サイドストーリー 偽りの女王、廃墟に立つ
薄汚れた天井の染みが、人の顔に見える。
毎朝、目が覚めるたびに最初に目にするのがこの不気味な染みだ。かつて私が住んでいた港区のタワーマンションの寝室には、イタリア製のシャンデリアと、窓いっぱいに広がる東京の絶景があったはずなのに。
「……最悪」
氷川レイナは、湿気た布団から這い出しながら、掠れた声で呟いた。
ここは都心から電車で一時間半も離れた、築四十年の木造アパート「コーポ日向」。名前だけは陽気だが、現実はカビと埃の匂いが充満する吹き溜まりだ。
六畳一間の部屋には、引っ越しの際に捨てきれなかったブランド品の空箱や、服の山が散乱している。メルカリで売れば少しは金になると思って持ってきたが、実際に売るとなると「私の価値が下がる」ような気がして手放せない。そんな無意味なプライドの残骸たちだ。
枕元に転がっているスマートフォンを手に取る。
画面には無数の通知が来ているが、そのほとんどが督促メールか、登録した派遣会社からの自動配信メールだ。友人からのランチの誘いや、男たちからのデートの誘いは、あの日を境にぱったりと止んだ。
「今日も面接……行かなきゃいけないの?」
重い溜息をつく。
株式会社クロノス・ソリューションズを逃げるように退職してから、早三ヶ月。
「資料整理室」という名の監獄に耐えられず、退職代行を使って強引に辞めた時は、解放感があった。「こんな泥舟会社、私から辞めてやるわ」「私ならすぐに他の大手からオファーが来る」と本気で信じていた。
だが、現実は残酷なほど冷たかった。
洗面台の鏡に映る自分の顔を見て、私は思わず目を背けたくなった。
肌は荒れ、髪はパサつき、目の下にはどす黒いクマがある。かつて「社内一の美女」「才色兼備のジャンヌダルク」と称賛されたオーラは、どこにもない。安物の化粧水しかしみ込まない肌は、悲鳴を上げているようだった。
「……メイクで隠せば、まだいける」
震える手でファンデーションを厚塗りする。
しかし、厚塗りをすればするほど、表情の皺に入り込んで老婆のように見えてしまう。
「まだ27歳なのに……」
涙が滲んでアイラインが歪んだ。修正しようと綿棒を探すが、見つからない。イライラして化粧ポーチを床に投げつけた。
ガチャリ、と音を立ててポーチの中身が散らばる。
その中から、一つだけ輝きを失っていないものが転がり出た。
かつて慧が誕生日にプレゼントしてくれた、ダイヤのネックレスだ。
『レイナには、いつも輝いていてほしいから』
そう言って照れくさそうに笑っていた彼の顔が、フラッシュバックする。
「……バカみたい。あんな地味な男のプレゼントなんて、とっくに捨てればよかった」
そう毒づきながらも、私はそれを拾い上げた。
これを質に入れれば、当面の生活費にはなる。でも、それができない。未練ではない。これは私の「最後の砦」なのだ。かつて愛され、価値ある女だったという証明。これを手放したら、私は本当にただの「無職の負け犬」になってしまう。
午前十一時。
私は都内のオフィス街にある、中堅IT企業の面接会場にいた。
スーツは以前着ていたオーダーメイドのものだが、体型が変わってしまったのか、少しウエストがきつい。それに、今の流行りとは微妙にシルエットが違う気がして、すれ違うOLたちの視線が気になって仕方がない。
「では、氷川さん。職務経歴書を拝見しました」
面接官は、四十代くらいの疲れた顔をした男性だった。手元の書類と私の顔を交互に見ながら、疑り深そうな目を向けてくる。
「クロノス・ソリューションズ出身ですか。大手ですね。しかもMVPを受賞されているとか」
「はい。営業部で大型プロジェクトをリーダーとして牽引しておりました」
私は背筋を伸ばし、できる限り自信ありげな微笑みを作った。この「演技」だけは、まだ体に染み付いている。
「それはすごい。弊社のような規模の会社に来るにはもったいない経歴ですね。なぜ退職を?」
「……よりスピード感のある環境で、自分の裁量を広げたいと思いまして。大企業はどうしても意思決定が遅いですから」
用意しておいたテンプレ回答。
しかし、面接官の目は笑っていなかった。
「ふむ。それで、具体的なスキルについて伺いたいのですが。企画立案から実行まで担当されたとのことですが、使用できるツールは? ExcelのマクロやVBAは組めますか? SQLでのデータ抽出は?」
「えっと……マクロは、その、部下に指示を出して組ませていたので、構造は理解していますが、自分でコードを書くとなると……」
「では、PowerPointでの資料作成は? ポートフォリオとして過去の資料を見せていただけますか?」
心臓がドクンと跳ねた。
過去の資料。それは全て慧が作ったものだ。私の手元には、退職時に持ち出したいくつかのファイルがあるが、それを説明しろと言われても中身が分からない。
「あいにく、守秘義務の関係で具体的な資料はお持ちできなくて……」
「そうですか。では、今ここで簡単な課題をやっていただきましょうか。このテーマで、15分以内にスライド一枚の構成案を作ってください」
面接官がPCを差し出した。
私は凍りついた。
15分? 構成案?
