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「私の隣に凡人は不要」と婚約破棄された社内一の“影”が、静かに業務停止スイッチを押した結果  作者: ledled


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7/8

サイドストーリー 転落エリートの泥濘(ぬかるみ

ジリリリリリリリ!!


鼓膜を直接やすりで削られるような、無神経で暴力的なベルの音が倉庫内に響き渡った。

午前十時。最初の休憩を告げる合図だ。


「おい、剛田! 手を止めるな! まだC列の仕分けが終わってねえだろうが!」


怒声が飛んでくる。声の主は、現場監督の鬼瓦おにがわらだ。日に焼けた肌に、筋肉隆々の腕。首にはタオルを巻き、いかにも現場叩き上げといった風貌の男。年齢は俺より五つも若いくせに、ここでは絶対的な権力者として君臨している。


「は、はい……すみません、すぐやります」


俺、剛田猛ごうだ たけるは、引きつった愛想笑いを浮かべて頭を下げた。

かつて株式会社クロノス・ソリューションズの経営戦略室リーダーとして、オーダーメイドのイタリア製スーツに身を包み、都心の高層オフィスで数百億のプロジェクトを動かしていた男の姿は、そこにはない。

今、俺が身につけているのは、会社支給の薄汚れた作業着と、底のすり減った安全靴。そして、頭には「研修中」という恥辱的なテープが貼られたヘルメットだ。


ここは、北関東の山間部にある物流センターの第三倉庫。

本社から車で三時間以上かかる、まさに陸の孤島。俺の新しい職場であり、そしておそらく、俺のキャリアの墓場となる場所だ。


「まったく、本社からの出向だか何だか知らねえが、体力がなさすぎるんだよ。役立たずが」


鬼瓦は舌打ちをして去っていった。

俺は唇を噛み締め、持っていた段ボール箱を床に叩きつけたくなったが、ぐっと堪えた。ここで暴れれば、さらに立場が悪くなるだけだ。

重い荷物を持ち上げると、腰に鋭い痛みが走る。

ここに来て一ヶ月。慣れない肉体労働のせいで、俺の体は悲鳴を上げていた。指先は段ボールで切れ、爪の中には黒い油汚れがこびりついている。ハンドクリームでケアしていたかつての綺麗な手は、見るも無残に荒れ果てていた。


「……くそっ、なんで俺がこんな目に」


汗が目に入り、しみる。

俺は埃っぽい空気を吐き出し、よろめきながら休憩スペースへと向かった。


休憩スペースと言っても、パイプ椅子と錆びついた自販機が置かれただけの薄暗い一角だ。

すでに他の作業員たちがたむろして、下品な笑い声を上げながら缶コーヒーを飲んでいる。彼らの話題はパチンコか、風俗か、昨日のテレビ番組のことだけ。知性の欠片もない会話に、俺は心底うんざりしていた。


俺は彼らから離れた隅の席に座り、ポケットからスマートフォンを取り出した。

画面には無数のヒビが入っている。先週、作業中に落としてしまったのだ。以前ならすぐに最新機種に買い替えていただろうが、今の俺にそんな余裕はない。

懲罰的な減給に加え、会社への損害賠償として給与の大部分が天引きされている。手取りは新入社員以下。家賃の安いボロアパートでの生活費を払うだけで精一杯だ。


震える指でニュースアプリを開く。

無意識のうちに検索してしまうのは、「クロノス・ソリューションズ」の文字だ。


『クロノス・ソリューションズ社、新システム「エクリプス・ネオ」が大ヒット。株価は年初来高値を更新』

『プロジェクトリーダー東雲慧氏インタビュー:「現場の声を聞くことが成功の鍵でした」』


画面に映し出された写真を見て、俺は息を呑んだ。

そこには、自信に満ちた表情でカメラを見据える東雲慧の姿があった。

かつて俺が「地味な雑用係」「陰気な男」と見下していた男。レイナの婚約者というだけで、取るに足らない存在だと思っていた男。

それが今や、経済誌のトップを飾るスター社員になっている。


「……ふざけるな」


俺は画面を親指で強く押し込んだ。


「あいつは俺のアイデアを盗んだんだ。エクリプスは俺のプロジェクトだったはずだ……」


まだそんな妄想にしがみついている自分が惨めだった。

分かっている。頭のどこかでは理解しているのだ。俺には何もなかったことを。レイナという虚飾の女に騙され、彼女の作り出した幻影を有能だと信じ込み、自分自身の空っぽさからも目を背けていたことを。

だが、それを認めてしまえば、俺のアイデンティティは崩壊する。だから俺は、「運が悪かった」「女に嵌められた」と思い込むことで、ギリギリのところで精神の均衡を保っていた。


「あの女さえいなければ……!」


氷川レイナ。

彼女の名前を思い出すだけで、胃の奥が焼けつくような怒りが込み上げてくる。

俺の輝かしいキャリアを滅茶苦茶にした疫病神。

彼女もまた、どこかの部署へ左遷されたと聞いたが、今はどうしているのだろうか。

どうでもいい。野垂れ死んでいればいい。

俺のスマホには、彼女からの未読メッセージが数十件溜まっていた。最初は「助けて」「寂しい」といった泣き言だったが、最近は「あんたのせいで人生終わった」「慰謝料払え」という罵倒に変わっている。

