第3話 綻び始めた歯車
週が明け、株式会社クロノス・ソリューションズの社内は、新プロジェクト「エクリプス」の本格始動に向けて慌ただしい空気に包まれていた。
最先端の技術と巨額の予算が投じられるこのプロジェクトは、社内外からの注目度が桁違いに高い。そのリーダーに抜擢された氷川レイナと、統括責任者である剛田猛の一挙手一投足に、全社員の視線が注がれていた。
しかし、そのプロジェクトルームの個室で、レイナが一人、冷や汗を流していることを知る者はまだいない。
「……ない。どうしてないのよ」
レイナは苛立ちを隠そうともせず、高価なネイルアートが施された指先でマウスを乱暴に叩いた。
彼女の目の前にあるPCモニターには、空っぽのフォルダが表示されている。
いつもなら、この『進行中案件』というフォルダを開けば、そこには『第1回ミーティング資料_案』『市場分析データ_最新』『予想収支シミュレーション』といったファイルが、整然と並んでいるはずだった。
ファイル名の末尾には必ず日付が入り、彼女がすぐにプレゼンで使えるように、フォントや配色まで完璧に調整された状態で。
それが、ない。
フォルダの中身は真っ白だ。
「あのバカ、本当に何もしてないわけ?」
レイナは唇を噛んだ。
先週の金曜日、レストランで別れ話を切り出した時、慧は「分かった」と言った。その言葉を、彼女は「婚約破棄は受け入れるが、業務サポートはこれまで通り続ける」という意味だと勝手に解釈していた。
なぜなら、慧はこれまで一度たりとも彼女の頼みを断ったことがなかったからだ。どんなに理不尽な要求でも、どんなに深夜の連絡でも、彼は文句ひとつ言わずに完璧にこなしてきた。
だから今回も、少し拗ねているだけで、最終的にはちゃんとやってくれているはずだと思い込んでいたのだ。
「公私混同しないでよ、まったく……」
自分こそが公私混同の極みであることには気づかず、レイナは毒づいた。
今日の午後からは、プロジェクトメンバーを集めたキックオフミーティングがある。そこで彼女は、リーダーとしての方針と、具体的な戦略ロードマップを示さなければならない。
剛田からは「君のセンスに任せるよ。いつものように、あっと言わせるような鋭い分析を頼む」と言われている。
時計を見る。午前十一時。
会議まであと二時間しかない。
彼女は慌ててスマートフォンを取り出し、ブロックされているかもしれないなどとは微塵も考えず、慧のMINEにメッセージを送った。
『ねえ、ちょっと。フォルダが空なんだけど? 冗談はやめて。会議まで時間ないから、今すぐデータ入れておいて。謝るなら今のうちよ』
既読がつかない。
数分待っても、返信はない。
「……信じられない。無視する気?」
焦りが怒りに変わり、そして徐々に恐怖へと変質していく。
もし、本当にデータがなかったら?
