第1話 寄生する女王と影の断絶
会場を包み込む万雷の拍手が、鼓膜を心地よく震わせる。シャンデリアの煌めきが反射するグラス、着飾った社員たちの高揚した表情、そして何より、ステージの中央でスポットライトを浴びている一人の女性の圧倒的な存在感。それらすべてが、今宵の主役のために用意された舞台装置のようだった。
「株式会社クロノス・ソリューションズ、年間MVPは……第一営業部、氷川レイナさんです!」
司会者のアナウンスと共に、どっと歓声が湧き上がる。俺、東雲慧は、会場の隅にあるドリンクカウンターの近くで、その光景を静かに見つめていた。
ステージ上のレイナは、深い真紅のドレスを完璧に着こなし、自信に満ちた微笑みを湛えている。その姿は「才色兼備のジャンヌダルク」という社内の異名にふさわしい、神々しささえ感じさせるものだった。
「ありがとうございます。この賞をいただけたのは、決して私一人の力ではありません。チームのみんな、そして何より、常に高い目標を掲げ続けるこの会社の風土があったからこそ、私は挑戦し続けることができました」
マイクを通して響く彼女の声は、透き通るように美しく、それでいて芯の強さを感じさせる。会場中の視線が彼女に釘付けになり、多くの男性社員が陶酔したような目で彼女を見つめ、女性社員たちは憧憬と嫉妬の入り混じった溜息を漏らす。
完璧なスピーチだ。
間も、抑揚も、言葉の選び方も。
それもそのはずだ。そのスピーチ原稿を書いたのは、他ならぬ俺なのだから。
昨晩、深夜三時までかかって推敲を重ね、彼女の強気なキャラクターと、謙虚さを演出したい役員受けの良さとのバランスを調整した文章。それを彼女は、一言一句違わず、あたかも自分の言葉であるかのように読み上げている。
「さすが氷川さんだよな。あのプレゼン力、うちの部にも欲しいよ」
「企画の中身も鋭かったしね。新規開拓のロジック、あれ誰が考えたんだろ。天才的じゃない?」
近くにいた他部署の社員たちが、グラスを片手にそんな噂話をしているのが耳に入った。
天才的。その言葉に、俺は手元の炭酸水を一口含んで、苦笑いを噛み殺す。
その「天才的なロジック」を構築するために、俺がどれだけの市場データを洗い出し、競合他社の分析レポートを読み漁ったか、彼らは知る由もない。
レイナが評価されることは嬉しい。彼女は俺の婚約者であり、学生時代から支え続けてきた大切なパートナーだ。彼女が輝くためなら、俺はどんな労力も惜しまないつもりだったし、これまでもそうしてきた。
俺は目立つことが好きではない。企画部の一社員として、裏方でデータを弄っている方が性分に合っている。だから、華やかな舞台は彼女に任せ、俺はその土台を支える影に徹する。それでいいと、ずっと思っていた。
しかし、今日のこの胸のざわつきは何だろうか。
スポットライトを浴びて喝采を受ける彼女を見ていると、ふと、自分が透明人間になったような錯覚に陥る。彼女の隣に並び立つ資格など最初からなかったかのように、世界が俺を認識していないような感覚。
「……おめでとう、レイナ」
誰にも聞こえない声で呟き、俺は空になったグラスをテーブルに置いた。
表彰式が終われば、今日は二人で食事に行く約束をしている。彼女の希望で、予約が半年待ちと言われる高級フレンチレストランを押さえてある。もちろん、予約の手配をしたのも、キャンセル枠が出るのを粘り強く待ったのも俺だ。
今夜は彼女の受賞祝いであり、そして俺たちが付き合って五年目の記念日でもある。プロポーズをしてから一年、そろそろ具体的な入籍の話もしなければならない。
ステージ上のレイナが、ふとこちらに視線を向けた気がした。
俺は小さく手を振ろうとしたが、彼女の視線は俺を通り越し、会場の前列に座る役員席の方へと流れていった。その先には、経営戦略室のリーダーである剛田猛が座っている。上昇志向の塊のような男で、最近特にレイナとの共同プロジェクトを画策していると噂のエリートだ。
