第4話 虚飾の崩壊
運命の日は、皮肉なほどの快晴だった。
雲ひとつない青空が、オフィスの窓ガラス越しに広がっている。その明るさが、社内の張り詰めた空気をより一層際立たせていた。
今日は「プロジェクト・エクリプス」の最終承認を得るための役員プレゼンが行われる日だ。
場所は、本社ビル最上階にある特別会議室「オリンポス」。
そこは、社長を含む全役員が顔を揃える、まさに神々の審判の場。そこでゴーサインが出れば、数百億規模の予算が動き出し、レイナと剛田の社内での地位は盤石なものとなる。逆に失敗すれば、これまでの大言壮語が全てブーメランとなって彼らに襲いかかることになる。
午前九時。
俺、東雲慧は、いつものように淡々とメールチェックを行っていた。
今日の役員会議には、俺も陪席することになっていた。本来、平社員の俺が参加するような場ではないが、今回のプロジェクトには俺の所属する企画部も一部絡んでいるため、部長の補佐として、また議事録係としての同席を命じられたのだ。
「……おはよう、東雲くん」
声をかけられ顔を上げると、企画部長が立っていた。その表情は硬い。
「おはようございます、部長」
「今日の会議、荒れそうだな。噂だと、第一営業部の準備状況、かなり悲惨らしいじゃないか」
部長は声を潜めてそう言った。社内には既に、先日のキックオフミーティングでのレイナの醜態が広まっている。「エース氷川がポンコツ化した」「剛田室長が焦りまくっている」という噂は、退屈な日常を送る社員たちにとって格好の娯楽だ。
「どうなんでしょうね。彼らなりに修正してきているとは思いますが」
「まあ、君はただ座って記録を取っていればいい。巻き込まれないようにな」
部長はそう言って苦笑いした。彼は俺とレイナの関係を知らない。だから純粋に部下を心配してくれているのだ。
俺は「承知しました」と短く答え、手元のタブレット端末を確認した。
そこには、今日の会議次第で送信ボタンを押すだけの状態になった、一通のメールの下書きが表示されている。
宛先は、人事部長とコンプライアンス室長。そしてBCCには、社長秘書室のアドレスも入っている。
件名は『業務成果物の不正利用および虚偽報告に関する証拠提出』。
添付ファイルには、昨日までに整理を終えた「作成者メタデータ」「編集履歴」「チャットログ」が全てZIP圧縮されて格納されていた。
準備は整っている。
あとは、彼らが「最後の一線」を越えるかどうかだ。
もし彼らが、自分の無能さを認め、正直に謝罪し、プロジェクトの延期を申し出るなら、俺はこのメールを送らないつもりだった。それは彼らにとって最後の情けであり、人間としての矜持を問うテストでもあった。
午前十時。
「オリンポス」の重厚な扉が開かれた。
長大なマホガニーのテーブルを囲むように、役員たちが鎮座している。その最奥には、創業家出身であり、冷徹な経営手腕で知られる神宮寺社長が座っていた。彼の一瞥だけで、部屋の温度が数度下がったような錯覚に陥る。
俺は末席の小さな椅子に座り、ノートPCを開いた。
正面のプレゼンター席には、レイナと剛田が立っている。
レイナの姿を見て、俺は思わず眉をひそめそうになった。
遠目には完璧にメイクアップされているが、近くで見るとその肌荒れは隠しきれていない。目の下にはコンシーラーで塗り固められたクマがあり、指先は小刻みに震えている。ここ数日、徹夜続きだったのだろう。
隣の剛田も、表情こそ自信ありげに作っているが、額には脂汗が滲み、しきりにネクタイの結び目を気にしている。
「それでは、お時間になりましたので、プロジェクト・エクリプスの最終プレゼンテーションを始めさせていただきます」
司会進行役の役員が告げると、室内の照明が落とされた。
プロジェクターの光がスクリーンを照らし出す。
レイナが一歩前に出た。彼女は深呼吸をし、震える手を太腿に押し付けて止めた。
「第一営業部の氷川です。本日は、我が社の未来を切り拓く新事業についてご説明いたします」
プレゼンが始まった。
