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「私の隣に凡人は不要」と婚約破棄された社内一の“影”が、静かに業務停止スイッチを押した結果  作者: ledled


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第6話 新たなる夜明け

季節は巡り、街路樹の緑が鮮やかさを増す初夏となっていた。

株式会社クロノス・ソリューションズの本社オフィスには、今日も活気ある空気が流れている。数ヶ月前に社内を揺るがした一大スキャンダルの記憶も、日々の業務の忙しさの中で薄れつつあった。


「東雲リーダー、例のAIロジックの修正案、クライアントからOK出ました!」

「こっちの進捗管理表も更新終わってます。確認お願いします!」


企画部のフロア中央にある島。その中心に座る俺、東雲慧のもとには、ひっきりなしに部下たちからの報告が飛び込んでくる。

俺の肩書きは、この数ヶ月で「平社員」から「シニアリーダー」へと変わっていた。あの騒動の後、俺の実務能力が正当に評価され、空中分解しかけていた「プロジェクト・エクリプス」の再建を任されたのだ。


「よし、修正案が通ったなら、次は実装フェーズへの移行計画を詰めよう。佐伯さん、開発チームのリソース状況はどうですか?」

「バッチリだ。東雲くんの作った要件定義書が完璧だったおかげで、手戻りなしで進んでるよ」


開発部の佐伯リーダーが、親指を立てて笑いかけてくる。

かつては険悪な空気が漂っていたプロジェクトチームだが、今は互いに信頼し合い、円滑なコミュニケーションが取れている。

俺は充実感を噛み締めながら、ホワイトボードに次の工程を書き込んでいった。

これが、本来あるべき仕事の姿だ。誰かの顔色を伺うこともなく、自分の実力をフルに発揮し、仲間と共にゴールを目指す。

かつて「影」として生きていた頃には味わえなかった、まばゆいほどの「光」の中に、今の俺はいた。


一方、同じビルの地下二階。

そこは、窓もなく、空調の音だけが低く唸る「資料整理室」と呼ばれる場所だ。

埃っぽい匂いが充満するその部屋で、一人の女性が黙々と段ボールを積み上げていた。


氷川レイナ。

かつて「才色兼備のジャンヌダルク」と持て囃され、煌びやかなオフィスの華であった彼女の姿は、見る影もなく変わり果てていた。

身に纏っているのは、以前のようなハイブランドのスーツではなく、量販店で買った安っぽいグレーの作業着。丁寧にセットされていた髪は無造作に束ねられ、手入れされていない毛先がパサついている。メイクも薄く、目元のクマが隠しきれていない。


「……なんで、私がこんなことを」


彼女は重い段ボールを持ち上げながら、掠れた声で呟いた。

爪は割れ、指先はささくれ立っている。かつて高級なネイルアートで飾られていた指先だ。

あの日、査問会で下された処分は過酷なものだった。

懲戒解雇こそ免れたものの、無期限の降格処分と減給。そして配属された先が、この地下の資料整理室だった。

仕事内容は、過去数十年の紙資料をひたすらスキャンし、電子化するだけの単純作業。誰とも会話せず、誰からも評価されず、ただ機械のように手を動かすだけの日々。


「おい、氷川。そっちの棚が終わったら、次は倉庫Bの在庫確認だ。定時までに終わらせろよ」


上司である初老の嘱託社員が、ぞんざいな口調で指示を飛ばす。以前なら、彼女が笑顔一つ向ければデレデレしていたような相手だ。しかし今は、彼女を「不祥事を起こした厄介者」としてしか見ていない。


「……はい、分かりました」


レイナは力なく返事をした。反論する気力さえ残っていなかった。

剛田はどうなったかといえば、さらに悲惨だった。

彼は管理責任を厳しく問われ、地方にある物流センターへの出向を命じられた。表向きは出向だが、実質的な左遷だ。聞くところによれば、毎日トラックの荷降ろしや伝票整理に追われ、エリートのプライドはずたずたに引き裂かれているという。さらに、会社への損害賠償として給与の大部分が差し引かれ、生活も困窮しているらしい。


「私たち、最強のカップルになるはずだったのに……」


レイナは自嘲気味に笑った。

最強どころか、社内のお笑い草だ。MINEの裏タイムラインでは、今でも時々二人の転落劇がネタにされ、「ざまぁみろ」と嘲笑されているのを知っている。

彼女は手に持っていたカッターナイフを見つめた。

このまま、この地下室で朽ちていくのだろうか。かつての栄光を夢に見ながら、埃にまみれて歳を取っていくのだろうか。


「……嫌。もう、無理」


彼女の中で、何かがぷつりと切れた。

プライドも、希望も、すべてがすり減って消えてしまった。残ったのは、ここから逃げ出したいという一心だけ。

彼女は震える手でポケットからスマートフォンを取り出し、退職代行サービスのサイトを開いた。もう上司と顔を合わせるのさえ怖かった。

送信ボタンを押すと同時に、彼女は作業着を脱ぎ捨て、ロッカーにあった私服に着替えた。

逃げよう。

何もかも捨てて、誰も私を知らない場所へ。


地上へのエレベーターに乗り込む。

表示板の数字が増えるにつれて、心臓の鼓動が早くなる。

一階のエントランスホール。そこは、かつて彼女がハイヒールを鳴らして闊歩していた場所だ。


扉が開くと、眩しい午後の日差しが飛び込んできた。

レイナは目を細め、身を縮こまらせるようにして歩き出した。誰にも会いたくない。誰にも顔を見られたくない。

しかし、運命は残酷だった。


「お疲れ様です、東雲マネージャー! 次のプレゼン、期待してますよ!」

「ああ、任せてくれ。君たちのサポートがあれば百人力だ」


聞き覚えのある声。

レイナは思わず足を止めた。

視線の先、エントランスの中央付近に、数人の社員に囲まれて談笑する男性がいた。

仕立ての良いネイビーのスーツを着こなし、背筋を伸ばして堂々と立っているその姿。

東雲慧だった。


彼は以前よりも洗練され、自信に満ちたオーラを放っていた。かつての「地味で目立たない影」の雰囲気は微塵もない。周囲の社員たちが彼に向ける眼差しは、尊敬と信頼に満ちている。

