表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/41

A-1「自宅にて」

「どうして姉妹でこうも違うのかしら」


神崎恵那はスケッチブックに鉛筆を走らせながら、お母さんに言われた言葉を思い出していた。

花図鑑のローズマリーのページを広げて、それを懸命に模写する。なんて事はない。これは自己満足の世界だ。もうすぐ世界が完成する、そんな矢先に下の玄関のドアが勢い良く開けられた。まずい、誰か帰って来たんだ。

恵那は足元に散らばっている絵の具やら筆やらの一式を、無理矢理クローゼットの中に押し込むと、スケッチブックをキャスターの下に潜らせる。その後まるで勉強していたかのように、過去の問題集と解きかけのノートを広げた。机に座りなおして先程から問題を解いているフリをしていると、帰り主が部屋のドアを叩く。


「恵那、入るわよ」

 

お母さんだった。今買ってきたであろうドーナッツの袋を提げて、部屋に入る。


「はい、差し入れ。今日は塾が午前中で終りだったから、買物ついでにドーナッツも買ってきちゃった。どう?受験勉強はかどってる?」


「う、うん……」


「恵那はやれば出来る子なんだから、この夏休みでみっちり勉強すれば、お姉ちゃんと同じ学園に入れるはずよ。何か分からない問題がでたらすぐに私の所に持ってきてちょうだい。私がいなかったらお姉ちゃんにも聞くのよ。じゃ、勉強頑張ってね」

 

お母さんは手を振るとそそくさとリビングへと戻っていった。机の上に置かれたドーナッツの、可愛らしい絵柄を見つめながら恵那はため息をつく。もう自分の部屋では自由に絵を描くことが出来無くなったからだ。






お母さんは有名な進学塾の塾長。お父さんは一流企業の専務。お姉ちゃんは県内一の偏差値を誇る学園の女子高校生。それに比べて恵那は、地元の中学校に通うごく普通の成績の女の子だった。

絵に描いたエリート家族の中で異質な自分。このどうしようもない立場の中で恵那は、来年高校受験を迎えようとしていた。お母さんは頑なにお姉ちゃんと同じ学園に入れようとしているが、恵那自身はお姉ちゃんと同じ学園に入るつもりはなかった。

そもそも受かりそうではない。夏休み前のテストでもC判定だった。


「今の成績じゃあ……県内にある、少し上ランクの高校に入るのがやっとかぁ」

 

恵那は解きかけのノートを見つめながら椅子にもたれかかった。一向にやる気が起きる訳もなく、ペンシルを指先で転がして遊ぶ。勉強なんて、したくない。もううんざりだ。今したいことは自分の制作活動だった。





 

夏休みに入る前まで恵那は美術部の部長を務めていた。部長と言っても大した事はしておらず、単に好き勝手に絵を描いていたまでだった。顧問の先生に、部員の中で一番上手いだろうという独断と偏見で肩書き部長にさせられたのを覚えている。

基本的に制作活動も学校で行っていたし、締切りが近い時などは自分の部屋でも多少なりとも自由に描く事を許されていた。しかし受験を控え部活動を引退した今、お母さんは完全に自分のベクトルを勉強だけに向けさせようとしている。もうこの部屋では堂々と制作することが出来無くなってしまった。かと言って学校で後輩と混じって制作活動するのもいたたまれる。それでも自分の欲求が抑えられない恵那は、こうして家に誰も居ないのを見計らってこそこそと絵を描いているのだった。


先程慌てて隠したスケッチブックを取り出す。……汚れなくてよかった。

軽く叩くと、差し入れのドーナッツを片手に完成を急いだ。今お母さんは夕食を作っているに違いない。その間に早く終わらせてしまおう。本当はもっと自由に絵を描きたいのだが、受験生という今の立場がそれを邪魔していた。お母さんは勿論、お姉ちゃんの存在も邪魔をしていた。恵那はお姉ちゃんと違って優秀ではない。