自分で作るしかない。
いや、作れるはずだ。私は優秀なのだから。慧がやっていたのは単なるデータ入力とコピペ作業だ。指示を出していたのは私なのだから、私ができないはずがない。
そう自分に言い聞かせ、レイナはPowerPointを立ち上げた。
真っ白なスライドが表示される。
カーソルが点滅する。
「えっと、まずは現状分析から……」
キーボードに手を置くが、指が動かない。
頭の中にあるのは「革新的な」「圧倒的なシェア」「パラダイムシフト」といった、耳障りの良いキーワードだけ。それを裏付ける具体的な数字や、ロジカルな構成が、霧がかかったように浮かんでこない。
今まで彼女が「自分のアイデア」だと思っていたものは、実は慧が雑談の中で巧みに誘導し、整理し、形にしてくれたものだったという事実に、彼女はまだ気づいていなかった。いや、認めることができなかった。
「テンプレート……テンプレートさえあれば……」
彼女は社内の共有サーバーを漁り始めた。過去のプロジェクト資料なら残っているはずだ。それをツギハギすれば、何とか形になるはず。
運良く、二年前に彼女が担当した(とされている)類似案件のフォルダが見つかった。
中には、慧が作成した完璧なプレゼン資料が残っている。
「あった! これよ、これを使えばいいのよ」
レイナの顔に安堵の色が戻る。
彼女はそのファイルをコピーし、表紙のタイトルを『Project Eclipse キックオフ資料』に書き換えた。
そして、中の文言を適当に修正していく。
「2024年度」を「2026年度」に。「A社」を「今回のターゲット」に。
グラフの数値も少し変えなければならないが、Excelの元データがどこにあるか分からない。仕方がないので、グラフの画像をペイントソフトで無理やり引き伸ばし、上昇トレンドに見えるように加工した。
「ふふ、なんとかなるじゃない。やっぱり私、天才かも」
完成した資料を見返し、レイナは満足げに頷いた。
見た目はそれっぽい。デザインは洗練されているし、専門用語も散りばめられている。これなら誰も文句は言わないだろう。
慧がいなくても、私はやれる。むしろ、あいつの古臭いやり方に縛られなくて済む分、これからはもっと自由に羽ばたけるのだ。
そう思い込むことで、心の奥底で警鐘を鳴らし続ける不安を無理やり押し込めた。
一方、その頃。
企画部の執務エリアで、俺は自分の業務に集中していた。
レイナのサポート業務がなくなったおかげで、驚くほど時間が余っていた。本来の自分のタスクなど、午前中に全て片付いてしまう量だったのだ。
「東雲さん、この間の分析レポート、すごく助かりました! おかげでクライアントから高評価をもらえました」
営業部の若手が、わざわざ俺の席まで礼を言いに来た。
先週、俺が自分の名前で出した初めてのレポートだ。
「それは良かった。もし追加でデータが必要なら、いつでも言ってくれ」
「ありがとうございます! やっぱり東雲さんの分析は視点が鋭いですね。なんで今までもっと前に出なかったんですか?」
「はは、まあ、タイミングかな」
俺は曖昧に笑って誤魔化した。
周囲の反応が変わってきているのを感じる。
これまでは「氷川レイナの腰巾着」「地味な雑用係」という認識だったのが、レイナというフィルターを通さずに俺の仕事が直接評価されるようになり、「実は仕事ができる人」という認識が広まりつつある。
手元のスマートフォンが、ポケットの中で微かに振動し続けている。
マナーモードにしているが、通知ランプが点滅しているのが見えた。
画面を伏せているが、誰からの連絡かは想像がつく。社内チャットツールの方にも、レイナからの通知が十件以上溜まっていた。
『まだ?』
『いい加減にして』
『仕事放棄で訴えるわよ』
『お願い、データだけでも送って。後で奢るから』
脅迫から哀願へ。必死さが伝わってくるが、俺の心は凪のように静かだった。
「仕事放棄」と言うが、それは俺の仕事ではない。彼女の仕事だ。
自分の仕事を自分でやる。社会人として当たり前のことを求めているに過ぎない。
「東雲、ちょっといいか?」