無理だ。慧がいなければ、私は白紙のスライドを前に呆然とすることしかできない。フォントの選び方も、配色のルールも、論理構成の組み立ても、何一つ分からないのだ。
「あ、あの……少し体調が優れなくて……頭が回らなくて……」
「……そうですか。分かりました。結構です」
面接官がPCを閉じた。その冷ややかな動作が、不採用の通知音のように響いた。
「氷川さん。厳しいことを言うようですが」
彼は眼鏡の位置を直しながら、淡々と言った。
「あなたの経歴書は立派ですが、実態が見えません。言葉は綺麗ですが、中身が空っぽです。うちは即戦力を求めているんです。『指示だけ出す人』は要らないんですよ」
「……っ!」
顔から火が出るようだった。
「中身が空っぽ」。慧や剛田、そして社長に言われた言葉が蘇る。
私は逃げるように席を立ち、「失礼しました」と蚊の鳴くような声で言って部屋を出た。
エレベーターホールで、私は膝から崩れ落ちそうになった。
なんで。なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの。
私はMVPよ。社内報の表紙を飾った女よ。
なんで誰も私の価値を分かってくれないの。
「……全部、あいつらのせいよ」
剛田。そして慧。
私のキャリアを台無しにした男たち。
特に慧だ。あいつが最初から「僕が全部やってました」なんて告げ口さえしなければ、私は今頃、剛田と結婚して役員夫人の座に収まっていたはずなのに。
いや、剛田も許せない。あいつは私を「トロフィーワイフ」としてしか見ていなかった。泥舟だと分かった瞬間に私を切り捨て、今は私に対して慰謝料請求の訴訟を起こしてきている。
「ふざけんじゃないわよ……」
スマートフォンを取り出し、剛田にメッセージを送る。
『慰謝料なんて払うわけないでしょ! むしろあんたが払いなさいよ! 私の人生返して!』
即座に既読がつき、返信が来る。
『寝言は寝て言え。お前のせいで俺は地方の倉庫番だぞ。お前の代理人弁護士から連絡が来たが、あんな条件飲めるか。法廷で徹底的にやってやる』
泥沼だ。
愛を囁き合った二人が、今は互いの傷口に塩を塗り合っている。
私はスマホを握りしめ、トイレの個室に駆け込んだ。
便座に座り、声を押し殺して泣いた。
悔しい。悲しい。惨めだ。
でも、一番恐ろしいのは、心のどこかで「面接官の言ったことは正しい」と認めてしまっている自分だった。
私には何もない。慧という松葉杖を失った私は、一人では立つことさえできない軟体動物だったのだ。
夕方。
精神的に疲れ果てた私は、気晴らしに表参道を歩いていた。
金はないが、ウィンドウショッピングならタダだ。かつての自分のテリトリーを歩くことで、少しでも自尊心を取り戻したかった。
ショーウィンドウに飾られた新作のドレス。煌びやかなバッグ。
以前なら「これ可愛い、買っちゃお」と即決していた値段が、今は天文学的な数字に見える。
私の横を、幸せそうなカップルや、仕事帰りらしきキャリアウーマンたちが通り過ぎていく。彼女たちの会話が耳に入る。
「ねえ、今度の連休、ハワイ行く?」
「ボーナス入ったし、エステ行こうかな」
なんてことのない会話が、私の神経を逆撫でする。
私は耳を塞ぎたくなった。
その時だった。
交差点の大型ビジョンに、ニュース映像が流れた。
『次世代AIマーケティングの旗手、クロノス・ソリューションズの新サービスが驚異的な成功』
思わず足を止めた。
画面には、記者会見の様子が映し出されている。
そして、マイクを持って堂々と話しているのは……慧だった。
『――この成功は、チーム全員の努力の結晶です。現場の声に耳を傾け、地道な改善を積み重ねた結果だと考えています』
フラッシュを浴びる彼は、以前の猫背気味だった彼とは別人だった。
髪型も洗練され、スーツもオーダーメイドの上質なものだ。何より、その瞳には強い光が宿っている。
隣には、私が知らない知的な美人社員が立ち、彼をサポートするように頷いている。
「……うそ」
街頭の人々がビジョンを見上げて囁き合う。
「あの人、すごいらしいよ」「若手のエースなんだって」「かっこいいな」
世界が回る。
吐き気がした。
あそこに立っているのは、私のはずだった。
あの賞賛も、あのフラッシュも、全て私が浴びるはずのものだった。
彼が喋っている内容は、かつて私が彼に「ねえ、こういうの考えてよ」と丸投げしたアイデアの延長線上にあるものだ(と私は信じ込んでいる)。
つまり、彼は私のアイデアを盗んで成功したのだ。
「泥棒……!」
