その5: LV1魔法とイリスの恩寵
いつか「転生したら習近平だった」を読んでみたい
「勇者さま、絶対!手を離さないでくださいね。」
公太郎はイリスとギルドを離れて王都の郊外へ場所を移していた。転移魔法の有効範囲に関係のない人間がいると事故が起こる可能性があるからだそうだ。
「魔法が終わる前に離しちゃうと、わたしとはぐれてどこかに飛んで行っちゃいますから。海の上とか。いいですね、勇者さま?」
イリスはギルドを出てからここまで、事あるごとに公太郎を「勇者さま」と呼ぶようになった。正直、むずむずする。
「あのー、イリスさん。勇者さまではなく公太郎と呼んでくれー」
「…え?でも…」
ただでさえイリスと向かい合って両手をつなぎ、今にもワルツでも踊りだしそうな姿勢だ。この上、勇者さまなんて呼ばれ続けたらこっぱずかしくてやってられない。
「俺は勇者なんてやるつもりはないー。それに今から魔界に行くわけで、そこに住んでる魔族の人からすれば、人間の勇者が来たなんて聞いたら不安になるんじゃないかなー」
「そうでしょうか…?もし、そうならわたしから皆にきちんと説明しますけど」
「俺の世界には『知らぬが仏』という言葉があるー。あえて言わなくてもいいことは言わなくていいのさー」
「ホトケ…?いえ、そう…ですね。わかりました。それではクォチャロさま、準備はよろしいですか?」
「さま、もやめてくれー。公太郎でいい」
「クォウチャロさん」
「うーん?」
ギルドの男もそうだったが、この世界の人にとって「公太郎」の発音は難しいようだ。しかし、クォチャロだのクォウチャロでは、なんだか落ち着かない。
ついでに、今後イリス以外の人とも名前のやり取りで一苦労しそうってのは、考えただけでもいちいちめんどくさくなる。
…そうだ、中学生くらいの時、友人が公太郎の「公」を上下に「ハ」と「ム」で分けて「はむたろう」と呼んだことがあったがこれならいけるだろうか。
「『はむたろう』ならどうー?」
「…ハムタロサァン」
「さん、もなしで」
……ま、妥協点だろう。
目のくらむまばゆい光が収まると、ひらけた視界に紫電を纏った分厚い黒い雲と、色気のない荒野が飛び込んできた。
「着きましたよ、ハムタロ」
「ここが、魔界ー…?」
「魔界の北東部、最果てです」
公太郎と手をつないだまま、イリスがうなずいた。終わってみれば、転移魔法はずいぶんあっけなく成功した。事前にイリスが脅し…注意してきたので緊張したが、心配しすぎたようだ。
魔界の景色は、緑豊かで明るい王都とかなり異なっていた。
分厚い雷雲のせいで日の光はさえぎられて薄暗い。空気も独特の粘性を持ち、呼吸すると喉にまとわりつくような息苦しさがある。
植生は攻撃的に尖ったフォルムの短い草がところどころ生えてるくらいで、まともな樹木ひとつ見当たらない。大地は雨の日に靴にはねた泥が干からびて固まっただけのような乾いた土が、うねるように丘を形成している。
あたりに人工物のようなものは何もないが、近くに魔族は暮らしていないのだろうか。
「しかし、ほんとに一瞬で到着かー。ギルドの人が1年かかる距離って言ってたのに。イリスはすごいなー」
「…すごい?とんでもないです!わたしなんか、義兄や義姉たちに比べるとみそっかすで…」
イリスはパッと手を離し、首をぶんぶんと振って必死に否定した。なにげに兄姉がいることは初耳だ。
しかしイリスの自己評価はともかく、ギルドで聞いた分だと彼女の使った転移魔法はかなりの高位であるらしいから、兄や姉とやらはよほど傑物なのだろう。
とはいえ観察してみると、イリスは無意識に尻尾もぶんぶんしてるので、内心はまんざらでもなさそうだ。
ちなみに、イリスから「わたしがハムタロに『さん』をつけないなら、わたしもイリスと呼び捨ててください」と強く要望されたので先ほどからそうしている。
「お兄さんお姉さんがいるのか…ゴホッ」
「はい、たくさん。…?どうかしましたか?顔色がよくないですよ?」
「ゴホッ…うーむ、なんだかここの空気がねっとりしてるような。大丈夫、転移魔法でちょっと酔ったのかも────」