部長に呼ばれ、俺は顔を上げた。
「はい」
「今度の四半期決算の件だが、お前にリーダーを任せたい。最近の働きぶりを見ていて、適任だと判断した」
「ありがとうございます。謹んでお受けします」
これまでの俺なら、「今は氷川さんのサポートで手一杯なので」と断っていただろう。
だが今は違う。
自分の実力を、自分のために使える。その当たり前の喜びを噛み締めながら、俺は力強く頷いた。
午後一時。
大会議室に、プロジェクトメンバー二十名が集まっていた。
営業、開発、マーケティング、各部署から選抜された精鋭たちだ。彼らの表情には、期待と緊張が入り混じっている。
その中心に、レイナと剛田が座っていた。
「それでは、プロジェクト・エクリプスのキックオフミーティングを始めます」
レイナが立ち上がり、プロジェクターのスイッチを入れる。
スクリーンに、彼女が急造したスライドが映し出された。
「まず、本プロジェクトの目的と市場背景について説明します」
レイナは流暢に喋り始めた。声のトーン、身振り手振り、アイコンタクト。プレゼンテーションの「演技」に関しては、彼女は超一流だ。
剛田も満足そうに頷きながら、彼女の横顔を見つめている。
「……以上のことから、当社のAIソリューションは、競合他社に対して圧倒的な優位性を持つことができます。特に、このグラフを見ていただければ分かる通り、市場の成長率は右肩上がりであり――」
彼女が自信満々にグラフを指し示した、その時だった。
「あの、すみません。ちょっといいですか?」
開発部のリーダーである佐伯が、眉をひそめて手を挙げた。
彼は社内でも一、二を争う論理的思考の持ち主で、数字にはめっぽう強い男だ。
「はい、何かしら佐伯さん。質問は最後にまとめて……」
「いや、前提に関わることなので今聞きたいんですが。このグラフの出典元データ、いつのものですか?」
レイナの笑顔が少し引きつる。
「え、えっと……最新の市場調査に基づいたものですわ」
「おかしいですね。ここに記載されている『市場規模5000億円』という数字は、2024年の予測値のはずです。2026年現在の実績値は、すでに7000億円を超えているはずですが」
会議室に、ざわめきが走る。
レイナは言葉に詰まった。コピペ元のデータが二年前のものだとバレたのだ。
「あ、あれ? そうでしたっけ……あ、これはあくまで保守的なシナリオとして、過去のデータをベースに……」
「保守的? だとしても、注釈もなしに古いデータを提示するのはミスリーディングですよ。それに、次のスライドの競合分析ですが、C社は昨年買収されて社名が変わっていますよね? なぜ旧社名のままなんですか?」
佐伯の追及は容赦なかった。
彼は別に意地悪をしているわけではない。プロジェクトの成功のために、誤った前提を正そうとしているだけだ。しかし、それがレイナにとっては致命的な攻撃となる。
「そ、それは……資料作成の際に、少し古いデータベースを参照してしまったのかもしれません。でも、大枠のトレンドは変わっていないので……」
「大枠の問題じゃありません。AIプロジェクトにおいて、二年間の技術進歩と市場変化を無視するなんてあり得ない。この資料、本当に氷川さんが作ったんですか?」
その言葉に、レイナの顔色が蒼白になる。
「本当に作ったのか」という問いは、彼女の核心を突くものだった。
「も、もちろんです! 私が徹夜で作りました! ただ、ちょっと寝不足で、ケアレスミスがあっただけで……」
彼女は救いを求めるように剛田を見た。
剛田は腕を組み、不機嫌そうに佐伯を睨んだ。
「佐伯くん、細かいことをネチネチと言うのはやめたまえ。彼女はリーダーとして大きなビジョンを示しているんだ。数字の誤差なんて、後で修正すればいいだろう」
「室長、これは誤差のレベルじゃありません。前提が間違っていたら、戦略全体が破綻します」
「うるさい! 君は黙って技術的なことだけ考えていればいいんだ。ビジネスの判断は我々がやる」
剛田の理不尽な一喝で、佐伯は口を閉ざした。
しかし、その表情は納得したものではなく、呆れと軽蔑を含んだものだった。
