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水底の囁き

作者: Green Rabbit


 真夜中、雨音だけが響く古びた家で、私はヘッドホンを装着し、マイクに向かった。

 今夜は、ラジオ番組「眠れない夜の怪談」の収録日だ。


 テーマは「水」。プロデューサーからは「リスナーがギリギリ眠れなくなる程度の怖さで」と注文が入っている。


 私は深呼吸し、語り始めた。


 「今からお話しするのは、私の友人が体験した、ある夏の日の出来事です。彼女の名前は美咲。水が嫌いでした。いえ、嫌いというよりも…恐れていた、と言った方が正確かもしれません」


 美咲の家は、町の外れ、小さな川のすぐそばにあった。

 子供の頃、夏になると近所の子供たちが川遊びに興じる中、美咲だけは決して水に近づこうとしなかった。


 大人になった今でも、雨の日には外出を控え、自宅の風呂に湯を張る際も、水位が足首を超えるだけで顔色を変えるほどだった。


 「ある年の夏、異常なほどの猛暑が続きました。記録的な水不足で、美咲の家の近くを流れる川も、見る見るうちに水量を減らしていったそうです」


 私は語る。美咲がどれほどその川を、底知れぬ恐怖の対象として見ていたかを。

 彼女にとって、水は常に「そこにある」不気味な存在だった。


 「美咲は言いました。『ねぇ、ユウキ。あの川、見てよ。どんどん、痩せ細っていくの。まるで、何かに吸い取られているみたい』」


 私は美咲の声を真似て、少し震えるように言った。


 美咲の言う通り、川の水位は異常な速度で下がっていった。

 河原には普段見られないような岩肌が露出し、川底のぬかるみが乾いてひび割れていく。


 「ある日、美咲から電話がかかってきました。『ユウキ、大変なの! 川の、一番深いところ……あそこが、見えるようになったの!』」


 彼女の声は興奮と恐怖で上ずっていた。

 私はすぐに美咲の家へ向かった。


 川の様子は確かに異常だった。普段は深い淵となっていた場所が、今はほとんど干上がって、黒い泥の底が見えていた。


 「美咲は震える声で呟きました。『あそこ…あそこに、何かいる。見えるの、私にだけ…』」


 私は思わず息を呑む。


 ラジオの向こうのリスナーも、同じように息を潜めていることだろう。


 美咲が指差す先には、泥と藻に覆われた、不気味な塊があった。

 それはまるで、長年の間に沈んだ何かが、今、姿を現したかのようだった。


 しかし、それは何かの残骸のようでもあり、生き物のようでもあった。


 「美咲は、その塊から、微かに声が聞こえると言いました。『こっちへ…こっちへおいで…』って」


 私は声をひそめ、ささやくように続けた。


 美咲はその日以来、川のほとりから離れられなくなった。

 夜になると、その声は一層はっきりと聞こえるようになり、美咲はその声に誘われるように、夜な夜な川へ向かうようになった。


 「私は何度も美咲を止めました。『美咲、やめて! あれは危険だよ!』って。でも、彼女はまるで憑かれたように、私の言葉を聞き入れなかったんです」


 ある晩、私は美咲の後を追った。

 満月がぼんやりと川面を照らし、不気味な光景を作り出していた。


 美咲は干上がった川底へと降りていき、あの黒い塊に近づいていく。


 「その時、私ははっきりと聞きました。あの塊から、微かな、しかし確かに聞こえる水の音を。それは、水が滴る音…いや、もっと粘りつくような、重い音でした」


 美咲は塊に手を伸ばした。

 

 その瞬間、私は信じられない光景を目にした。干上がっていたはずの川底に、あの塊を中心に、ゆっくりと水が湧き出し始めたのだ。


 「水は、黒く、粘り気のある液体でした。まるで、油のようにも見えました。そして、その黒い水が、塊の周りを満たしていくと同時に、あの声が、どんどん大きくなっていったんです」


 美咲は、その黒い水の中に、ゆっくりと身を沈めていった。

 水は彼女の足首、膝、そして腰へと上がっていく。


 彼女の表情は、どこか恍惚としていた。


 「私は叫びました。『美咲! 何してるの!? やめて!』って。でも、彼女はもう、私の方を振り向きもしなかった」


 黒い水は、あっという間に美咲の胸元まで達し、そして、ゆっくりと彼女の顔を覆い隠そうとしていた。


 「その時、美咲が、かすかに笑ったように見えました。そして、その口から、信じられない言葉が漏れました。『やっと…見つけた。私の…居場所』」


 私はヘッドホンを外し、マイクから顔を上げた。


 スタジオには、静寂が満ちていた。プロデューサーは青ざめた顔で私を見ていた。


 「そして、次の日の朝、美咲の姿はどこにもありませんでした。あの川も、一夜にして元の水量を回復し、何事もなかったかのように、滔々と流れていました。ただ…」


 私は一拍おいて、最期の言葉を紡ぎ出した。


 「ただ、あの川の底をよく見ると、時折、美咲の面影が、水底に揺らめいているように見えることがある、と…」


 私はマイクをオフにした。ラジオの向こうで、何人のリスナーが、今夜、眠れぬ夜を過ごすだろうか。

 そして、何人が、水を見るたびに、私が見た「美咲の面影」を思い出すだろうか。


 私は確信していた。


 美咲は、あの黒い水と同化し、永遠に川の底にいるのだ。




 水は、彼女の恐怖であり、同時に、彼女を飲み込んだ「居場所」だったのだ。


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