言いかけて頭から一気に血液が引いていき、視界が真っ暗に閉じた。ガツンという衝撃が顔に走り、公太郎は自分が倒れたことに気がついた。
「ハムタロ!?」
「目が回る…頭痛いー」
気分が悪い。吐きそうだ。頭はもうろうとして、体中がふわっと頼りなく現実感を失っていく。もしかすると、死の間際とはこういう感じなのかもしれない。
「魔素中毒だわ…。ハムタロ!体の中のマナを活性化してください!!魔法を使う時みたいに!!」
「…俺、魔法…使えないー」
「そんなっ!?」
イリスの声がどんどん遠くなる。だらしなく半開きになった俺の口に、イリスが何か丸くて固いものを突っ込んだ気がした。…が、もうどうでもいい。意識が…途切れる…
「飲んでッッ!!!」
イリスの叫びが明瞭に鼓膜を震わせた。そんな大声が出せたのかと、公太郎はのんきに感心してしまった。わずかばかりの気力がよみがえり、口の中のビー玉くらいのなにかを舌で喉奥に押しやる。
ごくり。
耳奥に嚥下した音がすると、へその下あたり…かつては丹田と呼ばれた場所から、血流にのって体へ熱が広がっていくような感覚がきた。
「う…うおおおお、おおおー?」
息苦しさや頭痛などうそのように吹き飛び、公太郎は飛び起きた。全身が春の陽光のような淡く暖かい光を纏っている。
「な、なんじゃこりゃー」
「ハムタロ!大丈夫ですか!?気分は!?」
「なおった!というか、元気が満ち溢れてるー」
「よかった…」
イリスはほっと一息つくと頭を下げた。
「ごめんなさい、ハムタロ。この辺りは魔界でも、空気中の魔素がとびきり濃いんです。人間だと中毒になってしまうくらい。わたしがもっと注意するべきでした」
「そうか、空気がねばねばした感じだったのは魔素とやらのせいか。それでこの光は…」
「ハムタロのマナが魔素を中和してるんです。じきに収まるはずです」
「マナ…」
イリスは先ほど、魔法を使う時のように体内のマナ(話の流れ的に魔法力の認識でいいだろう)を活性化させろと言った。そんなものが今までの自分にあるわけないので、さっきイリスが飲ませてくれたものは…。
「『火』よ出ろ!…とか言ってみたり。あ、出た」
公太郎が適当に唱えると、右手の指先数センチににゴルフボール大の火球がポンッと出た。マナを燃料にメラメラと燃えている。
「うおおおお、魔法だ!!すげー!!俺、魔法が使えるようになってるぞ!!」
テンションが上がりに上がって飛び跳ねんばかりのガッツポーズとなった公太郎を、イリスはニコニコと見つめた。
「やっぱこれ、イリス…恩寵の宝珠を?」
「はい。ちゃんと効果が出てよかったです」
「…ありがとうー。イリスは命の恩人だな。宝珠はすごく貴重な物のはずなのに」
「いいんです。わたしにはハムタロの命のほうが大切ですから。それに…そこまで貴重な物ではないそうですし…」
いいこすぎて抱きしめたい!との衝動にかられたが、さすがに出会ったばかりの女の子に対して事案すぎるので公太郎は自制した。
見ればイリスはわずかに寂しそうな顔をしている。ギルドでの出来事が彼女の心に少なからず傷をつけたのは間違いない。どうにかうまいこと励ませないだろうか。
「『水』も出ろー、とか言ってみたり?あ、出た」
公太郎が左手に念じると、こちらも指先から火球と同じくらいの水球が出た。そこでふと思いつき、数字の「1」や「2」を形作れないか試してみる。すると、火も水もうねうねと動きだし…簡単にできあがった。
「わわっ、器用ですね」
「そうなのー?複雑な形じゃなかったらいろいろできそうな感じがするな。大きさも変えれそうだ」
火球と水球はこちらも難なくゴルフボールからバスケットボールくらいまで膨らませることができた。なんならまだまだいけそうだ。これ以上は怖いからやらないけど。
「すごい!すごーい!!」
イリスはすっかり元気を取り戻し、目を輝かせてぱちぱち拍手をしている。