序盤は比較的スムーズだった。というのも、冒頭の「市場背景」や「ビジョン」といった抽象的なパートは、言葉巧みに語れば何とかなる部分だからだ。彼女の天性の演技力が、薄っぺらな内容を何とかコーティングしていた。
役員たちも、資料に目を落としながら静かに聞いている。
しかし、雲行きが怪しくなったのは、中盤の「具体的な戦略」と「収支計画」のパートに入ってからだった。
「……このように、AIによる自動ターゲティングを行うことで、初年度から営業利益率20%を達成可能です」
レイナが自信満々に提示したスライドには、右肩上がりの美しいグラフが表示されていた。
だが、そのグラフには致命的な欠陥があった。
「ちょっと待ちなさい」
静寂を破ったのは、財務担当の専務だった。鋭い眼光がレイナを射抜く。
「この利益率の根拠となる『開発コスト』だが、やけに低くないか? AIの学習サーバー維持費や、エンジニアの人件費が、相場の半分以下に見えるが」
レイナの肩がビクリと跳ねた。
「あ、はい。それは……効率化を徹底することで、コストダウンを図る計算になっておりまして……」
「効率化と言っても限界がある。具体的にどうやって半分にするんだ? ベンダーの見積もりは取ったのか?」
「ええと、見積もりは……現在精査中ですが、概算として過去の類似プロジェクトを参考に……」
「過去のプロジェクト? 二年前の『プロジェクト・オリオン』のことか? あれはオンプレミス型だぞ。今回はクラウドベースのAIだろう。構造が全く違うのに、コスト構造を流用したのか?」
専務の指摘は的確すぎた。
レイナは、俺が過去に作った別案件のコスト表を、何も考えずに数字だけ弄って貼り付けたのだろう。技術的な背景を理解していない彼女には、「システム開発」といえばどれも同じに見えているのだ。
「そ、それは……あくまで参考値として……」
「数百億の投資案件で『参考値』で済むと思っているのか! 遊びじゃないんだぞ!」
専務の怒声が響き渡る。
レイナは立ち尽くし、言葉を失った。
助け舟を出すべき剛田も、下を向いて資料を捲るふりをしている。彼もまた、技術的な突っ込みには答えられないのだ。
「それに、このマーケティング戦略もおかしい」
続いて口を開いたのは、マーケティング本部長だった。
「ターゲット層を『Z世代全般』としているが、広すぎる。彼らの嗜好は細分化しているんだ。ペルソナ分析の資料はあるのか?」
「ペルソナ……はい、あります」
レイナは慌ててスライドを送る。
表示されたのは、ネットで拾ってきたようなステレオタイプな若者の画像と、『流行に敏感』『SNSを多用』といった浅いキーワードだけだった。
「……これだけか? 生のインタビューデータや、行動ログの解析結果は?」
「そ、それは……これから収集する予定で……」
「これから? プロジェクトの承認を得ようという段階で、まだ顧客の顔も見えていないのか? 君は今まで何をしていたんだ」
呆れ果てた声。
会場の空気が、急速に冷ややかなものへと変わっていく。
かつて「天才」と称賛されたレイナの姿はどこにもない。そこにいるのは、宿題を忘れて言い訳をする小学生のような、無力な一人の社員だった。
「違うんです! 私の頭の中にはもっと詳細なプランがあるんです! ただ、資料に落とし込む時間がなくて……」
レイナが悲痛な声で叫ぶ。
しかし、その言葉は誰の心にも響かない。ビジネスの世界において、アウトプットされていない思考など存在しないのと同じだ。
そして、沈黙を守っていた神宮寺社長が、ゆっくりと口を開いた。
「氷川くん」
低く、重い声。
レイナは弾かれたように社長の方を向いた。
「は、はい!」
「君は、昨年のMVPだそうだな。その時の企画力と分析力は素晴らしかったと聞いている。だが、今日のプレゼンはどうだ。まるで別人が作ったかのようなお粗末さだ。なぜだ?」
社長の問いかけは、核心を突いていた。
「まるで別人が作ったかのような」。
その通りだ。今までは俺が作っていたのだから。