剛田がワイングラスを掲げると、レイナは艶やかに微笑み返し、小さく会釈をした。
その一瞬のやり取りに、俺の胸の奥で黒い染みが広がるような違和感が走った。
ただの同僚としての挨拶にしては、あまりにも親密で、そして共犯めいた空気が漂っていたからだ。
考えすぎだ、と自分に言い聞かせる。レイナは仕事熱心だから、有力な社内政治力を持つ剛田に敬意を払っているだけだろう。
俺たちはもうすぐ家族になるのだ。そんな疑念を持つこと自体が、彼女への裏切りになる気がした。
表彰式が終わり、会場が自由な歓談の時間に移ると、俺は人混みを縫ってレイナの元へ向かおうとした。しかし、彼女の周りには常に何重もの人の輪ができており、俺のような地味な社員が割って入る隙間などなかった。
結局、俺は会場の外で彼女を待つことにした。
冷たい夜風が火照った頬を撫でる。ビルのエントランス付近で待っていると、ようやくレイナが出てきた。肩にはブランド物のショールを羽織り、手には大きな花束を抱えている。
「待たせてごめんね、慧。挨拶回りが長引いちゃって」
彼女の声は弾んでいたが、その瞳は俺を見ていなかった。通り過ぎるタクシーを探すように、視線はせわしなく道路の方を向いている。
「すごい人だったね。改めて、MVPおめでとう」
「ありがとう。まあ、当然の結果よね。あのプロジェクトには私の全てを注ぎ込んだんだから」
彼女は事もなげにそう言った。
「私の全て」。その言葉に、俺は喉元まで出かかった言葉を飲み込む。
あのプロジェクトの企画書を一から書き上げ、採算性のシミュレーションを行い、トラブルが発生した際の代替案まで用意したのは誰だったか。彼女が美容室に行っている間に、俺が泣きながら修正したプレゼン資料のことを、彼女はもう忘れてしまったのだろうか。
「タクシー、来たわよ。行きましょう」
俺の返事を待たずに、彼女は止まったタクシーに乗り込む。
俺も慌てて後に続いた。車内の閉鎖的な空間に入ると、彼女のつけている高級な香水の香りが鼻腔を満たす。それは以前、俺がプレゼントしたものではなく、最近彼女が自分で選ぶようになった、よりスパイシーで挑発的な香りだった。
「予約の時間、ギリギリになっちゃうかもね。慧、お店に連絡入れた?」
「ああ、さっき入れておいたよ。少し遅れるかもしれないけど大丈夫だって」
「そう。気が利くじゃない」
まるで部下を褒めるような口調。
彼女はすぐに鞄からスマートフォンを取り出し、画面に見入り始めた。SNSの通知が鳴り止まないのだろう。画面をスクロールする指先は高速で動き、時折満足そうに口角を上げている。
「すごい反響。MINEもTwotterも、私のお祝いメッセージで埋め尽くされてるわ。あ、部長からも個別に連絡が来てる」
彼女は俺との会話よりも、画面の向こうの称賛に夢中だった。
窓の外を流れる都会の夜景を眺めながら、俺はふと、二人の距離が物理的な距離以上に離れてしまったことを実感していた。
昔の彼女は違った。もっと素朴で、俺の些細なサポートにも「ありがとう、慧のおかげだよ」と心から感謝してくれていた。それがいつからだろうか。彼女が社内で評価され、出世階段を上り始めるにつれて、彼女の中で「自分の実力」と「俺のサポート」の境界線が曖昧になり、やがて完全に混同されるようになったのは。
タクシーは都心の超高層ビルの前で止まった。
エレベーターで最上階へと上がり、重厚な扉を開ける。そこには、地上とは隔絶された優雅な空間が広がっていた。窓一面に広がる宝石箱のような夜景、静かに流れるピアノの生演奏、そして洗練されたギャルソンたちの身のこなし。
案内された席は、東京タワーが正面に見える特等席だった。
レイナは慣れた様子で席に着き、メニューには目もくれずにシャンパンをオーダーする。
「乾杯しましょう。私の輝かしい未来に」
彼女が掲げたグラスに、俺も自分のグラスを軽く合わせる。
カチン、と硬質な音が響く。