しかし感覚としてわかるのだが、これは見かけだけで質量は変わっていない。仮にマナ1を消費して作れる水球の水量を1とするなら、大きく膨らませても水量は1のまま。つまり、水球をバスケットボール大まで引き伸ばしてそれっぽく見せてるが、実態は風船のように中空のスッカスカなのだ。エネルギー保存とか質量保存の法則は世界が変わっても不変ということか。
「ふーむ。かなりいろいろできそうだなー。これでもLV1魔法で、幼児が覚えられる範囲なんでしょ?この世界の人はすごいねー」
「いえ…普通、LV1の魔法でこんないろいろなことはできないです。さらに、火と水という相反する属性を扱える者もいません。少なくとも、わたしの知る限りでは。ハムタロの才能では?」
「才能…?ないない。恩寵の宝珠がちょっとおまけしてくれたんじゃないかなー」
公太郎はふとリレキショを開いてみた。
『リレキショ』
名前:ハムタロ
職業:イリスの勇者 (ランクアップ)
経歴・前職等:無敵の人
特技・資格等:特に無し
恩寵:LV1全魔法
────恩寵の部分にLV1全魔法と書かれている。これが思った以上にうれしい。ようやく異世界らしくなってきたってもんだ。
よく見ると、LV1魔法ではなくLV1「全」魔法との表記されている。間違いなくこれが、火と水魔法を同時に使えるタネだ。
こんなことができるようになる宝珠が本当に無価値なのだろうか。
イリスに確認してみたいところだが「職業」の欄も更新されてて、見せるとなんだかお互い気まずくなりそうだしやめておこう。
彼女の勇者など自分には分不相応極まりないが、期待に応えられるようがんばろう────
公太郎は気持ちを新たにすると、火球と水球をかき消した。
「さて、それじゃイリスの依頼にとっかかるとしようかー」
「あ…はい。でも、そろそろ日が落ちて危険な魔物が出始めるので、今晩はここに結界を張って野営しましょう」
「危険な魔物…」
「大丈夫、結界にいれば安全です。それに、なにかあってもわたしが必ず守りますから!」
イリスはローブの袖をまくると細い腕でぐっと力こぶをつくってみせた。
「そりゃー、頼もしいや」
だが、本当になにかあったら、まずは自分が対処しよう。
実際に王都まで長旅をしてきたイリスのことを疑うわけではないが、年端のいかない女の子に守ってもらうというのはさすがにかっこわるい。LV1だけど魔法も使えるようになったし。
「先にテントを張りますので、ハムタロは座って待っててください」
イリスは肩から下げたカバンに手を突っ込むと、ドラえもんがポケットから秘密道具を取り出すように大きなテントを引っ張り出した。明らかにカバンに入るようなサイズではない。
「そのカバン、すごいなー」
「魔法布で作られててたくさん入るんです。便利ですよ」
「いいねー。ところで俺にも野営の準備、手伝わせてくれないかー?」
「え、よろしいんですか?…では、カバンから薪を出しますから火をおこしてもらってもいいでしょうか。実はわたし、こういった魔法は不得意で…」
「もちろん!早速お役にたってみせましょうー」
イリスのイメージしてるものは、適当に石で囲ったたき火だろう。しかしどうせ魔法を使うなら少し凝ってみたい。
キャンプなど小学生の時に林間学校でやって以来だが、あの時の調理場はどんなんだったか。
「『土』魔法から精製して『火』魔法で…」
公太郎はイリスから薪を受け取ると、土魔法で地面に粘土を作り、学校の机ほどの大きさで「コ」の字型に成形し、火魔法で焼きを入れた。LV1魔法の火力では時間がかかって仕方ないので、マナを余計に突っ込みパワーを上げる。
「…便利すぎるだろ、この魔法ー」
通常よりマナを消費するため少し疲れるが、まるでクラフトゲームのような手軽さで赤いレンガの炉ができた。中央に薪を並べながら、公太郎は魔法の使い勝手の良さに少し引いた。
「たしかキャンプだと、上に鉄網があれば完成だなー」
「鉄網ならありますよ。わっ、すごい!こんなにきれいに作ってくれるなんて!!」
テントの設営を終えて近づいてきたイリスが色めきだった。
「鉄網があるなら薪に火をつけるだけだけどー、もうつけちゃっていい?」