レイナの顔色が白から土気色へと変わっていく。
彼女のプライドが、音を立てて崩壊しようとしていた。
このままでは終われない。自分の評価が地に落ちる。MVPの栄光も、将来の役員の座も、全てが消えてしまう。
恐怖とパニックが彼女の理性を焼き切った。
彼女は、ついに言ってはいけない言葉を口にした。
「……部下のせいです」
会議室が静まり返る。
社長が片眉を上げた。
「部下?」
「はい……。私は全体構想に集中していたのですが、資料作成を任せていた部下が……その、指示通りのデータを持ってこなかったんです。いえ、むしろ私の足を引っ張るために、わざと古いデータを渡したり、間違った計算をしたりして……」
レイナの声は震えていたが、一度口に出してしまうと止まらなかった。自分を守るための嘘が、次から次へと溢れ出てくる。
「私は被害者なんです! 無能な部下にサボタージュされたせいで、私のプランが台無しにされたんです! 本来の私の実力なら、こんなミスはしません!」
彼女は自分の無能さを認める代わりに、架空の(あるいは俺を暗示する)部下に全ての責任を転嫁した。
剛田も、ここぞとばかりに乗っかる。
「そ、そうです社長! 私も彼女から相談を受けていました。現場の協力が得られず、彼女は孤立奮闘していたんです。これは組織的な問題であり、彼女個人の能力不足ではありません!」
二人は必死だった。
誰かを悪者にしなければ、自分たちが生き残れない。そのためなら、真面目に働いている部下を犠牲にすることなど厭わない。
その醜悪な保身の姿に、俺の中で何かが冷たく固まった。
テスト終了。
結果は、不合格だ。
俺は静かにタブレットの画面をタップした。
『送信』。
指先一つの動作で、圧縮された数ギガバイトの「真実」が、ネットワークを通じて飛び立った。
その数秒後。
会議室にいる人事部長の手元にあるタブレットが、ポーンという通知音を鳴らした。
通常、役員会議中に音を鳴らすのはマナー違反だ。人事部長は恐縮しながら画面を確認し、そして、目を見開いた。
同時に、コンプライアンス室長も自分の端末を凝視している。
彼らの視線が、プレゼンター席のレイナと、末席に座る俺の間を忙しなく往復する。
俺は表情を変えず、ただまっすぐに前を見ていた。
人事部長がおもむろに立ち上がり、神宮寺社長の元へと歩み寄った。そして、耳元で何かを囁きながら、自分のタブレット画面を見せる。
社長の目が、画面上のデータを追う。
スライドされる指先。
社長の表情から感情が消え、絶対零度の冷徹さが宿っていく。
プレゼンを続けようとしていたレイナが、その異様な雰囲気に気づいて口をつぐんだ。
「……あの、社長?」
社長はゆっくりと顔を上げ、レイナを見据えた。
その目は、もはや社員を見る目ではなく、排除すべき異物を見る目だった。
「プレゼンは中止だ」
社長が短く告げた。
「え……ち、中止? どういうことでしょうか。まだ説明の途中ですが……」
「必要ないと言っているんだ」
社長はタブレットをテーブルの上に放り投げた。乾いた音が響く。
「氷川くん。君は今、『部下が資料を作った』と言ったな?」
「は、はい。そうです。私は指示を出しただけで……」
「なるほど。では聞くが、君の言う『部下』とは、そこにいる東雲くんのことか?」
突然名前を呼ばれ、俺に全員の視線が集まる。
レイナは目を見開き、口をパクパクとさせた。俺の名前が出るとは思っていなかったのだろう。
「え、あ、いえ、特定の誰かというわけでは……」
「とぼけるな!」
社長の怒声が、雷のように轟いた。
レイナが小さく悲鳴を上げてすくみ上がる。剛田も顔面蒼白だ。
「たった今、人事部とコンプライアンス室に内部通報があった。提出された証拠によれば、過去数年間にわたり、君が『自分の成果』として提出してきた企画書、報告書、分析データのほぼ全てが、東雲くんのPCで作成されたものであることが記録されている」
「な……!?」
レイナの顔から血の気が完全に引いた。
