第2話 新体制の発表と静かなる準備
翌朝、株式会社クロノス・ソリューションズのオフィスには、いつもとは違う異様な熱気が渦巻いていた。
エレベーターホールから執務室へ向かう廊下、給湯室、喫煙所。至る所でひそひそ話が交わされ、俺が通りかかると一瞬だけその声が止み、そして俺が通り過ぎた直後に再びさざ波のように会話が再開される。
憐れみ、嘲笑、あるいは野次馬根性丸出しの好奇心。それらが混ざり合った視線が、背中にチクチクと突き刺さるのを感じた。
「おい、見たか? 今朝のMINEのタイムライン」
「見た見た。昨日の夜中から凄いことになってるよな」
「まさかあの氷川さんがねえ……。まあ、相手が剛田さんなら納得だけど」
「元カレの方、どうすんだろ。惨めだよなあ」
すれ違いざま、他部署の若手社員たちの会話が漏れ聞こえる。彼らは声を潜めているつもりなのだろうが、静かな朝のオフィスでは筒抜けだった。
俺は無表情を貫き、自分のデスクへと向かった。
PCを立ち上げ、社内SNS「MINE」のアイコンをクリックする。予想通り、トレンドの上位には「#氷川レイナ」「#剛田猛」「#電撃婚約」「#最強カップル」といったタグが並んでいた。
昨夜の今日で、彼らはもう公表したのか。
タイムラインには、高級レストランで寄り添う二人の写真がアップロードされている。レイナの左手薬指には、大粒のダイヤモンドが嵌められた指輪が輝いていた。キャプションには『新しい人生のパートナーと共に、更なる高みへ』という、いかにも彼女らしい気取った一文が添えられている。
「……仕事が早いな」
俺は独り言ちて、ブラウザを閉じた。
怒りは不思議と湧いてこなかった。むしろ、ここまで堂々とやってくれれば清々しいとさえ思う。彼らは自分たちが世界の主人公であり、俺のような脇役の感情など考慮に値しないと本気で信じているのだ。
その傲慢さが、いずれ彼ら自身の首を絞めることになるのだが、今の彼らにそれを伝えても負け犬の遠吠えにしか聞こえないだろう。
午前十時。全社会議が開かれる大会議室に、社員たちが続々と集まっていた。
今日は新プロジェクトのキックオフミーティングだ。
ステージ上のスクリーンには『Project Eclipse(日食)』という仰々しいロゴが映し出されている。
俺は一番後ろの席に陣取り、手元のタブレットで自分の業務をこなしながら開会を待った。
「皆さま、おはようございます!」
マイクを通して響く剛田の力強い声と共に、会場の照明が落ち、スポットライトがステージ中央を照らし出す。
そこには、昨夜と同じように自信に満ちた表情の剛田と、その隣で華やかに微笑むレイナの姿があった。まるで結婚式の披露宴のような登場演出に、会場からはどよめきと拍手が起こる。
「本日、我々経営戦略室と第一営業部は、社運を賭けた新規事業『プロジェクト・エクリプス』を始動させます。これは従来の常識を覆す、AIを活用した完全自律型のマーケティングソリューションです」
剛田が得意げにプロジェクトの概要を語る。その内容は、以前俺がレイナとの雑談の中で「将来的にこういうことができたら面白いかもな」と語ったアイデアをベースに、派手な言葉で着飾っただけのものだった。
俺が実現可能性のハードルが高いとして寝かせていたアイデアを、彼らは「革新的な企画」としてぶち上げているらしい。
「そして、このプロジェクトのリーダーを務めるのは、昨年度MVPの氷川レイナさんです!」
剛田の紹介を受けて、レイナが一歩前に出る。
割れんばかりの拍手。彼女は優雅に一礼し、マイクを握った。
「ご紹介に預かりました、氷川です。このプロジェクトは、私のキャリアの集大成となるものです。これまでの旧態依然としたやり方を打破し、スピード感とインパクトを重視した新しい風を吹き込みたいと思います」
彼女は言葉を切り、会場全体を見渡してから、意味ありげに続けた。
「成功のために必要なのは、輝かしい才能と、それを理解できるパートナーです。足枷になるような古いしがらみや、変化を恐れる凡庸な思考は、このプロジェクトには不要です。私は、私と同じ景色を見ることができる剛田さんと共に、必ずこのプロジェクトを成功させます」
「凡庸な思考」「足枷」。
その言葉が誰に向けられたものか、会場にいる多くの人間が察したようだった。何人かがチラリと俺の方を振り返る。
レイナの視線も、一瞬だけ会場後方の俺を捉えた気がした。その目は「分かったでしょ? これが私の選んだ道よ」と語っているようだった。
そして、剛田が再びマイクを取る。
「さらに、私事ではありますがご報告があります。私、剛田猛と氷川レイナは、婚約いたしました!」