十八時を過ぎると、朝から塾に行っていたお姉ちゃんも帰って来て、リビングで食事を取る事になった。お父さんは今日も遅いらしい。部屋から出たお姉ちゃんに続いて恵那も階段を下りていると、お姉ちゃんが振り向いた。


「恵那、受験勉強進んでる?」


「うん……今日は過去問題をひたすら解いてたよ」


「そう。まだ夏休みが始まったばかりだし、ゆっくり自分のペースで進めていけば大丈夫よ。あまり無理だけはしないでね」


「うん、お姉ちゃんと同じ所行けるように頑張るよ……」

 

恵那が力なさそうに返事をすると、お姉ちゃんは心配した様子でリビングに入っていった。

スレンダーなお姉ちゃんの後ろ姿を見ると、どうして神様はお姉ちゃんだけ二物を与えてしまったのだろうと悔やまれる。雑誌のモデルのようなすらっとしたスタイル。おまけに成績優秀。高校生になってからもお姉ちゃんは勉強勉強で忙しいらしく、あまり会話をしなくなった。家の中で会う機会があるとすれば、これからの食事くらいしかない。

こないだ入学したと思ったら、もう一流大学へ向けてのお勉強ときたものだ。正直勉強詰めのお姉ちゃんの人生には、とてもついていけない。つきたくもなかった。別にお姉ちゃんの事が嫌いなわけではないが、出来る姉と出来ない妹としていつも比較対照されるため、正直いってコンプレックスを抱いていた。

お姉ちゃんは私立の中学校に難なく入学することが出来たが、自分はその受験に見事失敗していた。仕方なしに地元の中学校に行かされ、更にその差が広がる。それをお母さんは、お姉ちゃんと同じ学園に入れば取り戻せると思っているらしいのだ。全く、呆れる話だ。






三人で夕飯を済ませた後、お母さんが恵那を引きとめた。


「今日はしっかり勉強できた?」


「うん………過去問題をひたすら解いてたよ」


「過去問題だけじゃ駄目よ?しっかり弱点も克服しないと。塾生徒用にテスト問題を作ったのがあるから、それもやっておくのよ?」


「はい……」

 

また宿題が増えた。お姉ちゃんといい、お母さんといい、尋ねるのは勉強の事だけか。

恵那は足早に自分の分の食器を片付けると、部屋に戻った。


「もう勉強ばっかりやってらんない!」


恵那は隠してあったスケッチブックを引っぱり出してくると、また絵を描き始めた。勉強を強制されればされる程、絵を描く行為に走ってしまう。勉強から逃げているのか、現実から逃げているのか。過去の失敗がよみがえる。

あの頃の自分は今まで以上に勉強していた筈だ。だが、受からなかった。お姉ちゃんと同じ中学校には行けなかった。お母さん達が思っていた以上に賢くなかったのだ。


スケッチブックを広げると、次に鉛筆を手で転がしながら線を描いていく。さっさっさっと、鉛筆の芯が心地いいリズムを刻み、何本もの細い線が束を連ねて合成される。これだけが、今のお姉ちゃんに唯一勝てる要素だった。恵那のアイデンティティーそのものだった。自慢する訳じゃないが、絵のコンクールで何度か賞ももらっている。

絵ならお姉ちゃんには負けない。そして今の恵那を支えている全てでもあった。デザインの学校も考えてない訳ではない。だが、それにはあのお母さんを説得させなければならない。散々言おうか悩んだあげく、結局恵那は何も言い出せなかった。

夏休み前に提出した進路希望用紙に、デザイン学校を第三希望にしてしまったのを思い出す。今思い返せば第一希望にしておけばよかった。もっと自由に描きたい。こんなスケッチブックの世界じゃなくて、もっと大きな世界を絵描きたい。


気がつくと恵那は手元で一輪の花を咲かせていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