彼女は信じられないものを見る目で俺を見た。俺は彼女の視線を、冷ややかに受け止める。
「さらに、君が東雲くんに業務を丸投げし、成果を横取りしていたことを裏付けるチャットの履歴も残っている。『これやっといて』『私の手柄にするから』『面倒なことは全部任せるわ』……これらは全て、君のアカウントから発信されたものだ。違うか?」
社長が読み上げるメッセージの内容に、役員たちがざわめき始める。
軽蔑、呆れ、そして怒り。
「ち、違います! それは捏造です! 彼が私を陥れようとして……!」
レイナは狂乱したように叫んだ。
「捏造? デジタルのログは嘘をつかない。作成者のIPアドレス、MACアドレス、編集時間、全てが東雲くんのものだ。逆に、君のPCには、作成の形跡が全くない。あるのは完成品をダウンロードした履歴と、ファイル名を書き換えた履歴だけだ」
社長の言葉は、逃げ道を完全に塞ぐものだった。
「君は『部下のせいで失敗した』と言ったが、事実は逆だ。これまで君が成功してきたのは、全てその『部下』のおかげだったということだ。君という人間は、他人の才能に寄生し、中身のない虚像で我々を欺いてきた、ただの詐欺師だ!」
「詐欺師」という言葉が、レイナの心臓に突き刺さる。
彼女は膝から崩れ落ちた。
震える手で床をつき、涙ながらに弁解を試みる。
「ち、違うんです……私は、ただ……会社のために……」
「もういい。聞きたくない」
社長は冷たく切り捨て、剛田の方を向いた。
「剛田。お前もだ」
「しゃ、社長! 私は知らなかったんです! 彼女に騙されていたんです!」
剛田は即座にレイナを裏切った。さっきまで「組織の問題だ」と庇っていた舌の根も乾かぬうちに。
レイナがショックを受けた顔で剛田を見上げる。
「たける……さん?」
「触るな! 君のせいで私の顔に泥が塗られたんだぞ! どうしてくれるんだ!」
剛田はレイナの手を振り払った。
その醜い争いを、社長は汚いものを見る目で見下ろした。
「見苦しいぞ、剛田。お前はプロジェクトの統括責任者だ。リーダーの人選ミス、監督不行き届き、そして何より、現場の実態を見抜けなかった無能さ。その責任は重いぞ」
「う……あ……」
剛田もまた、言葉を失ってうなだれた。
「この会議は終了とする。プロジェクト・エクリプスは白紙撤回。そして、今回の件に関しては、懲罰委員会を設置し、厳正に処分を下す」
社長が立ち上がり、退室を促した。
役員たちもまた、冷ややかな視線を二人に浴びせながら部屋を出て行く。
広い会議室に残されたのは、床に崩れ落ちたレイナと、呆然と立ち尽くす剛田。
そして、PCを閉じて静かに立ち上がった俺だけだった。
俺は出口へ向かう途中、レイナの横を通った。
彼女が顔を上げ、俺を見た。その顔は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになり、かつての「社内一の美女」の面影は微塵もなかった。
「慧……どうして……」
震える声で彼女が問う。
「どうしてって、君が望んだことだろう?」
俺は立ち止まり、冷たく見下ろした。
「『凡人は不要』。『私には能力がある』。そう言ったのは君だ。だから俺は、君の能力を証明する機会を与えただけだ。一人でやるって、そういうことだろう?」
「そん、な……ひどい……」
「酷いのはどっちだ。俺の人生を、君の踏み台程度にしか考えていなかったのは誰だ」
俺の言葉に、彼女は何も言い返せず、ただ嗚咽を漏らした。
剛田は俺の方を見ようともせず、ぶつぶつと「俺のキャリアが……」と呟いている。
俺は二人にもう用はないとばかりに背を向け、会議室の扉を開けた。
背後から聞こえる泣き声が、閉まる扉と共に遮断される。
廊下に出ると、窓から差し込む陽光が眩しかった。
長い間、俺の心を覆っていた分厚い雲が、ようやく消え去ったような気がした。
虚飾の城は崩れ落ちた。
あとは、瓦礫の山が片付けられるのを待つだけだ。
俺は大きく息を吸い込み、自分の足で、しっかりとした足取りで歩き出した。