俺は彼女のアカウントをブロックしようとしたが、指が止まった。

彼女の不幸な現状を知ることが、今の俺にとって唯一の精神安定剤になっていたからだ。自分より下がいる。自分より惨めな人間がいる。そう思うことでしか、今の自分を肯定できなかった。


「おい剛田! 休憩終わりだ! 午後は本社から視察が来るぞ、キビキビ動け!」


鬼瓦の声で現実に引き戻される。

本社からの視察?

俺の心臓が早鐘を打った。

もしかしたら、俺の復帰を検討するための調査かもしれない。あるいは、俺の優秀さを再評価しに来るのかも。

腐っても元経営戦略室リーダーだ。この現場の惨状を論理的に説明し、改善案を提示すれば、本社の人間も俺を見直すはずだ。

そうだ、これはチャンスだ。


俺は急いで作業着の襟を正し、ヘルメットの紐を締め直した。

汚れた鏡に映る自分に向かって、「お前はエリートだ」「こんな場所で終わる人間じゃない」と言い聞かせる。


午後二時。

黒塗りの社用車が数台、倉庫の前に到着した。

降りてきたのは、パリッとしたスーツに身を包んだ数人の男女。その清潔感、その洗練された立ち振る舞い。かつて俺が属していた世界の住人たちだ。

彼らを見た瞬間、俺の中に強烈な劣等感と、それ以上の郷愁が湧き上がった。


俺は指定された立ち位置で、直立不動で彼らを待った。

先頭を歩いてくる男の顔を見て、俺は目を疑った。


「……佐々木?」


それは、かつて俺の部下だった男、佐々木だった。

いつも俺の顔色を伺い、俺の理不尽な命令にも「はい、すぐにやります」とペコペコしていた、気の弱い男。

それが今、仕立ての良いスーツを着て、自信満々に部下を引き連れて歩いてくる。胸元には「経営戦略室・課長代理」のバッジが輝いている。


「あ、佐々木くん! 久しぶりだな!」


俺は思わず駆け寄った。

かつての部下だ。俺の顔を見れば、きっと懐かしんでくれるはずだ。「剛田さんがいなくて困ってますよ」と言ってくれるに違いない。


「剛田……さん?」


佐々木は足を止め、サングラスを外すように目を細めて俺を見た。

その目は、久しぶりに会った上司を見る目ではなかった。

道端の汚い野良犬を見るような、あるいは、とうに廃棄されたはずの粗大ゴミを見るような、冷たく乾いた目だった。


「おお、元気そうじゃないか。ずいぶん出世したみたいだな」

「ええ、まあ。おかげさまで」


佐々木の返答はそっけなかった。彼はすぐに視線を逸らし、隣にいた倉庫長(鬼瓦の上司)の方を向いた。


「それでは倉庫長、新しい在庫管理システムの導入テストを始めましょうか。時間は限られているので」


完全に無視された。

俺の存在など、彼にとっては挨拶する価値もないノイズでしかないのだ。


「お、おい佐々木くん。ちょっと待ってくれよ。俺だよ、剛田だよ。君に仕事のいろはを教えた……」


俺が食い下がろうとすると、佐々木の後ろに控えていた若い社員が、無言で俺の前に立ちはだかり、手で制した。


「視察の邪魔になりますので、作業に戻ってください」


事務的な口調。そこには敬意の欠片もない。


「なっ……俺は元室長だぞ! お前らの先輩だぞ!」

「『元』ですよね」


佐々木が振り返らずに言った。背中越しに投げられた言葉は、鋭い刃物のように俺のプライドを切り裂いた。


「剛田さん。ここは現場です。過去の肩書きなんて何の意味もありませんよ。今のあなたは、ただの作業員Aです。分をわきまえてください」

「……っ!」


言葉が出なかった。

顔が熱くなり、全身の血が沸騰するような感覚。

周囲の作業員たちが、ニヤニヤしながら俺を見ているのが分かった。「ざまあみろ」「エリート気取りが恥かいてやんの」という嘲笑が聞こえてくるようだ。


俺は拳を握りしめ、すごすごと持ち場に戻るしかなかった。

屈辱で視界が滲む。

だが、本当の地獄はここからだった。


視察団が始めたのは、新しいハンディターミナルの導入テストだった。

佐々木が説明を始める。


「この新システム『エクリプス・ロジ』は、AIが倉庫内の動線を最適化し、ピッキング作業の効率を劇的に向上させます。開発を主導したのは、企画部の東雲シニアリーダーです」