私はビジョンに向かって叫びそうになったが、声にならなかった。
誰も私を見ていない。
皆、画面の中の慧を見ている。
私は完全に「過去の遺物」となり、彼だけが未来へと進んでしまった。
ふらふらと路地裏に入る。
表通りの光が届かない、薄暗い場所。ゴミ箱の臭いが鼻をつく。
私は壁にもたれかかり、ズルズルと座り込んだ。
ポケットの中でスマホが震えた。
SNSの通知だ。
私が裏垢で投稿していた『元大手エースの独り言』というアカウントへのリプライだった。
『まだ過去の栄光に縋ってるの?w』
『クロノスの氷川さんだよね? ざまぁみろ』
『面接落ちたらしいじゃん、ドンマイ』
特定されていた。
私の正体も、今の惨状も、ネットの特定班には筒抜けだったのだ。
画面をスクロールすると、私の現在の盗撮写真までアップされていた。
『今日の氷川レイナ。服がヨレヨレw』
『オーラ消滅してて草』
「いやぁぁぁぁぁぁっ!!」
私はスマホを地面に叩きつけた。
液晶が粉々に砕け散る。まるで私の人生のように。
叫び声に驚いた野良猫が、ゴミ箱の陰から飛び出して逃げていった。
「なんでよ……なんで私だけこんな目に……」
涙で視界が歪む。
私は努力してきたはずだ。美貌を磨き、社内政治をこなし、有力者に取り入り、そうやって必死にのし上がってきた。
それが私の「実力」だったはずだ。
慧のように地味な作業をするだけが仕事じゃない。彼のような人間を利用し、輝かせてあげるプロデューサーとしての才能が私にはあったはずだ。
それなのに、世界はそれを認めてくれなかった。
「慧……」
砕けたスマホを拾い上げる。画面は真っ黒で、もう何も映らない。
彼に連絡したくても、番号すら覚えていない。
そもそも、連絡したところで何になる?
『許して』と懇願するか? 『やり直そう』と言うか?
あの記者会見の彼の顔を思い出す。
私を見る目など、彼の中にはもう一ミリも残っていない。彼は完全に私を捨て、新しいステージへ行ってしまった。
私が彼を捨てたつもりだったのに、実際は私が「不要なゴミ」として捨てられただけだったのだ。
雨が降り始めた。
冷たい雨粒が、厚塗りしたファンデーションを溶かしていく。
私は立ち上がる気力もなく、路地裏の汚れたアスファルトに座り込んだまま、空を見上げた。
「……お腹すいた」
ふと漏れた言葉は、あまりにも情けなく、現実的だった。
財布には千円札が一枚と、小銭が少し。
これで今日の夕飯と、明日の電車賃を払わなければならない。
明日は日雇いの倉庫作業のバイトを入れている。剛田が左遷されたのと同じような環境で、私もまた、段ボールと格闘しなければならないのだ。
ネイルはもうボロボロで、爪の間には垢が溜まっている。
これが、私の手。
かつてシャンパングラスを傾け、契約書にサインしていた手が、今は泥にまみれている。
「ふふ……あはははは!」
乾いた笑いが込み上げてきた。
傑作だ。悲劇のヒロイン気取りだったが、演じていたのは喜劇だったなんて。
裸の王様は、服を着ていないことに気づいた後、どうやって生きていったのだろうか。
童話の続きなんて誰も教えてくれなかった。
「……帰ろう」
誰に言うでもなく呟き、私は立ち上がった。
帰る場所などない。あのカビ臭いアパートが、今の私にお似合いの城だ。
雨に濡れた体を引きずるようにして、私は駅へと向かった。
途中、コンビニのガラスに映った自分の姿を見る。
濡れ鼠のような、生気のない女。
目が合ったその女は、まるで幽霊のように虚ろな目で私を見つめ返していた。
もう、這い上がることはできないだろう。
プライドという重りがあまりにも重すぎて、私はこのまま底まで沈んでいくしかない。
慧が作り上げた光の世界を、深い海の底から見上げる深海魚のように。
駅の雑踏に紛れる。
誰かと肩がぶつかる。
「あ、すみません」と反射的に謝る自分。
以前なら「どこ見て歩いてるのよ!」と睨みつけていたはずなのに。
ああ、私って、こんなに小さかったんだ。
改札を抜け、ホームへと降りる電車を待つ列の最後尾に並ぶ。
私の前には、疲れた顔をしたサラリーマンや、スマホを見つめる学生たちがいる。
私はその中の「その他大勢」の一人。
いや、「その他大勢」にすらなれない、脱落者。
電車が滑り込んでくる。
ドアが開く。
私は誰にも気づかれることなく、満員電車の中に吸い込まれていった。
かつて私が軽蔑していた、「凡人」たちの群れの中へ。
そして二度と、そこから抜け出すことはできないのだと、閉まるドアの音が冷たく告げていた。




