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「私の隣に凡人は不要」と婚約破棄された社内一の“影”が、静かに業務停止スイッチを押した結果  作者: ledled


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第5話 暴かれた真実と掌返し

役員会議での「処刑」から数時間が経過した。

オフィスの窓の外は、すでに茜色から群青色へと変わりつつある。しかし、株式会社クロノス・ソリューションズ社内の空気は、夜の静寂とは無縁の、どす黒い興奮と緊張に包まれていた。


「おい、聞いたか? 役員会議、途中で中止になったらしいぞ」

「マジ? なんで?」

「氷川さんがプレゼンで大コケした上に、過去の業績が全部不正だったってバレたらしい」

「うわ、やっぱりか……。あの人、最近おかしかったもんな」


給湯室、廊下の隅、喫煙所。至る所でひそひそ話が交わされ、噂は瞬く間に社内を駆け巡っていた。人間の不幸、それも頂点にいた人間の転落劇ほど、退屈な日常における最高の娯楽はない。

俺、東雲慧は、自席で淡々と残務処理をしていた。周囲からの視線が、以前の「憐れみ」から「畏怖」のようなものに変わっているのを感じる。

誰も話しかけてこない。俺が振るったメスがあまりにも鋭く、そして致命的だったことを、誰もが肌で感じ取っているからだ。


「東雲さん」


背後から低く短い声がかかった。振り返ると、人事部の課長が立っていた。いつもは穏やかな表情の彼が、今は能面のように無表情だ。


「緊急査問会を行います。第三会議室へ来てください」

「分かりました」


俺は静かに立ち上がった。

ついに、仕上げの時間だ。

PCをロックし、上着を羽織ることなく課長の後ろについて歩き出す。フロア中の視線が俺の背中に突き刺さるが、もはや何も感じない。


第三会議室。そこは通常、懲戒処分などの重い決定を下す際に使われる、通称「断罪の間」だ。

重厚な扉が開かれると、冷房が効きすぎた室内の冷気が肌を刺した。

長机の中央には、人事部長とコンプライアンス室長、そして法務部の代表が裁判官のように座っている。

その向かい側に置かれたパイプ椅子には、二人の男女が座らされていた。


氷川レイナと、剛田猛。


数時間前まで「最強のパワーカップル」として肩で風を切っていた二人の姿は、見る影もなかった。

レイナは髪が乱れ、メイクも崩れ、目は赤く腫れ上がっている。虚空を見つめるその瞳には光がない。

剛田は貧乏ゆすりを繰り返し、爪を噛みながら床を睨みつけている。その額には脂汗が光り、高級スーツがヨレヨレになっていた。


「東雲慧、入室します」


俺が声をかけると、ビクリと二人の肩が跳ねた。

レイナがゆっくりと顔を上げ、俺を見る。その表情には、怒りも憎しみもなく、ただ縋るような弱々しさだけがあった。


「座りたまえ」


人事部長に促され、俺は二人の隣、少し離れた位置に用意された椅子に腰を下ろした。

これで役者は揃った。


「これより、氷川レイナ社員、および剛田猛社員に関する緊急査問会を行う」


人事部長の厳格な声が響く。


「議題は、業務成果物の不正利用、虚偽報告、および職務怠慢についてだ。すでに神宮寺社長からも厳命が下っている。事実関係を明らかにし、速やかに処分を決定する」


コンプライアンス室長が、手元のタブレットを操作した。壁面のモニターに、俺が提出した証拠データが映し出される。


「まずは、このデータを見ていただきたい」


映し出されたのは、レイナが昨年度MVPを受賞する要因となった大型プロジェクトの企画書だ。

そのプロパティ画面が拡大表示される。

『作成者:Kei_Shinonome』

『最終更新者:Kei_Shinonome』

『作成日時:2025/05/12 23:45』


「氷川さん。この企画書は、あなたが『独創的なアイデアを一晩で書き上げた』として社内で高く評価されたものです。しかし、メタデータを見る限り、作成したのは東雲さんであり、作成時間も数週間にわたって深夜に行われています。これについて説明を」


