7 入らないんですか?
「なにもいないのなら、それが一番です。良いことじゃないですか」
すっかり意気消沈した椿に、保科はあたたかいコーヒーを淹れてくれた。連日の真夏日で、夜でも昼間の熱をはらんだままの外と違い、マンションの内部は不思議なほどひんやりしていた。さらにエアコンをつけた室内では、あたたかい飲み物がここちよく感じる。
「呪われた部屋だ、なんていわれたらどうしようかとおもってました。やはりただの気のせいか、それとも昨日の現象が最後で、もう出ていってしまったのかもしれませんね」
保科の視線につられて部屋のドアを振りかえる。そばにダークブラウンの本棚があった。たしかにそこまで移動したとするなら、ドアまではあとわずかだ。
(テーブルや本棚にぶつかりながら進むことしかできないのに、ドアを開けた形跡を残さずに出ていけるだろうか……)
想像していたのは、本棚の横に佇む男性の姿だ。深夜、保科が眠っているあいだだけ少しずつ前進し、朝になるとまた動きをとめる。そして夜になるまでじっとそこに立っている。そんな存在があるのではないかと。しかしどうがんばっても、椿には気配すら感じられなかった。
本棚は胸の高さくらいの小型のもので、四段に仕切られた棚には、雑誌や単行本のほかに、動物のミニチュアフィギュアが飾られていた。保科はもうこだわっていないようすで「そのフィギュア、ペットボトルのおまけなんですよー」と他愛のない話をはじめた。それを好都合とは、どうしてもおもえなかった。
「あの、またあとでうかがっても良いでしょうか」
ぼそっと落とした言葉に彼は首をかしげた。なにかをいおうとしたようだったが、それをさえぎってつづけた。
「保科さんのお話では、朝に限って気づく違和感とのことでした。夜であっても目を覚ましていればなにも起こらない。日中、家を留守にして帰ったときも同様だと」
保科がうなずく。「でしたら」必死のおもいで椿はいった。
「ずっと部屋にいるものではないのかもしれません。夜中か明け方、保科さんが眠っているあいだにあらわれるのかも……。どこか……ファミレスなんかがあればそこで待機していますから、保科さんにはいつもどおりベッドで眠っていただいて、頃合いを見計らってまたお邪魔させてもらいたいんです。もしよければ部屋の様子をモニターすると……か……?」
威勢よく話しはじめた椿だったが、最後には疑問形になってしまった。保科の顔がみるみる感動に満ちていくのに気づいたからだ。
「そこまで真剣に考えてくださるなんて……!」
感慨無量、といった風に、彼は瞳を輝かせた。
「お恥ずかしいです。まあいいか、と流すクセを反省したはずが、またいつものように見過ごそうとしていました。ぼくも覚悟を決めて、徹底的に取り組みます。井ノ瀬さん、ぜひご協力お願いします!」
「は、はい、もちろんです。では、わたしは一度外へ出ますので……」
それに保科は「とんでもない」と応じた。
「夜に女性をひとりで歩かせるわけにはいきません。どうぞこのまま部屋にいてください。えーっと……、そうか、お風呂とか入っておきたいですよね。来客用のものがなにもないんですが、近所にショッピングセンターがあるので……、あ、閉店まであと三十分しかない。とりあえず行きましょう!」
「えっ? は、はあ」
勢いに飲まれて、頭のなかをハテナマークでいっぱいにしながらも、椿は最低限必要な洗面用具を買いそろえた。首をかしげつつ順番にシャワーを使い――迷いながらもパジャマを拝借して――就寝の準備がすっかりととのったころ、保科の妙なハイテンションは……急降下していた。
「じゃあ、電気を消しましょーか……」
半分閉じかかった目でベッドに入る姿を、椿は床に座ったまま見送った。
(もしやあの凄まじい勢いは、徹夜明けの謎テンションだったのでは……)
時刻は夜の十一時。さすがに体力も限界なのだろう。
(たしかに保科さんの立場で、女性を家の外に出して自分ひとりベッドで寝るのはむずかしいかも。となると……彼の予想どおりドアを出ようとしているとしたら、ドアの向こう側で待機というのが、普段の状況にいちばん近くなるかもしれない)
かんがえをめぐらせていると、肌掛けふとんの端をすこしめくりあげて、保科が不思議そうにいった。
「入らないんですか?」
(は、はい……!?)
衝撃的な提案に、椿は言葉を発することができず、固まってただ口をぱくぱくさせるしかなかった。
「いつもは一時過ぎにベッドに入るので、なにかがあらわれるならそれ以降だとおもいます。せめて仮眠をとってください。……ああ、朝まで眠ってしまいそうで心配ですか?」
「い、いえ……、むしろ、眠れないでしょうね」
「なんだ、それなら好都合じゃないですか……」
とろんとした目でふにゃりと笑う。椿は期待に胸が甘くうずくのを感じた。
(誘われてるとか、そういうことではないよね……? ベッドに入ったとたん組み敷かれて「こんな手に引っかかっちゃだめですよ」なんて――って、待ってそれちょっとアリじゃない……?)
