部活動ではびこる声の中を歩く。
ふと鞄の中を見ると、恵那はノートがない事に気がついた。
「あ……」
そういえば先生の長話の時に落書きをして、そのまま机の中にしまったままだった。
「え、何?どうかしたの?」
心配する美雪に恵那は「忘れ物をしただけだよ」と言って、先に帰ってもらうよう促した。
ノートとはいえ、あれにもいくつか絵が描いてある。まさか無いとは思うが、万が一誰かに見られるのはまずい。恵那は面倒くさそうに今来た道を引き返した。
本日二度目の階段を上りきるとまた汗が出てきた。本当に夏は嫌になる。
ふと窓の外を見てみると、花壇で誰かがうずくまっていた。あのつんつん頭は見たことがある。同じクラスの河村優二だ。こんな暑い日までご苦労なこったと彼に同情したが、少し気になってクラス委員一覧表を見てみた。やはり彼は園芸委員ではなく、美化委員だった。
「河村のやつ、園芸委員でもないのに何やってるんだろう」
河村優二といえば、今時の少子化社会には珍しい、六人兄弟の長男だったはず。恵那の認知度はその程度だった。
「……後で冷やかしに寄ってみるかな」
恵那はにんまりすると、自分の机の中からノートを取り出し、無造作に鞄の奥につっこんだ。
河村はまだ花壇でうずくまっていた。近くでよく見ると、倒れた花を起こしてあげているみたいだ。
そういえば一昨日に、豪雨が降った事を思い出した。
「……何か用か?」
河村が恵那の気配に気がついて、泥だらけの手で額の汗を拭いながら振り返った。
「別に……暑いのにご苦労様なこと」
「そいつはどうも」
そう言うと河村はまた花と向き合い始めた。
「河村って、園芸委員だっけ?」
「違うけど……今日ここを通った時に、花が倒れてたからちょっとね」
河村はそう言って腰を上げると、泥のついた手を洗いに水道場へと向かった。こんなクソ暑い中、花の世話なんてする奴は河村ぐらいだろう。暇な男だ。恵那は心の中でそう毒づいたが、河村のおかげで花壇の花達はすっかり元通りになっていた。
ここの花壇は校舎裏のプールの横にあり、普段の学校生活では滅多に見に来る事はない。よく見ると金色に輝くマリーゴールドや、桔梗など様々な種類が豊富に植えられている。……なんて手入れの行き届いた花達なんだろう。
「ところでおまえは何しにきたんだよ」
花壇の前に佇む恵那を見て、戻ってきた河村が言った。そう言えば冷やかしに来たんだっけ。
「冷やかそうと思ったけど、やめた」
「はぁ?」
「私、忙しいから帰るね」
じゃあ、と河村に向かって手を振ると、その場から逃げるように校門へと向かった。これ以上あそこにいたら、花壇の花達を描きたくてしょうがなくなる……なんてただのクラスメイトに言える筈がない。
自分が元美術部部長だなんてことは、河村にとってはどうでもいい事なのだ。
夏休みもとうとう終わり、今日からまた学校と塾との往復毎日が始まる。恵那は夏休みの間中こそこそと絵を描いては勉強、絵を描いては勉強を繰り返して過ごしていた。お母さんに勉強を強いられれば強いられるほど、絵を描きたい気持ちが膨らんでいく。抑えられない。もっと大きなキャンパスで堂々と描きたい。自分の絵を認めてもらいたい。しかしその一方で、受験勉強から逃げ続けている自分がやるせなかった。
「はぁー……」
「どうしたの?」
大きなため息をつくと、隣で歩いていた美雪が心配そうに尋ねた。やりたい事がやれない気持ちを、美雪は分かってくれるだろうか。このどっちつかずの自分に喝でも入れてくれないかなぁ。
「なになに?恋煩いとか?」
「いや……またお母さんに怒られちゃってさ」
「勉強の事?」
「それ以外に怒られる事ないよ……お姉ちゃんが出来るからって、私にも同じ事望まないで欲しいよね。出来る姉がいると比べられるしなぁ……」
「恵那は大変ね。いい学校に入ったって、いい人生送れるとも限らないのに。てか凡人には有名学園に入れるお金すらないわ!羨ましいくらいだよ」
「そう?……勉強馬鹿の親を持つと辛いよ。朝から晩まで今日は何を勉強したのか、レポートで提出しなきゃいけないんだもん……」
恵那は昨日の事を思い出して項垂れた。
「うわー、それはきついわ。よかったうちの親勉強勉強うるさくなくて。お姉さんの時もそうだったの?」
「お姉ちゃんの時はそこまでうるさくなかったかなぁ……なんか中学に入ってから、部屋に篭って勉強ばっかりしてたみたいだし」
「で、恵那ちゃんはそこの中学校に落ちて、ここに来てるから余計うるさいと」
「そうなんだよねー……って、落ちたとか言うな!……でも今は、地元の中学でよかったって思ってる。美雪とこうして友達になれたしね」
「何よ急にデレちゃって。気持ち悪い!」
「悪かったね、気持ち悪くて」
互いに笑いながら校門をくぐった所で、恵那はふと校舎裏にある花壇の事を思い出した。あの出校日以来、確かお盆過ぎにも小型の台風が接近してきて、この辺一帯は豪雨に見舞われた。
……花壇は大丈夫なのだろうか?何だか急に心配になってきた。
「恵那?置いてくよー」
「ごめん、ちょっと寄ってく場所があるから先に行ってて!授業終わったら玄関で待ってるから」
恵那は美雪に気付かれない様、少し遠回をして校舎裏に向かった。