「ブツブツ…やだこれ…どうしよう。…ハムタロにお願いして、あとちょっと頑張ってもらったらオーブンができるかしら。そうすればパンが焼けるわ。いいえ、ピザのほうがいいかも。お芋をふかしてみるのもありね。いっそアップルパイだって夢じゃない……リンゴまだあったかな?…ケーキ?ダメよイリス、残念だけどケーキはさすがに無理よ……ブツブツ」
「あの、イリスー?」
イリスは公太郎にまったく答えず、哲学者が思索にふけるようになにやら独り言をつぶやいている。公太郎は彼女の目がガンギマリになってるのに気がつき、ちょっぴり怖くなってしまった。
これはもう、言われる前からオーブンに取り掛かっといたほうが良さそうだ。昔、映画でローマ時代のオーブンが出てくる作品を観たことがあってよかった。あれなら作れるはずだ。
「リンゴがない!!」
この世の終わりのようにイリスが叫ぶのと、公太郎がオーブンを作り終えたのはほぼ同時だった。
「ごめんなさい…ハムタロ。リンゴを切らしてました…」
「そ…そうか。残念だなー」
ひっくり返したカバンを手に、心底しょんぼりしたイリスを前にすると「俺、アップルパイを食べたいとか言ってない」などと口が裂けても言うわけにはいかない。
「オーブン、作ってくれたんですね。ありがとうございます。今日は使えませんけど、またいつか…」
「うん…。楽しみだー」
「…とりあえずなにか、ありもので作ります。すぐ、できます。待っててください」
がっくり肩を落としたイリスはとぼとぼと公太郎がはじめに作った炉へ向かい、やるせなく鉄網を設置した。丸まったイリスの背中からは猫の額ほどの覇気も感じられない。
おそらくだが、予想だが、推測だが、仮説だが、ほぼ確実に確信を持って断言できる。
イリスはくいしんぼうだ。
「そうだ、イリス。転移魔法で王都に────」
「リンゴを買いに行こう」といいかけた時、吐息のようなよわい風が顔を撫で、公太郎は唇に乾燥を感じた。舌でなめると鉄錆のようなにおいと血の味がしてしみる。魔素中毒で倒れた際に少々切ったらしい。
「『回復』魔法」
唱えた公太郎の手の平を暖かい光が包んだ。口に当ててみると自分では確認できないが、きちんと傷がふさがったようだ。なめてももう痛くないし、血の味もしない。
…ちょっとしたアイデアが浮かんだ。
「リンゴの種、ですか?」
「そう。植えてみようと思って」
「…ありますが、ここに植えても芽は出ないですよ?濃すぎる魔素のせいで、土がやせちゃってますから。まあ、いいですけど…」
完全にやさぐれてしまったイリスは怪訝な顔をした。元々、「故郷に花を植える」が彼女の依頼のはずなのだが、今はそっとしておくしかないようだ。
「はいこれ、1つでいいですか?あと、薪に火をお願いします」
「OK。『火』魔法」
公太郎は薪に火をつけてから種を受け取ると、少し離れた場所で地面の土を手に取ってみた。
オフホワイトの土は、魔界に着いた際に見たままの印象通り、泥を固めただけのカッスカスの手ごたえだった。小さなかたまりをつまんで指に力を入れると、何年も室外で使い古した洗濯ばさみが割れるように脆く崩れ去り、砂となる。
このぶんではイリスの言う通り、養分どころか水分もろくに含んでないだろう。
「『風』魔法で魔素を吹き飛ばし、遮断するドームを作る!」
公太郎が風魔法で形成したのは空気でできたビニールハウスだった。とはいえ、農業用の大型ビニールハウスではなく、木が一本入れば十分だからマナの消費はそれほどでもない。
「さらに土を『回復』!」
公太郎はドーム内の地面に手を触れ、回復魔法を流し込む。土の中の微生物がまだ少しでも生きているなら、活性化されるはずだ。
だが、目立った変化はない。
「ダメかー?……あ、水もいるのか」
微生物もまた生物。水分がなければ活動できないのかもしれない。
「『水』魔法!…と『回復』!」
べちょべちょにならないよう気をつけながら水分を加え、さらに回復魔法に注ぐマナを上乗せする。
だんだんと土の色が……黒褐色に変化していく!!
