B-3「中学一年生にて」
河村が神崎恵那の存在を知ったのは中学一年の時だった。
同じクラスになったわけではない。ましてやクラスの、特に女子の名前なんていちいち覚えている訳がない。それでも河村は神崎恵那の名前だけは忘れられなかった。
最初に神崎の絵を見たのは五月の写生大会の時だった。みなの作品が廊下の至る所に貼り出され、自分は絵が苦手なので恥ずかしい思いをしたのを覚えている。その中の一つに神崎の絵があったんだ。明らかに他の作品とはレベルが違う。その絵だけが周りから浮いてしまっていたんだ。
なんて優しいタッチの絵なのだろう。自分と同い年が描いた絵とは到底思えなかった。
「神崎……恵那か」
クラスを見てみると、自分のクラスの2つ隣りだった。当時知り合いも少なかった河村は、神崎のクラスまで行ったのはいいものの、すぐにその場から引き返してしまった。わざわざ呼び出す事でもないし、同じクラスの男子に聞くだけでも変な誤解が生じると思ったからだ。中学生から嫌でも異性を意識し始める。悲しいが河村もその中の一人だった。
ようやく神崎恵那の姿が見れたのは、夏休み明けの九月の事だった。宿題にされたポスターで、神崎の絵は最優秀賞に選ばれたんだ。ステージの上で校長先生が神崎恵那の名前を呼ぶと、神崎はガチガチに緊張しながらもひょこっと立ち上がって、恥ずかしながらも賞状を受け取る。そして振り向いてこちら側にもお辞儀をした。
河村の描いていた通りの女の子だった。背が低めで、可愛らしい感じの優しそうな女の子。この時から好きになっていたのかもしれない。神崎が美術部だと知ってから河村は、美術の授業のたびに神崎の絵を探した。花を描くのが好きなのか、神崎の絵にはいつも花が描かれていた。花を愛する人に悪い人はいない。これはオニヤマの台詞だが、今でもつくづくそう思う。だから三年生最後に同じクラスになれた時は素直に嬉しかったんだ。花を愛し、それを描く人と同じクラスになれたことを。
神崎は一日に数回、小さいスケッチブックにこそこそと絵を描いては黒板の文字を模写しているようだった。一度でいいから神崎の絵を見てみたい。堂々と描く姿を見てみたい。そんな時に花壇で神崎と出会ったんだ。そうなんだ。あの日、神崎の絵を見た日から好きだったんだ。ずっと……。
河村は廊下に出ると窓を開けた。ここからだとプールサイドがよく見える。ついでに花壇も。
今頃神崎は一人カビ臭い更衣室に閉じこもっているのかと考えるとおかしかった。今はこの気持ちを伝える時ではない。それだけははっきりしていた。神崎の絵が完成するまでは、見届けるのが自分の役目だ。
『恋は自覚したら負け』……雑誌の恋愛特集か何かで目にした言葉がふと頭を過ぎる。
美雪は教室を出ると逃げるように昇降口へと向かった。やっぱりあんな事するんじゃなかった。河村、困ってたじゃん。でも自分の気持ちも収まりがつかなかったんだよ。ごめんね、河村……。
顔でも洗って落ち着かせようと思いトイレに入って鏡を見る。何て酷い顔をしてるのだろう。すごく惨めだ。
「余計な事して馬鹿だなぁ……あたし」
蛇口を捻って顔を洗う。何度も何度も、流れる涙を誤魔化すように洗った。胸に手を当てなくてもまだ心臓が震えているのがわかる。美雪は鞄からタオルを取り出すと、それに思いっきり顔を埋めた。
一方その頃恵那は、美雪と河村が会っていた事も知らずに一人黙々と鉛筆を走らせていた。
「……やっぱりスケッチブックに書くのとは訳が違うわね」
とにかく相手が二メートルを超える巨人であるからにして、非常に遠近感がとり難い。早くも恵那は苦戦していた。
「これは下書きだけで何日かかるのやら……」
先が見えない不安と、果たして描ききる事ができるかどうかの不安で、一人頭を抱えていた。