その隣には、知的で美人の女性社員が並んでいた。彼女は手にタブレットを持ち、慧と親しげに言葉を交わしている。


「慧さん、先方の社長との会食、この店で予約しておきました」

「ありがとう、相変わらず手際がいいね、橘さん。君がいてくれて助かるよ」

「ふふ、慧さんのビジョンを実現するためですから。パートナーとして当然です」


「パートナー」。

その言葉が、レイナの胸に鋭く突き刺さった。

かつて彼女が慧に対して決して使わなかった言葉。そして、彼女が求めても得られなかった関係性。

あの女性は、慧の実力を正しく理解し、対等な立場で支え合っている。そこには依存も搾取もなく、健全な信頼関係だけがあるのが、遠目にも痛いほど伝わってきた。


レイナは、自分が透明人間になったような感覚に襲われた。

手を伸ばせば届く距離にいるのに、彼と自分の間には、決して越えられない深淵が横たわっている。

彼は光の世界の住人で、私は影の世界の住人。

立場が完全に逆転してしまったのだ。


「あ……」


レイナの喉から、かすれた声が漏れた。

慧と目が合った気がした。

彼女は咄嗟に、助けを求めるような、あるいは許しを請うような表情を作ろうとした。

「慧、私よ。ここにいるの」

そう叫びたかった。もしかしたら、彼はまだ私に情を残しているかもしれない。優しかった彼なら、落ちぶれた私を見て声をかけてくれるかもしれない。そんな浅ましい期待が、一瞬だけ頭をもたげた。


しかし、慧の視線は彼女を素通りした。

まるで、そこに誰もいないかのように。

あるいは、道端の石ころを見るように、何の感情も抱かずに、視線は滑っていった。


彼はすぐに隣の女性に向き直り、笑顔で会話を続けた。


「じゃあ行こうか。未来の話をしに」


そう言って、彼らは自動ドアの向こう側、光り輝く街へと歩き出して行った。


レイナはその場に立ち尽くした。

無視されたのではない。認識さえされなかったのだ。

彼の中で、氷川レイナという存在は、もう「終わった過去」ですらなく、「存在しないもの」になっていた。

それが、どんな罵倒よりも残酷で、決定的な拒絶だった。


「……あ、あ……」


涙が溢れてきた。

後悔? 懺悔? いや、これは単なる惨めさだ。

自分の愚かさが招いた結果を、まざまざと見せつけられた敗北感。

周囲を行き交う社員たちが、立ち尽くすレイナを奇異な目で見て避けていく。

「あれ、氷川さんじゃない?」「うわ、落ちぶれたなあ」「関わらない方がいいよ」

そんな囁きが聞こえてくる。


レイナは逃げるように走り出した。

回転扉を抜け、雑踏の中へと消えていく。

もう二度と、この場所に戻ってくることはないだろう。

彼女の輝かしいキャリアは、彼女自身の傲慢さという自爆スイッチによって、跡形もなく消滅したのだ。


その頃、慧はタクシー乗り場で同僚たちと別れ、一人で次の目的地へと向かっていた。

車窓から流れる街の景色を眺めながら、彼はふと、先ほどのエントランスでのことを思い出していた。


視界の隅に、見覚えのある姿があったことは気づいていた。

やつれて、生気を失った女性。

かつて愛し、そして裏切られた元婚約者。

だが、声をかけようとは微塵も思わなかった。

心の中に湧き上がったのは、怒りでも憐れみでもなく、ただの「無関心」だった。

彼女が今どうしていようと、何を思っていようと、俺の人生には何の影響もない。

過去の亡霊に構っている暇など、今の俺にはないのだ。


「お客さん、どちらまで?」


運転手に聞かれ、慧は前を向いた。


「港区の、新しい開発エリアまでお願いします」

「へえ、あそこは今、一番熱い場所ですね」

「ええ。そこで新しいプロジェクトが始まるんです」


慧は力強く答えた。

鞄の中には、自分自身の手で作り上げ、仲間たちと議論を重ねて磨き上げた企画書が入っている。

そこには誰の虚飾も混じっていない。純度100%の、俺たちの情熱と技術の結晶だ。

スマートフォンを取り出すと、新しいパートナーである橘からメッセージが届いていた。


『慧さん、先ほどの資料、さらにブラッシュアップしておきました! 今日のプレゼン、絶対に成功させましょう!』


スタンプ付きの明るいメッセージ。

俺は自然と笑みを浮かべ、返信を打った。


『ありがとう。君のおかげで百人力だ。行こう、最高の景色を見に』


送信ボタンを押す。

画面の中の文字が、希望を持って輝いているように見えた。


タクシーは首都高速へと入り、スピードを上げた。

フロントガラスの向こうには、どこまでも広がる青空と、摩天楼のシルエットが見える。

風を切る音が心地よい。

俺は大きく息を吸い込んだ。肺いっぱいに満たされる新しい空気。


さようなら、レイナ。

さようなら、影だった自分。

俺はもう、誰かの引き立て役ではない。

自分の物語の主人公として、自分の足で、この道を歩いていく。


タクシーは光の中へと加速していった。

その先には、まだ誰も見たことのない、輝かしい未来が待っているはずだ。

俺の人生の第二章は、今、ここから始まる。

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