手触りもふかふかして、ほんのり温かい。微生物が活発になってきた証拠だ。腐葉土のように栄養たっぷりの土がどんどん広がっていく。成功だ!!
「リンゴの種を植えて…ダメ押しの『回復』ー!!!!!」
……後から振り返ると、この時の公太郎は調子に乗っていた。覚えたての回復魔法に全力のマナを一気に突っ込んでしまった。2000メートル走で使う体力が一瞬で消え去ったような感覚に気をとられ、目の前で起きた事象に反応できなかった。
ドガンッ
顔の前で何かがはじけ、衝撃で公太郎は気を失った。
「…タロ!ハ…タロ!!……ハムタロ!!」
「う…う?…イリス?」
イリスの呼びかけで公太郎が目を覚ましたのはテントの中だった。
「イリスが運んでくれたのか…痛っ!」
丁寧に敷かれた寝具から身を起こし、そばにいるイリスに礼を言おうとしたが、額がひどく傷んだ。先に回復魔法を、と思ったが体内のマナが枯渇している感覚がある。
「イリス、何が起こったかわかる?…イリス?」
イリスは頬を紅潮させ、満面の笑みだった。
「すごいです!ハムタロ!!すごい!!すごい!!すごい!!すごーーーい!!!!」
「ど、どうしたんだー?」
イリスの尻尾がぶんぶんして、扇風機みたいな風が来る。見るからに興奮状態で、今にも飛びついてきそうな勢いだ。
なんだかわからないがイリスはすごいすごいBOTと化してしまい、返答も要領を得ないので、公太郎はテントの外に出てみることにした。
「パンのいいにおいがする…」
入口の垂れ幕をまくると焼きたてのパンの香りが、わっと飛び込んできた。それだけではない。果実を焼いたような、ほんのり甘いも香りも含まれている。
その由来は、外に出るとすぐにわかった。
「おおっ!?うおお?これは…」
「ハムタロ、すごい!!ありがとう、ハムタロ!!」
目の前に、立派なリンゴの木が生えている。木はすでに成熟し、真っ赤な果実がいくつも生っていた。
「回復魔法を突っ込みまくったからリンゴが一気に成長して、俺のデコにぶちあたったのかー」
「すっごくおいしいリンゴですよ!もうすぐパンもアップルパイも焼けます!一緒に食べましょ!!」
イリスは公太郎の手を取ると、彼女が用意したのであろう、簡易的な木のテーブルとイスの方へ引っ張った。
「『おいしいリンゴ』ー?さてはイリス、もう食べたなー?」
「あっ!?…えへへ、ごめんなさい。いただいちゃいました」
イリスは恥ずかしそうに笑った。
やはり子供は笑顔でいてほしい、「別にいいさ」と公太郎が言いかけた時、イリスが急に手を振りほどいた。
「下がってください、ハムタロ。できれば、テントの中へ」
「イリス?」
イリスの表情と声色が、これまでにない鋭さを帯びている。
「魔物が来ます。においに惹かれたのかも。テントは結界になってますから入ってて────」
「ならイリスも一緒にー…」
マナがないから今の自分は魔法が使えない。だからといって女の子ひとり、この場に残すほど堕ちちゃあないぜ。
だがイリスは首を横に振った。
「大丈夫ですから。むしろハムタロはテントからわたしを見ててください。かっこいいとこお見せしますよ」
「…わかったー」
有無を言わさぬ問答無用の視線に、公太郎はうなずくしかなかった。