レイナは唇を震わせ、蚊の鳴くような声で答えた。


「……それは、私が口頭で指示をして、彼に入力を代行させただけで……アイデアは私のものです……」

「口頭で指示、ですか」


室長は冷淡に返し、次のスライドを表示した。

それは、社内チャットツール「MINE」のログだった。


『2025/05/10 18:30 レイナ:ねえ、今度の企画、全然思いつかないの。何かいい案ない? 明日までに適当に作っておいてよ』

『2025/05/10 18:32 レイナ:丸投げでごめんね(笑)。でも慧ならできるでしょ? 私の評価が上がれば、二人の結婚にも近づくんだからさ!』

『2025/05/11 09:00 レイナ:あ、できた? さすが! じゃあ私の名前で出しとくから、データ消しておいてね』


赤裸々なメッセージが、大画面に晒される。

「指示」などしていない。「丸投げ」し、成果を「横取り」し、さらに証拠隠滅を図っている様子が、彼女自身の言葉で記録されていた。


「これを見ても、まだ『指示しただけ』と言い張りますか? あなたはアイデアを出していない。東雲さんに依存し、彼の成果を窃盗していた。違いますか?」

「あ……うう……」


レイナは言葉を詰まらせ、両手で顔を覆った。

反論の余地などない。客観的な証拠の前では、どんな言い訳も無力だ。


「さらに、剛田室長。あなたも同罪です」


矛先が剛田に向く。


「あなたは今回のプロジェクト・エクリプスの責任者として、氷川さんの能力を正しく評価すべき立場にありました。しかし、あなたは個人的な感情を優先し、彼女の実力を過大評価し、結果として会社に多大な損害を与えようとした」

「ち、違います! 私は騙されていたんです!」


剛田が叫んだ。待っていましたとばかりの反応だ。


「彼女は私に言ったんです。『私は天才だ』『東雲なんてただの雑用係だ』と! 彼女のプレゼン能力が高いのは事実だったので、まさか中身が空っぽだなんて思いもしなかった! 私も被害者なんです!」

「被害者、ですか。しかし、あなたと氷川さんのチャットログも残っていますよ」


モニターの表示が切り替わる。


『剛田:あの地味な彼氏、まだ使ってるのかい?』

『レイナ:ええ、便利だから。結婚したら捨てるつもり』

『剛田:ハハハ、賢いね。搾り取れるだけ搾り取ればいい。僕たちがトップに立つための踏み台だ』


会場の空気が凍りついた。

剛田の顔色が、白を通り越して土色になる。


「……これは、あくまで冗談で……その場のノリというか……」

「冗談で済む内容ではありません。これは明確なパワーハラスメントであり、モラルハラスメントであり、背任行為に近いです」


人事部長が机を叩いた。バン! という乾いた音が、二人の心臓を縮み上がらせる。


「言い逃れは無意味だ。事実は一つ。君たちは、東雲社員の能力を不当に利用し、踏みにじり、自分たちの虚栄心のために会社を欺いた。その罪は重い」


沈黙が落ちた。

重く、苦しい沈黙。

その静寂を破ったのは、レイナの嗚咽だった。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


彼女は泣き崩れ、床に突っ伏した。

そして、泥にまみれた顔を上げ、俺の方を見た。


「慧……お願い、助けて……」


その言葉に、俺は耳を疑った。この期に及んで、まだ俺に助けを求めるのか。


「私が悪かったわ。魔が差したの。剛田さんに唆されたのよ……。でも、私の本心じゃなかった。私はずっと、慧のことを頼りにしてたの。ねえ、あなたなら分かるでしょ? 許してよ……また昔みたいに、私のこと助けてよ……」


彼女は椅子からずり落ち、俺の足元に這いつくばろうとした。

かつて女王のように振る舞っていた彼女が、今はプライドもかなぐり捨てて、元婚約者の靴に縋り付こうとしている。

その姿はあまりにも惨めで、哀れだった。


俺は足を引いて、彼女の手を避けた。


「……触らないでくれ」


冷たい声が出た。怒りではない。生理的な嫌悪感だ。


「『唆された』? 違うな。君は自分で選んだんだ。剛田を選び、俺を捨てた。そして『凡人は不要』と言い放った。その言葉を忘れたとは言わせない」

「それは……あの時は、どうかしてたの! 舞い上がってただけなの! 本当に愛してるのは慧だけよ!」

「愛してる? よくそんな言葉が言えるな」


俺は彼女を見下ろした。


「君が愛しているのは、俺じゃない。『俺が作り出す成果物』と『自分を全肯定してくれる都合のいい存在』だ。君は俺自身を一度も見ていなかった」

「違う! 違うの!」

「違わないさ。君は今も、俺を『便利な道具』として見ているから、こうして助けを求めているんだ。もし俺に能力がなかったら、君は今、俺に縋っているか?」


レイナは言葉に詰まった。図星だからだ。

彼女は俺の能力が必要なだけで、俺という人間には興味がない。それが分かっているからこそ、俺の心はもう一ミリも動かない。


「もう遅いんだ、レイナ。君の言う通り、俺は凡人だからね。天才の君を助ける力なんてないよ」


突き放されたレイナは、絶望のあまり呆然と口を開けたまま固まった。

その時、隣にいた剛田が動いた。

彼は急に立ち上がると、レイナを指差して叫んだ。


「そうだ! 全部この女が悪いんだ!」


剛田の目は血走っていた。自分の保身のためなら、何でもする目だ。


「私はこの女の色仕掛けに騙されたんだ! 婚約なんて無効だ! こんな詐欺師と結婚できるわけがない!」

「え……?」


レイナが剛田を見上げる。


「たけるさん……何を言ってるの……? 私たち、愛し合って……」

「黙れ! 愛なんてあるわけないだろう! お前が『次期役員候補』で『有能な美女』だから選んだだけだ! ただの無能な女に価値なんてあるか! 俺のキャリアを傷つけやがって、この疫病神が!」