公私混同も甚だしい宣言。しかし、会場は祝福のムードに包まれた。権力者同士の結合は、組織においては正義として扱われる。
「おめでとうございます!」「お似合いです!」という声が飛び交う中、俺は静かに溜息をついた。
これで完全に後戻りはできなくなった。彼らは自ら退路を断ち、自分たちでハードルを極限まで上げてしまったのだ。
会議が終わり、社員たちが三々五々散っていく中、俺もデスクに戻ろうと立ち上がった。
その時だった。
「よう、東雲くん」
背後から声をかけられた。振り返ると、そこには剛田が立っていた。
長身でスタイルの良い彼は、仕立ての良いスーツを着こなし、いかにもエリートといった風情で俺を見下ろしている。その口元には、勝者の余裕を漂わせた薄ら笑いが浮かんでいた。
「剛田室長。婚約、おめでとうございます」
俺は社交辞令として、淡々と祝辞を述べた。
剛田は鼻で笑い、大袈裟に肩をすくめる。
「いやあ、悪いね。君から奪うような形になってしまって。でも、恋愛は自由競争だからね。優秀な遺伝子が惹かれ合うのは自然の摂理だよ」
「……そうですね。お二人はよくお似合いだと思います」
「だろう? 彼女も言っていたよ。『慧くんはいい人だけど、刺激がなくて退屈だった』ってね。彼女のようなダイヤモンドの原石は、君のような地味な環境に置いておくと曇ってしまう。私が磨き上げてこそ、真の輝きを放つのさ」
剛田は俺の肩に馴れ馴れしく手を置き、顔を近づけて声を潜めた。
「はっきり言わせてもらうが、君は彼女の才能を殺していたんだ。君がもっと有能で、彼女を高められる男だったら、彼女もこんなに苦労せずに済んだだろうに。まあ、これからは私が全ての責任を持つから、君は安心して平社員の仕事に戻りたまえ」
完全に俺を見下した言葉。彼は本気で、俺がレイナの足を引っ張っていたと思っているらしい。
レイナが彼にどう説明したのかは知らないが、おそらく「私が考えた企画なのに、彼が理解してくれなくて苦労した」とか「彼の手際が悪くて私の仕事が増えた」とか、そんな風に事実を捻じ曲げて伝えているのだろう。
そして剛田も、自分のプライドを満足させるために、その言葉を疑いもせずに信じ込んでいる。
「……分かりました。彼女のことは、剛田室長にお任せします。僕の手には余る女性でしたから」
俺が従順な態度を見せると、剛田は満足そうに頷き、俺の肩をポンと叩いた。
「素直でよろしい。負けを認めるのも勇気だ。じゃあ、失礼するよ。これからランチミーティングで忙しいんでね」
踵を返して去っていく剛田の背中を見送りながら、俺は心の中で静かにカウントダウンを始めた。
「全ての責任を持つ」。その言葉、忘れないでいただこう。
デスクに戻った俺は、誰にも気づかれないように作業を開始した。
それは、通常の業務ではない。これまで俺がレイナのために行ってきた「影の業務」の完全撤去作業だ。
まず、社内の共有サーバーにある俺の個人フォルダにアクセスする。
そこには『Project_R_Support』と名付けられた隠しフォルダが存在していた。表向きは存在しないことになっているこのフォルダの中には、レイナがこれまで提出してきた企画書の原案、プレゼン資料のPowerPointデータ、取引先への謝罪メールの文面案、さらには彼女が苦手なExcelのマクロツールなどが大量に保存されている。
彼女は、何かあるたびに「慧、あの資料どこだっけ?」「あれと同じフォーマットで作っておいて」と丸投げしてきた。だから俺は、彼女がいつでも使えるように、そして俺自身が効率よく代行できるように、全てのデータを体系化して整理していたのだ。
俺は、それらのデータを全て自分のローカルPCの、二重にパスワードロックをかけた暗号化領域へ移動させた。
そして、共有サーバー上からは完全に削除する。ゴミ箱からも消去し、復元ソフトでも容易には戻せないように徹底的にワイプをかけた。
次に、メールシステムの自動転送設定を解除する。
実は、レイナ宛てに来る重要なメールの一部は、俺のアドレスにもBCCで届くように設定されていた(もちろん彼女の依頼で)。彼女が見落としがちな重要案件を俺がチェックし、「あの件、返信した? 文面作っておこうか?」とフォローするためだ。
その設定をオフにする。これで、彼女のメールボックスは彼女だけのものになる。重要な連絡を見落とそうが、返信期限を過ぎようが、俺の知るところではない。
さらに、俺は自分のPC内にある「作成者メタデータ」のログを抽出した。
これは、どのファイルがいつ、誰のPCで作成・編集されたかを記録したデジタルの証拠だ。レイナが「自分で作った」と主張しているファイルの9割以上が、実は俺のユーザーIDで作成され、最終更新も俺によって行われていることが、このログを見れば一目瞭然となる。