公太郎がテントに入ると「ドンッ」と派手な音を立てて、10メートル先の地面から黒い物体が飛び出してきた。
だがよく見ると黒ではなく、白い。白くて恐ろしく大きな熊だ。優にビルの3階くらいはある。
「グオオオオオオオルルアアアアアアアアア!!!」
熊は着地すると威嚇するように吠え、巨体に似合わぬ俊敏さで突っ込んできた。
「危ない!!イリス!!もどれ!!」
「シロクーマ…大きい…」
公太郎の声が耳に入らないのか、イリスは敵を視認しながら胸の前で腕を交差する。自分の肩を抱きこむようにつかみ、腰をかがめてバネを溜めた。
「恩寵『因子解放』!!!」
イリスの目がカッと見開かれる。
瞬間、不可視であるはずの魔素が、公太郎にはイリスを中心に集まっていくように見えた。天体のブラックホールが光すら捕えるがごとく、イリスが空気中の魔素を吸収している。
「ガアアアアアアアアア!!!!!」
獣のように咆哮をあげたイリスの角が、鋭く尖って伸びはじめた。いや、角だけではない。爪が、尾が、なんと彼女の四肢までも。10に満たない子供のような体が、急激に成長していく。
「グオオオオオオオオオオオオオッ!!」
「イリス…ッ!?」
シロクーマが爪による必殺の一閃を放った。爪がイリスを切り裂いたように見え、公太郎の心臓が止まる。
しかしよく目を凝らせば、爪は虚しく空を切り、大地に突き立っていた。
「…おまえも、それはそれはおなかが空いてるんでしょう。でも、ダメよ」
獲物を見失ったシロクーマの背に、悠然とイリスが立っていた。手には抉り取ったシロクーマの心臓が握られている。心臓はまだ鼓動しており、引きちぎられた血管から噴き出した数滴の血しぶきがイリスの頬を汚した。
「ガハッ!?」
シロクーマは信じられないといった顔で、背を振り返ろうとした。が、かなわず、大量に吐血してそのまま沈み込むように絶命した。
イリスはそれを見届けると、血にうっとりと酔ったかのように、顔にはねた血液を舌で舐めとった。他に返り血などほとんど浴びてはいない。
圧倒的暴力の生みだした凄惨さが、場に静寂をもたらした。
ハリウッドセレブがレッドカーペットをゆくように、イリスは優雅にシロクーマの背から降り立った。それから彼女はゆっくりとシロクーマへ向き直り、その命に敬意を示すためか、わずかに頭を垂れた。
冷酷で、妖艶で、美しい所作だった。
「イリス!無事かー!?」
駆け寄った公太郎に振り返ったイリスは艶が消え、見た目の年相応といった10代半ばのあどけない顔で無邪気に笑った。
「ハムタロ、どうでした?わたし、結構戦えるでしょ?」
言いながら、イリスの長くなった角や四肢が徐々に元へもどっていく。
もはやどうでもいいことだが、彼女がこんなに強いと知ったら、あの時のギルドの連中はどう思うだろうか。
「見てください、いい心臓!血抜きして、これもいただきましょうね」
イリスがにっこりと差し出した心臓は、スイカくらいの大きさで、血まみれだし、まだ動いてて正直グロい。
「お、そ…そうだなー、ハハハのハ…」
────たぶんこれ、心臓以外も食べる流れだろうな。
公太郎は苦笑いでごまかすしかなかった。
TIPS:シロクーマの肉は筋張ってるし、下処理しないと臭すぎて食用には向かない。あと普通にまずい。