「……あと、俺たちの五年目の記念日にも」
俺が付け加えると、レイナは「ああ、そうだったわね」と、ついでのように言った。その反応の薄さに、胸の奥が冷える。
コース料理が運ばれてくる間、レイナの話はずっと仕事のことばかりだった。次のプロジェクトがいかに大規模か、自分がどれほど期待されているか、役員たちが自分の意見にどう耳を傾けたか。
そこには「私たち」という主語はなく、常に「私」だけが存在していた。
「ねえ、慧。次の『プロジェクト・エクリプス』のことなんだけど」
メインの肉料理にナイフを入れたところで、彼女が唐突に切り出した。
「ああ、社運を賭けたっていうアレか」
「そう。私がリーダーを任されることになりそうなの。でね、そのための準備資料なんだけど、今週末までにまとめておいてくれない?」
「今週末? それはちょっと厳しいな。俺も自分の部署の決算処理があるし……」
「何言ってるの? あなたの部署の仕事なんて、誰でもできるルーチンワークじゃない。私のプロジェクトの方が優先順位が高いに決まってるでしょ」
彼女はナイフを止めて、信じられないものを見るような目で俺を見た。
その瞳には、純粋な疑問と、隠しきれない侮蔑が混じっていた。
「でも、これは俺の業務外だし、もしバレたらコンプライアンス的にも……」
「バレなきゃいいのよ。今までだってそうしてきたじゃない。あなたが地味な作業をして、私がそれを華麗にプレゼンする。それが一番効率的で、会社のためにもなる完璧な分担作業でしょ?」
分担作業。
彼女にとって、俺の献身は単なる「作業」であり、二人の関係性を維持するためのシステムの一部でしかないようだった。
俺は言葉を失い、ただ目の前の冷めていく肉料理を見つめた。
彼女は、俺が自分のキャリアのために犠牲になることを当然だと思っている。そして、その犠牲の上に成り立っている自分の評価を、疑いようのない自分の実力だと信じ込んでいる。
「……分かった。何とかするよ」
結局、俺はそう答えるしかなかった。ここで断れば、彼女の機嫌を損ね、せっかくの記念日が台無しになる。そう思う自分自身の弱さが情けなかった。
満足そうに頷くと、レイナは再び食事を進め始めた。
デザートが運ばれてくる頃には、会話は途切れがちになっていた。
俺は何とか空気を変えようと、プロポーズの話題、つまり入籍の時期について切り出そうとした。
「レイナ、そろそろ結婚式の時期とか、具体的に考えないか? 両親も挨拶に来てほしいって言ってるし……」
俺の言葉を聞いた瞬間、レイナの手が止まった。
彼女はナプキンで口元を拭うと、ゆっくりと顔を上げ、俺を真っ直ぐに見据えた。その瞳は、先ほどまでの自己陶酔的な熱を失い、氷のように冷徹な光を帯びていた。
「慧。ちょうどいい機会だから、はっきり言わせてもらうわね」
嫌な予感が背筋を駆け上がる。心臓の鼓動が早くなり、周囲の音が遠のいていく。
「私たち、もう終わりにしましょう」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
終わり? 食事が? それとも……。
「……え?」
「婚約、解消したいの」
あまりにも淡々とした口調だった。まるで、今日の天気の話でもするかのような気軽さで、彼女は俺たちの五年間の関係に終止符を打とうとしていた。
「どうして……急に。何か俺、悪いことしたか?」
「悪いことなんてしてないわ。あなたはいい人よ。優しくて、尽くしてくれて、文句も言わずに私の面倒を見てくれた。家政婦としては優秀だったわ」
「家政婦……?」
「でもね、慧。あなたは地味すぎるのよ」
彼女は溜息交じりに首を横に振った。
「これからの私は、もっと上のステージに行くの。役員を目指して、会社の経営にも関わっていくわ。そんな私の隣に立つパートナーとして、あなたの経歴じゃ釣り合わないの。万年平社員で、目立つ功績もない、ただ真面目なだけの男。そんな人と結婚したら、私のブランドに傷がつくわ」
