その7:義兄3
習近平ほどの偉人を前にすれば、空気中に節操なく飛び交う杉の花粉すら、その場で地にひれ伏すであろう
「グ…ク、息が…」
フェルズは喉を押さえるようにしてくずおれた。
『魔王』たる者、軽々に膝を屈するな────
イリスに向かってそう言い放った『魔王』フェルズが今、公太郎の前で膝をついていた。
「使ってみると直感的にわかるんだがー、魔法の火ってのはマナを燃料にして燃えてるんだなー。だからマナを文字列にしてやると、火もその形になるー」
公太郎は指先で文字を形作ってた火を元の火球に戻すと、手を軽く振ってかき消した。
「でもまあ、それ以外は普通なんだよ。マナで燃えてるってとこ以外は、ただの火だー」
「お、お義兄さまっ!!」
不死鳥の魔法が消滅し、うずくまる義兄を見かねて、イリスが叫んだ。
「ハムタロ!!やめてっ!!もう、やめてください!!」
「…心配するな、イリス様ー。フェルズ様はすでに、勘づいてるー」
「えっ!?」
イリスが振り向くと、フェルズはよろめくことなく立ち上がり、一歩ほど前に進み出たところであった。
「クク…クックック。フフ…つまらん手品だ。こうして少し動けば、その効力もなくなる」
「お義兄さま…?」
「だが、豪胆。私の魔法を利用したな?」
一寸前まで地に付しかけていたなどとは微塵も感じさせないほど、フェルズは不敵な笑みを浮かべている。
イリスだけが状況を理解できないまま、二人をきょろきょろと交互に見まわした。
「どういうことです、ハムタロ!?」
「魔法の火はマナを燃やしただけの、ただの火なんですー」
「それは聞きました!」
「俺の世界だとイリス様くらいの年齢で習うんですがー、人が息をする必要があるように、火ってのは燃えるのに空気も要るんですー。正確には空気中の酸素をー」
「さんそ…」
「その者は…」とフェルズがイリスへの説明を受け継いだ。
「『風』魔法で私の周りに空気のドームを作った。ドームで新しい空気を遮断したのだ。その中で私が炎の魔法を使うとどうなる?」
「……だんだん空気が少なくなってしまいます。あ、だからお義兄さまの呼吸が…」
「そうだ」
フェルズのやや武骨な手が無造作にイリスの頭をなでた。その姿に正直、公太郎は虚を突かれた。フェルズの顔は、年の離れた妹を慈しむ兄のそれであったからだ。
「ですが、お義兄さまであれば、たとえ周囲を風魔法が囲ってもすぐお気づきになるのでは?」
「それがこの者の狡いところだ」
フェルズは公太郎へ視線を移し、にやりと口端を上げる。
「イリス、おまえの従者は私を挑発し、会話の中でそれとなく『風』魔法をしこんだ。そして火魔法をことさら意味ありげに操ってみせることで、私の意識がそちらへ向かわぬよう仕向けた…そうだな?」
「はいー。でも実のところ、気づいておられましたよねー?なんというか、俺の勘ですけど、苦しみかたが大げさだったというか…」
公太郎の見解に、フェルズの目が「ほう」といったように見えた。
「フッ…どうかな。それで、ハムタロとやら、この後はどうする?」
「どう…とはー?」
「いずれにせよ、おまえの策は終わり、私はこうして立ち上がった。私が再び、おまえを灰にしようとするとは思わんのか?」
「そのおつもりはないように思えますけどー。もしそうなら、今このタイミングで炎の不死鳥を速攻ぶちこんでますでしょうー?」
「でも」と公太郎は顎に手をやりながら考えるそぶりをする。
「それならそれで、別の策を考えますー。最悪、それも通用しないとなれば、奥の手を切りますかねー」
「奥の手だと?」
「イリス様にお願いして、転移魔法で逃げますー」
「え?」とイリスが振り返った。
「あ、はい。もちろん!まかせてください!」
「仮、の話ですよイリス様ー」
公太郎の提案にイリスは面食らったが、すぐに腕で力こぶを作った。
その姿が愛らしかったのか、フェルズは「クククク」と笑い始めた。
「まあ…いいだろう。おまえは、それなりに能を示した。ハムタロ、妹の従者として一応、合格としてやる」
「合格、いただけますかー」