剛田は汚い言葉を浴びせかけた。

「仕事ができない女に価値はない」。かつてレイナが俺に対して抱いていた選民意識が、今度は剛田からレイナへと、最悪の形で跳ね返ってきたのだ。

まさに因果応報。


「ひどい……ひどいわ……」


レイナは涙を流しながら首を振る。


「私、あなたのために慧を裏切ったのに……」

「勝手に裏切ったのはお前だろうが! 俺を巻き込むな!」


醜い罵り合い。

人事部長が冷ややかに告げた。


「そこまでだ」


二人はハッとして口を閉ざした。


「二人の人間性はよく分かった。これ以上聞く必要はない」


部長は手元の書類に何かを書き込み、二人を見据えた。


「正式な処分は後日通達するが、現時点での決定事項を伝える。氷川レイナ、および剛田猛。両名を本日付で自宅謹慎とする。社内システムへのアクセス権はすべて剥奪する。当然、現在進行中のプロジェクトからは即刻外れてもらう」


それは、事実上の「追放宣告」だった。


「そ、そんな……待ってください! 私にはまだ挽回のチャンスが……!」


剛田が食い下がるが、部長は無視した。


「さらに、今回の件で会社が被った損害については、賠償請求も検討する。覚悟しておくように」

「賠償……!?」


二人の顔から生気が消えた。

彼らのキャリアだけでなく、経済的な基盤すらも崩壊しようとしている。


「連れて行け」


部長の合図で、警備員が入室してきた。

二人は両脇を抱えられ、引きずられるようにして部屋から出されていく。


「嫌だ! 嫌ぁぁっ! 私は悪くない! 私はMVPなのよ!」

「放せ! 俺はエリートなんだ! こんなことで終わってたまるか!」


断末魔のような叫び声が、廊下に遠ざかっていく。

やがて扉が閉まり、会議室には再び静寂が戻った。


俺は深く息を吐き出した。

終わった。

すべてが終わった。


「……東雲くん」


人事部長が、これまでの厳しい表情を崩し、俺に向き直った。


「君には辛い思いをさせたな。会社として、管理が行き届かなかったことを詫びる」


部長と室長が、俺に対して深々と頭を下げた。

俺は慌てて立ち上がり、頭を下げ返した。


「いえ、私がもっと早く声を上げていれば、ここまで大事にはならなかったかもしれません。私にも責任があります」

「いや、君は十分耐えたよ。そして、勇気ある告発をしてくれた。おかげで、会社は膿を出し切ることができた」


部長は穏やかな目で俺を見た。


「君の提出した資料、全て目を通させてもらったよ。素晴らしい分析力と実務能力だ。今まで埋もれていたのが不思議なくらいだ」

「……ありがとうございます」

「実は、社長からも伝言を預かっている。『本物は、どんなに隠しても輝きを隠せないものだ。これからは表舞台で、その力を存分に発揮してほしい』とね」


その言葉が、じんわりと胸に染み渡った。

影として生きてきた俺が、初めて「個」として認められた瞬間だった。

レイナのために自分を殺し、剛田に見下され続けてきた日々が、ようやく報われた気がした。


「はい。これからは、自分のために、そして会社のために全力を尽くします」


俺は力強く答えた。


査問会が終わり、オフィスに戻る。

すでに定時を過ぎていたが、フロアにはまだ多くの社員が残っていた。

俺が戻ると、彼らは一斉にこちらを見た。しかし、その視線は朝のものとは違っていた。

敬意、信頼、そして期待。


「東雲さん、お疲れ様でした」

「大変でしたね」

「今度、一杯奢らせてくださいよ」


口々に声をかけてくる同僚たち。

俺はその一人一人に笑顔で応えながら、自分のデスクに戻り、荷物をまとめた。


鞄を手に取り、エントランスを出る。

夜風が心地よい。

見上げると、ビルの谷間に月が輝いていた。

昨日までは、レイナという偽りの太陽の陰に隠れていた月。

しかし今は、静かに、だが確かな光を放っている。


ポケットの中でスマートフォンが震えた。

見ると、剛田からの着信だった。おそらく、最後の悪あがきか、罵倒か、あるいは懇願だろう。

俺は迷わず「着信拒否」に設定し、さらに彼のアドレスも完全に消去した。

これで、俺の世界から彼らというノイズは完全に消え去った。


街の喧騒の中へ歩き出す。

足取りは軽い。

明日からは新しいプロジェクトが始まる。そこには、俺の力を必要としてくれる仲間たちが待っている。

誰かのためではない。自分の足で歩く未来が、そこには広がっていた。


背後にある巨大なオフィスビルの中で、かつて栄華を極めた二人の男女が、今まさに地獄の底を味わっていることを俺は知っている。

だが、もう振り返らない。

彼らには彼らにふさわしい結末が待っているだけだ。

俺には、俺にふさわしい未来が待っているように。

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