ブランド。
彼女にとって、結婚相手とは自分の価値を高めるためのアクセサリーでしかないのか。
俺の頭の中は真っ白になり、怒りよりも先に、呆れにも似た虚無感が広がっていく。
「それに、私にはもう心に決めた人がいるの」
彼女は頬を上気させ、うっとりとした表情で言った。
「剛田さんよ。剛田猛さん」
表彰式で彼女が視線を送っていた相手。
予感はあった。だが、それを本人の口から聞かされると、やはり胸が抉られるような痛みがあった。
「彼なら申し分ないわ。若くして経営戦略室のリーダーで、社内の評価も高い。彼と結婚すれば、社内でも最強のカップルとして注目される。私たちは、お互いを高め合える“パワーカップル”になれるのよ」
彼女は夢見る少女のように語った後、現実的な視線を俺に戻した。
「だから、慧。あなたはもう不要なの。これからは剛田さんが私を支えてくれるし、あなたは自分の身の丈に合った人と一緒になればいいわ」
俺は深呼吸をして、震える手を膝の上で握りしめた。
怒鳴り散らしたい衝動はあった。「お前の実績は全部俺が作ったものだろう」「剛田がお前の中身のなさを知ったらどう思うか」と言い返してやりたかった。
だが、彼女の瞳を見て、その言葉はすべて霧散した。
彼女は本気で信じているのだ。自分の成功は自分の才能によるもので、俺がいなくても何も変わらないと。俺の存在など、取り替え可能な部品の一つに過ぎないと。
そんな人間に、何を言っても無駄だ。
長年積み重ねてきた情が、音を立てて崩れ落ち、あとには冷たく乾いた砂漠のような感情だけが残った。
「……そうか。分かったよ」
俺の返答があまりに静かだったからか、レイナは少し拍子抜けしたような顔をした。もっと縋り付かれるとでも思っていたのだろう。
「分かってくれて嬉しいわ。やっぱり慧は物分かりがいいわね」
「ああ。君の幸せを願ってるよ」
嘘ではなかった。彼女が自分の選んだ道で、自分の実力だけで生きていけるのなら、それはそれでいい。ただ、その道が茨の道であることを、彼女はまだ知らないだけだ。
「それじゃ、今日はこれで。この後の支払いは私が持っておくから、手切れ金だと思って」
彼女は勝ち誇ったように伝票を手に取ると、颯爽と立ち上がった。
俺は何も言わず、ただ静かに席を立った。
レストランを出て、夜の街へと降り立つ。
喧騒とネオンが、今の俺にはひどく空虚に感じられた。
ポケットの中でスマートフォンが振動する。見ると、レイナからのMINEだった。
『さっきの話だけど、今週末の資料作成は約束通りお願いね。それが最後の手向けってことでよろしく!』
スタンプ付きの軽いメッセージ。
婚約を破棄しておきながら、それでもなお、俺の労働力を搾取しようとする厚顔無恥さ。
俺は画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
怒りではない。悲しみでもない。
ただ、憑き物が落ちたような、奇妙な清々しさがそこにあった。
俺はスマートフォンの画面を操作し、彼女の連絡先設定を開く。
そして、迷うことなく「ブロック」のボタンをタップした。
さらに、クラウドストレージにアクセスし、共有フォルダの権限設定画面を開く。
『レイナ_共有フォルダ』
そこには、過去数年分の企画書、分析データ、プレゼン資料の下書き、彼女のメール返信用の定型文リストなど、彼女の業務を支えてきた全てのデータが入っている。
俺は静かに「共有解除」を選択し、さらに自分側のアクセスログを保存する設定をオンにした。
「……さようなら、レイナ」
夜空に向かって呟く。
それは、かつて愛した女性への別れの言葉であり、同時に、影として生きてきた自分への決別の言葉でもあった。
俺の手の中で、業務停止のスイッチは押された。
明日から始まる日常が、彼女にとって、そして俺にとって、劇的に変わることを予感しながら、俺は一人、帰路についた。