「警戒されるのも、無理はないですよね」
「……はっ。あ、いえ、警戒というか、その、妄想が暴走を」
「でもだいじょうぶですよ。ぼくが手を出さなければ、間違いは起こらないので!」
「……んん?」
安心してくださいっ、と一点の曇りもない目ですがすがしくいいきられてしまった。
(保科さんが手を出さなければ……、なるほどそれは、たしかに、そのとおり)
複雑なきもちだったが、こうもきっぱりと断言されては反論の余地はなく、これ以上ひとりで意地を張りつづけるのもばかばかしくなってきた。
「あはは、ですよねー」
椿は照明を消して「では、ちょっとだけおじゃましまーす」となかば投げやりにベッドに入ると、保科と壁のあいだにからだを横たえた。
(わたしさえ意識しなければいい。どうせ保科さんはなんともおもってないんだから。どうせ、どうせね)
しかしそんな強がりは一瞬で吹き飛んだ。大人ふたりにセミダブルは意外とせまく、横向きにならなくては肩がふれあってしまう。壁側を向き、できる限り壁に身を寄せていても、背中にほんのりとぬくもりを感じる距離だった。緊張で身じろぎもできない。
ほんの数時間といえ、とうてい耐えられるものではなく、やっぱり部屋の外で待たせてもらおう、と決心したとき、背後から寝息が聞こえてきた。
(……はやっ)
そっとからだを回転させて保科のほうを向いてみる。その動きにもまったく反応をみせない。完全に寝入ってしまったようだ。
動揺しているのは自分だけなのだとみせつけられているようで、釈然としないおもいではあったが、目のまえの光景にすぐさま考えをあらためた。こんなに無防備な寝顔をみせられては、すべてを許してしまうほかない。遠慮なく間近でじっくり眺めていられる貴重な機会ととらえるなら、願ってもないことなのだった。
(いつも笑顔でやわらかな印象だけれど、あごのラインはシャープで、喉仏もくっきりと浮き出てる。男のひと、なんだよなあ……)
あのなんともいえず魅力的な笑顔は、いったいどう形づくられるのだろう。それは、二年間ずっと抱いていた疑問だった。
はじめてマネージャーとして配属されるにあたり、先輩たちからは、さまざまなアドバイスを受けた。母親のように社員の立場に寄り添ってフォローするべき。また、父親のように顧客の立場から社員を指導するべきとも。
情報を詰めこみ、がちがちになった頭で初日を迎え、はじめて出会った社員が保科だった。あいさつを交わしたあとにみせたあの笑顔。自分も他人もなくすべてをまるごと包みこむ、日だまりのような――。その瞬間、なにかが脱け落ちたようにからだがふっと軽くなった。ずっと探していたものをようやくみつけたような気がした。
(わたしにとって導きの極星は、保科さんの笑顔だった)
指導を受けて身につけた、好印象を抱かせる笑顔。そんなものでは到底太刀打ちできない。どうしたら保科のようになれるのか、こんなとき保科ならどうするだろう。つねに頭の片隅にあった彼の存在が、なんども椿を支えてくれた。おもえばずっと保ち続けた保科との距離は、理想像を崩したくない願望のあらわれだったかもしれない。
出会いにおもいをめぐらせながら、椿の指は無意識に伸ばされていて、保科の前髪にふれる直前で我に返った。とたんに鼓動の高まりを意識する。
(わ、わたしってば、どさくさにまぎれてなにしてるの。……でも、ほら、まあ、最初で最後だろうし、ちょっとくらいなら……、って、いやいや……)
しばらくのあいだ椿は指を所在なくさまよわせていたが、やがて決心して遠慮がちに前髪の一房を軽くにぎった。
ふわり、とやわらかな感触。曲線をつくるクセ毛も、やや色素の薄い夕焼け色の髪も生まれつきらしく、猫っ毛なんです、と照れたようにいった声をおもいだす。自然と顔がほころんで、あたたかいきもちになった。
ちらりと奥村の不安げな瞳が脳裏に浮かぶ。だいじょうぶ、違うからね、と椿は想像のなかの彼女を励ました。
(いまさら、恋人の立場なんて望んでない。ただこのひとに対して誠実でありたい。役に立つ人間でありたい。どうか、今夜も例の現象が起こりますように……)
こっそりと椿は祈った。〈ひとではないもの〉に、あらわれてほしいと願ったのははじめてのことだった。