他のメンバーたちも、互いに顔を見合わせ、微妙な空気が流れる。
「おかしい」「氷川さんってこんなに仕事雑だったっけ?」「剛田室長もなんであんなのを庇うんだ?」という無言の会話が、視線だけで交わされているようだった。
「……つ、続けます」
レイナは気を取り直して説明を再開したが、一度崩れたリズムは戻らなかった。
その後も、マーケティング部の女性社員から「このターゲット層のペルソナ設定、今の若者の感覚とズレてませんか?」と指摘され、経理部の担当者からは「収支計画の計算式、合計が合ってないんですけど」と突っ込まれた。
そのたびにレイナは「後で確認します」「修正版を共有します」としどろもどろに答えるしかなかった。
彼女の武器であった「自信」と「オーラ」が、音を立てて剥がれ落ちていく。
スライドが進むごとに、参加者たちの視線は冷ややかになり、最後には誰もメモを取らなくなっていた。
一時間の会議が終わった時、レイナの背中は冷や汗でびっしょりと濡れていた。
「お疲れ様でした……」
彼女が力なく解散を告げると、メンバーたちは逃げるように会議室を出て行った。
残されたのは、レイナと剛田だけ。
「……災難だったね、レイナ」
剛田が慰めるように声をかけたが、その声にも以前のような熱量はなかった。
彼もまた、エリートとしてのプライドが高い男だ。自分の婚約者が、部下の前で恥をかいたという事実は、彼にとっても面白くない。
「あいつら、私の足を引っ張ろうとして……嫉妬してるのよ、きっと」
「ああ、そうだな。凡人には天才のスピード感が理解できないんだろう」
二人はそうやって互いを慰め合い、傷ついたプライドを守ろうとした。
だが、剛田の目には、わずかな疑念の光が宿り始めていた。
「本当に彼女は有能なのか?」という、一度芽生えたら消すことのできない疑念が。
その日の夕方。
給湯室でコーヒーを淹れていると、会議に出席していた佐伯と出くわした。
「お疲れ、東雲」
「お疲れ様です、佐伯さん。会議、どうでした?」
知らぬふりをして尋ねると、佐伯は大きな溜息をついて首を振った。
「最悪だったよ。時間の無駄だ。あんな資料でGOサインが出ると思ってる神経が分からない」
「……そんなに酷かったんですか?」
「酷いなんてもんじゃない。基礎データは古いし、論理は破綻してるし、間違いを指摘しても認めないし。今まで氷川さんのこと、もっと賢い人だと思ってたんだけどな……なんか、中身がスッカラカンだったよ」
佐伯は苦いコーヒーを飲み干し、声を潜めて続けた。
「悪いけど、東雲が婚約破棄されて正解だったかもしれないぞ。あんなのと一緒になったら、尻拭いで一生終わるところだった」
「……そうかもしれませんね」
俺は静かに頷いた。
「尻拭い」は、もう散々やってきた。だからこそ、今こうして解放されているのだ。
「まあ、プロジェクトは始まったばかりだし、俺たち現場がなんとかするしかないか。じゃあ、戻るわ」
佐伯が去った後、俺は自分のデスクに戻った。
PCのモニター越しに、遠くの席に座るレイナの姿が見えた。
彼女はまだPCに向かい、鬼の形相でキーボードを叩いている。おそらく、今日指摘された箇所の修正に追われているのだろう。だが、根本的な能力がない以上、修正すればするほど新たな矛盾が生まれるだけだ。
泥沼。
彼女の足元は、もう固い地面ではない。
一歩動くごとに深く沈んでいく、底なしの沼だ。
俺は自分のPCにある「ごみ箱」を空にする操作を行った。
完全に削除しますか? という警告メッセージに対し、迷わず「はい」をクリックする。
その乾いたクリック音が、レイナへの鎮魂歌のように静かなオフィスに響いた。
歯車は狂い始めたのではない。
元々噛み合っていなかった歯車を無理やり回していた動力が、消失しただけのことだ。
そして、止まった歯車は二度と動かない。
俺は定時になると同時にPCを閉じ、誰よりも早くオフィスを後にした。
背後で、レイナが誰かに電話で怒鳴り散らしている声が聞こえた気がしたが、振り返ることはしなかった。
外の空気は、昨日よりもさらに澄んでいて、美味しく感じられた。