俺はこれらのログをCSVファイルに書き出し、『Evidence_Log』というファイル名で保存した。これは将来、彼女が責任を俺になすりつけようとした時のための、絶対的な防御壁であり、最強の矛となる。
「……よし」
一通りの作業を終え、俺は小さく息を吐いた。
これで、俺と彼女を繋いでいた業務上のパイプラインは全て切断された。
今この瞬間から、氷川レイナは「誰の助けも借りずに完璧な成果を出し続けるエース社員」という虚像を、文字通り独力で維持しなければならなくなる。
午後三時。
手元のスマートフォンが短く振動した。
画面を見ると、ブロックしたはずのレイナからのメッセージ……ではなく、社内チャットツールでの連絡だった。社内ツールまではブロックできない。
『レイナ:ねえ、共有フォルダの「過去案件_分析データ」が見当たらないんだけど? プロジェクトの参考資料に使いたいから、早く元の場所に戻しておいて』
文面からは、当たり前のように俺が対応すると思っている傲慢さが滲み出ている。
彼女はまだ気づいていない。俺が「別れる」と言った時、それが単なる恋愛関係の解消だけでなく、彼女のキャリアを支えていた基盤そのものの撤去を意味していたことに。
俺はそのメッセージを既読にしたまま、返信せずにウィンドウを閉じた。
以前なら、即座に「ごめん、整理してた。ここにあるよ」とリンクを送っていただろう。
だが、もうその必要はない。
彼女は「凡人」である俺を捨て、「有能」な剛田を選んだのだ。ならば、その有能な婚約者に頼めばいい。もっとも、剛田に過去の分析データなど作れるはずもないが。
「東雲さん、ちょっといいですか?」
隣の席の後輩社員が、心配そうに声をかけてきた。
「あ、はい。何?」
「いえ、その……大丈夫ですか? あの二人、大っぴらに発表しちゃって……東雲さんの気持ちを考えると、俺まで腹が立ってきて」
彼は俺とレイナの関係を知っている数少ない人間の一人だ。俺が裏でどれだけ彼女を支えていたかも、薄々は感づいているようだった。
「気にかけてくれてありがとう。でも、大丈夫だよ」
「本当ですか? 無理してませんか?」
「ああ。むしろ、肩の荷が下りた気分だよ」
俺は嘘偽りなく微笑んだ。
その笑顔を見て、後輩は少し驚いたような顔をしたが、やがて安堵したように頷いた。
「ならいいんですけど……。あ、そういえば、さっき氷川さんが廊下ですごく不機嫌そうな顔でスマホいじってましたよ。『なんでファイルがないのよ』って独り言言ってて、怖かったです」
「へえ、そうなんだ」
俺は他人事のように相槌を打った。
彼女の焦燥は、まだ始まったばかりだ。
ファイルが見つからないのは序の口。これから彼女は、企画書のテンプレートがないこと、市場調査の生データがないこと、そして何より、自分の頭の中に「中身」がないことに直面することになる。
定時のチャイムが鳴った。
いつもなら、ここからが俺の「第二の業務」の時間だった。レイナが残していった仕事を片付け、翌日の会議資料を作り、彼女が飲み会から帰ってくるのを待ちながら修正作業をする時間。
だが今日は違う。自分の業務は全て定時内に終わらせている。
俺はPCをシャットダウンし、鞄を持って立ち上がった。
「お疲れ様です。お先に失礼します」
周囲の社員たちが驚いた顔をする。
「えっ、東雲さん、もう帰るんですか?」
「珍しいですね、いつも一番最後まで残ってるのに」
「ええ、これからはプライベートの時間も大切にしようと思いまして」
そう言い残して、俺はオフィスを後にした。
エレベーターホールに向かう途中、遠くの会議室からレイナの怒声が聞こえた気がした。
「どうなってるの! データがないと何も始められないじゃない!」
ヒステリックに叫ぶその声は、かつて俺が愛した女性のものとは思えないほど醜く響いた。
だが、今の俺にはただの騒音でしかない。
エレベーターに乗り込み、一階のボタンを押す。
扉が閉まり、オフィスの喧騒が遮断される。
静寂の中で、俺はポケットからスマートフォンを取り出し、画面に映る自分の顔を見た。
そこには、久しぶりに晴れやかな表情をした、一人の男が映っていた。
ビルの外に出ると、空は茜色に染まり始めていた。
風は少し冷たいが、どこか心地よい。
俺は大きく深呼吸をし、駅とは反対方向にある、以前から行きたかったが時間がなくて行けなかったバーの方角へと歩き出した。
復讐劇の幕は上がった。
俺は何もしない。ただ、今までしていたことを「やめる」だけ。
それだけで崩壊する砂上の楼閣を、特等席で眺めさせてもらおう。




