A-12「下絵の前にて」
「立ち話もあれだし座ろうぜ。この机借りるな」
そう言って奥から机を二つ、壁の前まで引きずり出してくる。片方の机に河村が座る。
恵那はドキドキしながらも河村の隣りに座った。こうやって河村の隣に座るのも、初めて更衣室に侵入した時以来だったと思い出す。そしてその時よりも距離は短い気がした。
「俺、やっぱり地元の高校に通うことにしたよ。農業科のある学校はやめてさ」
河村が呟いた。恵那は何となくそんな予感がしてたので別に驚きはしなかった。
「そっか。やっぱり金銭的な問題で?」
「まぁそれもあるけどさ、可愛い弟達を置いて行けないや。今が一番世話のかかる時期だしな」
「両親には言ったの?その事」
「一応な。殆ど俺の独断でもあるが……まぁ問題ないだろう」
河村は笑って言った。でもどこか寂しさを感じさせる笑いだった。
自分がここで下絵を描いている間にも、河村は河村なりにいろいろあったのだろう。河村が自分で決めた進路に文句を言うつもりはないが、それでも言わずにはいられなかった。
「本当にそれでいいの?自分のしたい事、やりたい事を捨ててでも弟達の世話が大事なの……?」
あのプールサイドで初めて話し合った時、河村は親にも相談せず一人進路で悩んでいた。夢・金・家族……どれも簡単に捨てれるものじゃない。でもその中で河村は、家族のために自分の夢を諦めると言っているのだ。
「まだ捨てたわけじゃないさ。俺だって自分の好きな事勉強したい。でも、農業科の学校行ってまで勉強したいかと言うと……正直わからないんだ。ただ純粋に植物が好きなだけで、特に何になりたいとかも決まってないしな。それにお金貯めて、大学から勉強するって手もある。今は地元の学校で我慢するよ」
「そっか、何か私と似てるかも。私も絵の勉強したいと思うけど、絵の学校行ってまで勉強したいかと言うと、わからない。画家になりたいわけでもないしね」
二人はお互いに顔を見合わせた。お前もかよと河村は目で訴えていた。
「しょせん趣味範囲の好きなんだろうな、俺達。大体この年で将来決めろって方が無理あるか」
「そうだね。好きな事でも、本気になれなかったらそれは趣味に入っちゃうのかな?」
「難しい所だな。じゃあ神崎は絵に本気になってないのか?」
「本気だよ。でもこれを仕事にしたいかと言われると、わかんない。あはは、答えになってないね」
「お前の答えは、きっとこの絵を描き終えたら出てくる気がするけどな」
そう言って河村はまだ下絵段階の、薄っすら装飾が施された壁を見上げた。恵那も河村につられて見る。この壁に絵を描ききったら、答えが出るのだろうか。果たしてこの絵を描き終える事が出来るのだろうか。
「河村は……地元の高校行ってどうするの?河村の成績なら、かなりレベルの高い学校に入れると思うけど」
「そうか?お前俺の事過大評価しすぎだろ。まぁ普通ランクより少し上の東大高校を第一希望に考えてるつもり」
「私の西とは反対の学校だね。東なら、電車通学じゃない?」
「そういう事になるな。でも俺、一回電車通学してみたかったんだよな」
「どうして?」
「何か電車通学ってかっこいいじゃん。定期券で改札通ってみてー」
「何それ、変なの。でも東は遊ぶ所あるからいいね。寄り道し放題!」
「……お前はそういう事しか考えてないのな」
河村が呆れた顔でこっちを見ている。恵那はそれに対して「文句あるの?」といった顔で対抗した。
「とりあえずアルバイトしてみたいよな。高校生になって考える事は、まずバイトだろ」
「遊ぶのにもお金かかるしね。……でもこの辺りじゃいい所なさそう」
「確かに時給は低いな。でも俺、バイトするならフラワーショップでしてみたいなぁ」
「いいね花屋さん。河村にぴったりじゃない!」
「そう簡単に募集してるかどうかわからないけどな。この辺りのフラワーショップはあたってみるつもりさ」
「何か河村っていろいろ先の事まで考えてるんだね。感心しちゃうな」
「おいおい、こんな事で感心するなよ。先の事考えてたって、殆どうまく行かないのがオチだぜ」
「そうだよねー」
恵那は下絵の施された壁をまた見上げる。
ビジョンが見えてこない。自分も、河村も。この先の未来選択が正しいかどうかなんて誰にも分かる筈がない。それでも自分達は自分の選択を信じて前に進むしかない。それが人生って奴なんだ。
「話がずれてきたけど……とにかく俺は東大に行く事に決めた。以上報告終わり」
そう言って河村は机から降りた。荷物を手にとって帰ろうとする。
「あれ、河村帰っちゃうの?」
恵那は河村があっさり帰ろうとするので、思わず引き止めてしまった。
「神崎の邪魔にはなりたくないからな。下絵、今日中に完成させちまえよ」
振り向きざまに笑って言う。恵那は「そのつもりだよ」と河村に言い返した。河村はドアの取手を掴むと、しばらく考えたように動かなくなった。そして当然言う。
「お前、いい友達持ったよな」
「え……何よ突然、もしかして美雪の事?」
「ああ。俺、この間あいつに怒られたよ。神崎の邪魔するなってさ」
「どういう事?美雪が何か言ったの?河村の事、邪魔だなんて思ったこともないよ!」
「はは、まぁ水島の勘違いもあったみたいだけど……とにかく友達想いのいい奴だな」
河村はあの時の水島の表情を思い出した。今時友達の為に怒れる人も珍しい。
「ねぇ、どういう事なの?何で美雪が河村に怒ったの?」
恵那がわからないと言った表情で河村を見る。別にこの報告は要らなかったかもしれない。でも河村には一つ確認しておきたい事があった。
「なあ神崎。お前俺の事嫌いか?」
『あんたは恵那の事好きなんでしょ!』
嫌でも水島の台詞が頭を過ぎった。河村がそう告げた途端、恵那が悲しそうな顔をして言った。
「嫌いだったら……更衣室に入れるわけないでしょ?」
「そうか。悪かったな変な事聞いて……じゃあな」
振り向きもせず更衣室を後にする。何を確認したかったのだろう。あんな悲しい顔までさせておいて。
「……俺も少しは頑張らないとなぁ」
背伸びをしてから、もう一度だけ更衣室の方を見た。ごめんな、神崎……。