「フン、私に『試されていた』と察していたかのような口ぶりだな?」
「…そうはいいませんけどー。ちょっと引っかかってたんですー。フェルズ様はおっしゃいましたよね?『今日、従者になったばかりの』ってー」
「ふむ」
「あれで、『見てたんじゃないか』って思ってましたー。王都から、あるいはもっとずっと前から、イリス様のことー」
「フ…、あれは私の失言であったか」
「ええっ!?」とイリスが忙しく、今度はフェルズの方を向いた。
「お、お義兄さまが、ずっとわたしをご覧に!?わたしが失敗したあの時も、転んだあの時も、泣いちゃったあの時も!?そんなっ、ひどいです!!」
イリスは長いエルフ耳のさきっちょまで真っ赤にして、フェルズに抗議しはじめる。
「人をストーカーみたいにいうでない。安心しろ、プライベートまで逐一観察するものか。『魔王』はそこまで暇ではない」
「それは、そう…かもしれませんけど」
「おまえのお婆様に頼まれたのだ。イリスの初旅を見守ってくれとな。私とて、年の離れた妹が人間の都に行くと聞けば、気が気でないのが兄というものであろう」
そこでフェルズは、はじめて深く腰を折り、頭を下げた。
「先ほどはイリス、おまえにひどいことをいったな。演技ではあったが詫びさせてくれ」
「お、お義兄さま…」
「そして従者ハムタロ、おまえには礼を」
フェルズの礼に、公太郎は少々戸惑った。魔王ほどの者から頭を下げられるようなことに心当たりがない。
「王都でおまえは、人間の身でありながら、妹の誇りを護ってくれた」
「……ああ、ギルドでですかー?あれは俺がムカついてやったことなのでー、礼をいわれるような…」
「おまえがそうしてくれなければ、私はあの場の人間全員を灰にするところであった」
顔を上げたフェルズは穏やかな笑顔であった。が、目は言葉通り本当にそうするスゴ味を帯びていたので、公太郎は内心となった。あの時のギルドの人間には、心底感謝してもらいたい。
しかし、それならば。
「あの、フェルズ様。ひとつ質問をさせていただいてもー?」
「許す」
「ギルドのできごとをご覧になっておられたならー、俺…いえ、私を試す必要があったのでしょうか?」
「……ハムタロ、おまえは賢しいのか愚かなのか、いまいちはっきりせん奴だな」
フェルズは呆れたように息を吐いた。
「妹のそばに見知らぬ住所不定無職がいる。心配にならん兄がいると思うか?」
そりゃそうだった。
「しかし合格とはいったが、一応だ。先ほどの私の言葉に、兄としての演技はあっても、『魔王』として嘘はない。三ヶ月…だったな?」
「ここに街をつくる話ですねー?」
「そうだ。冬が来る前に民を救わねばならぬ。猶予は三ヶ月だ。いいな、イリス」
『魔王』の顔になったフェルズに対し、イリスが背筋を伸ばす。
「それまでは待つ。だが、過ぎれば『魔王』フェルズはおまえから、この地と魔王の座を奪いに来る。今度こそ、本当に」
「はい。全霊を尽くします」
「フッ…励むがいい。我が妹よ」
フェルズはイリスの頭をなでると、サッと踵を返した。
「お待ちください!お義兄さま!」
イリスが何事か思い出したようにフェルズを呼び止めた。そのままテントに走っていき、布をかけたバスケットを抱えて戻ってくる。
「わたしの焼いたアップルパイです。よろしかったら、お義姉さまとどうぞ」
「……ふむ、頂こう。あいつも喜ぶだろう。礼をいう」
フェルズはバスケットを受け取りつつ、公太郎へ首を向けた。
「ハムタロ…このとおり頼りない妹ではあるが、よろしく頼む」
公太郎が返事を返す暇もなく、魔王フェルズは転移魔法で去っていった。
三ヶ月で街をつくる。
白状すると、勢いでいってしまったことだ。
とはいえ、仕事で顧客に根拠のない大見得を切るなんてよくあることだ。顧客に「できるか?」と聞かれれば、とりあえず「できます」と答えるのが日本の正しい社畜というもの。
なんとかしよう。なんとか。なんとかなる。…うん、困ったな。
人知れずひっそりと頭を抱える公太郎であった。
TIPS:話的には街というより自給自足の村をつくる流れの気がする