またあいつの名前だ。

俺は奥歯が砕けるほど噛み締めた。


「では、実際に使ってみましょう。……そこの彼、ちょっとこれを試してみてくれるかな?」


佐々木が指名したのは、俺ではなく、入社三年目の若手作業員だった。

若手は恐縮しながら端末を受け取り、画面の指示に従って動き始めた。

すると、どうだろう。

いつもなら迷いながら探す商品棚へ、彼は迷いなく一直線に進み、最短ルートで次々と商品を回収していく。その動きには無駄がなく、まるで熟練のベテランのようだった。


「す、すげえ……! 次に行く場所が全部画面に出るし、どの箱を取ればいいか光って教えてくれる!」


若手が興奮して叫んだ。


「これなら、誰でも初日からベテラン並みに働けますよ! 今までのリスト見ながら探すやり方がバカみたいだ!」


倉庫内にどよめきが広がる。

鬼瓦も感心したように頷いている。


「こりゃあ大したもんだ。東雲さんってのは天才だな。現場の苦労をよく分かってらっしゃる」


称賛の嵐。

その中心にあるのは、俺ではなく東雲慧だ。

俺が「現場のことなど知るか」「数字さえ合えばいい」と切り捨ててきた現場の人間たちが、慧の作ったシステムに目を輝かせている。


「剛田さん」


不意に、佐々木が俺の前に立った。

手には、俺が使っていた古臭い紙のピッキングリストが握られている。


「あなたがリーダーだった頃、現場からのシステム改善要望を『コストの無駄』と言って握りつぶしましたよね?」

「……そ、それは、経営判断として……」

「その『経営判断』のせいで、現場は長年、非効率な作業を強いられてきたんです。東雲さんは、あなたの残した負の遺産を、たった三ヶ月で一掃しましたよ」


佐々木は冷ややかな笑みを浮かべた。


「皮肉なものですね。あなたが馬鹿にしていた『凡人』が作ったシステムに、これからはあなたが管理されることになるんですから」

「……ぐ、うう……」

「せいぜい、AIの指示に従って頑張ってください。思考停止していても働けるように作られていますから、今のあなたにはぴったりでしょう?」


佐々木はそう言い捨てると、踵を返して去っていった。

視察団の笑い声が遠ざかっていく。

俺はその場に崩れ落ちそうになるのを必死で堪えた。


完敗だった。

言い訳のしようもない、完全なる敗北。

俺が築き上げてきたと思っていたものは、ただの砂上の楼閣で、波が来れば一瞬で消え去る脆いものだった。

そして、その波を起こしたのは、俺が踏みつけにした男だった。


「剛田! 何ボーッとしてんだ! さっさとその新しい端末の使い方を覚えろ!」


鬼瓦の怒鳴り声が飛んでくる。

俺は震える手で、渡された新型端末を握りしめた。

画面には『Welcome Takeru Goda』の文字と、東雲慧が設計した洗練されたUIが表示されている。

それは美しく、そして残酷なほど機能的だった。


「……くそっ……くそぉぉぉ……!」


俺は端末に向かって、誰にも聞こえない声で嗚咽を漏らした。

悔しい。惨めだ。死にたい。

だが、死ぬ勇気すらない。

俺に残されているのは、この端末の指示に従って、機械の一部として死ぬまで働き続ける未来だけだ。

あの輝かしいオフィスの光景は、もう二度と戻ってこない。


定時のチャイムが鳴った。

逃げるように倉庫を出て、送迎バスに乗り込む。

窓の外は土砂降りの雨だった。

バスの揺れに身を任せながら、俺はぼんやりと窓ガラスに映る自分の顔を見た。

無精髭が伸び、目は落ち窪み、生気のない中年男の顔。

これが、「剛田猛」の成れの果てだ。


アパートに着くと、郵便受けがパンパンに膨れ上がっていた。

督促状、督促状、督促状。

電気、ガス、カードローン、そして会社からの損害賠償請求の通知。

俺はそれらを鷲掴みにし、狭い玄関の床に放り投げた。


コンビニで買ってきた安い発泡酒のプルタブを開ける。

ぬるい液体が喉を通り過ぎていく。味などしない。ただ酔えればそれでよかった。

テレビをつける気にもなれない。静まり返った六畳一間の部屋に、雨の音だけが響いている。


ふと、床に散らばった督促状の一枚が目に入った。

『氷川レイナ代理人弁護士』からの通知書だった。

内容は、「婚約破棄に伴う精神的苦痛への慰謝料請求」。

俺は乾いた笑い声を上げた。


「ハハ……ハハハハ……!」


泥沼だ。

お互いに沈んでいく泥船の上で、さらに相手の足を引っ張り合っている。

滑稽すぎて涙が出てくる。


「ざまあみろ、か……」


誰かが俺にそう言っている気がした。

慧か、佐々木か、それとも世間そのものか。

俺は壁にもたれかかり、天井を見上げた。

薄汚れたシミが、人の顔のように見えてくる。レイナの顔、慧の顔、かつての自分の顔。


「俺は……どこで間違えたんだ……」


問いかけても、答えは返ってこない。

ただ、雨音だけが、俺の愚かさを嘲笑うかのように、いつまでも降り続いていた。

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