4 ずるいですよ、保科さんのそれは
サロンの受付カウンターは一角を半円状に囲うようにしつらえられており、内側のスペースにスタッフ用のコピー複合機が設置されている。いくつかのバリエーションはあるものの、そのかたわらに女性が立っている、というのがウワサの大筋だ。
閉店後のうす暗い室内。かろうじて判別できるうしろ姿は、背中までまっすぐに伸びた黒髪が印象的で、身につけているのはサロンの制服だ。スタッフのだれかだろうと声をかけると、とつぜんコピー機が作動する。上部の原稿カバーは開かれたままで、むき出しになったスキャナのガラス面が連続的にひかりを発する。それはストロボスコープの役目をし、ゆっくりと振りむくその女性の動きをコマ送りのように切り取って――。
「み、みたんですか」
「ウワサのコピーさんとはだいぶ違うんですが、その、人影のようなものを……」
椿が声を出せずにいると、保科は困ったような表情で視線をテーブルに落とし、やや小声になっていった。
「以前、サロンスタッフ内でコピーさんがらみの問題が起こったのは知っています。あのときは、井ノ瀬さんが対応したんですよね」
椿はだまったままうなずいた。
まだサロンに配属されたばかりのころだ。ある女性スタッフがコピーさんのウワサに怯えて体調を崩し、欠勤しがちになっていた。ふだんがどちらかというと豪胆なキャラクターだったこともあって、怖がる姿を周囲におもしろがられてしまい、それが拍車をかける結果となった。
(はじめて直面した大きな社内トラブル。どうにか解決しようと必死だった)
戻ってきたりして、コピーさん。
さっきまで冗談でしかなかったひとことが、急に重みを増してくる。
「聞かせてください」
話の先をうながされて保科は顔をあげ、記憶を整理するように沈黙したあと、ゆっくりと語り出した。椿はそれにじっと耳を傾けた。
「四日前、金曜の夜のことです。胸ポケットに挿していたペンが見当たらなくて、サロンに置き忘れたかもしれないと探しに行きました。するとコピー機のそばに人影があった。暗くてよくみえなかったけれど――ちょっと確認するだけのつもりで、電気をつけていなかったんです――シルエットと背の高さから男性だとおもいました。がくりと頭を下げてうなだれているようだった。声をかけると、返事はないものの身動きして……こちらを向いたふうでした。電気をつけますね、ともう一度話しかけてからスイッチをいれ、振りかえるとその人物は消えていました」
「男性……ですか」
「ほんの一瞬みた感じですけどね。コピー機が勝手に動作するなんてこともありませんでしたし、そのときは、なんだ見間違いかとかんたんに片づけたんです」
ですが、と言葉を切って口ごもり、保科はビールを口にふくんだ。そして腕を組んでカウンターにのせ、それに重心をかけるように椿のそばに寄る。トーンを落とした慎重な声でいった。
「次の日から、自宅で妙なことが起こるようになりました」
「妙なこと……」椿も自然と声をひそめていった。「もしかして、ご自宅にも例の男があらわれたとか」
「いえ、姿をみたのはあの夜が最初で最後です。ただ……あの、すみません、たいしたことではないんですけど、部屋が不自然というか、ええと……気になるというか……」
「なんとなく違和感がある、ということですね。それは雰囲気、もしくは見た目の印象でしょうか。それとも匂いや音?」
椿が真面目にこたえると、彼は一瞬意外そうな顔をして――すぐにふにゃりとした笑顔になった。
(……っ)
至近距離でのふいうちに、おもわず椿はたじろいだ。
「だ……だから、ずるいんですよ、保科さんのそれはっ」
動揺を隠しきれなかったくやしさに、理不尽な不満をもらしてしまう。ふだんは防御を固めて反応しないようにつとめているのに、今回ばかりは話に気をとられて油断していた。いっぽう、自分の笑顔の攻撃力を知らない保科は無邪気にはしゃいでいる。
「良かった、笑わないで聞いてもらえて。それだけでちょっと気分が晴れました」
「はは……。それは、なにより……」
(ああもう、落ち着いて。これは仕事、仕事)
咳払いのあと、ええと、と気を取り直していってみる。おもったよりもしっかりとした声が出たのを確かめて、続けた。
「四日前から、とおっしゃいましたよね。その違和感はずっとあるんですか?」
保科はうなずいて、記憶をたどるように目をさまよわせた。
「ただ、そう感じるのは朝起きたときだけです。仕事を終えて帰宅したときや部屋にいるあいだは、特に気になることはありません。といってもほんとうに、取るに足らないことばかりで……。たとえば最初の朝はカーテンが中途半端に開いてフックがはずれていました。次の朝にはローテーブルの位置がなにかにぶつかられたように斜めにズレていて、三日目は本棚の本が床に落ちていたんです。まあ、おかしいなとおもいつつも深くは考えていませんでした。そもそもあまり霊のたぐいを信じるほうではないんです。サロンでみた人影や、コピーさんのウワサのこともすっかり忘れていましたし、仮に霊のようなものが起こしている現象だとしても、被害はささいなものですしね」
あっけらかんとした話しぶりに、椿は少なからず安堵した。あくまで冷静そのものであり、二年前の彼女のように、恐怖心に囚われて生活に支障をきたしているなんてことはなさそうだ。
「そして三日目の夜……昨夜ですが、やはり明日の朝も物が動いているのだろうか、その瞬間はどんな光景なんだろう、みてみたい、とおもいたって、ずっと起きていることにしました。電気を消して、ふとんもかぶった状態で、寝たふりをしつつこっそりと。……結局、なにも起こりませんでしたけど」
「そうですか……ふむ……。って、ずっと、起きて……?」
ということは、いま彼は徹夜明けの状態でここにいるということだ。ふだんならありえないミスの原因がわかったような気がした。
「それで今日はいつもとようすが違っていたんですか……」
納得する椿に、保科は意外そうな顔をした。
「表情には出さないようにしていたつもりなのに、気づかれてましたか。さすが社員のことをよくみていらっしゃいますね」
「……ええ、まあ」
(いいえ、ぜんぶ奥村さんからの受け売りで、わたしはまったく気づいていませんでしたっ)
きまり悪く感じながらも、真相はそっと胸の奥にしまっておくことにする。
「さっきサロンでの会話を耳にしてようやく、もしかしたら自分がみたのはあのコピーさんだったのかもしれないとおもいいたりました。でも井ノ瀬さんが祓った、といっていましたよね。それは初耳で……お聞きしたいのはそこなんです」