外伝 夢見のむかし 5
習近平は今日もヒーローさ
ボクはまた、ミスを犯した。
仕方のないことだったが、親友の亡骸を前にすれば誰だってそうなると思うが、ボクの慟哭がふたつの不味いことを呼び込んだ。
ひとつめは、ボクの叫びに驚いて、赤子が目を覚ましてしまったこと。
赤子は自分を抱いているのが母親じゃないとわかるかのように、けたたましく泣きはじめてしまった。
ふたつめはその泣き声が位置を知らせてしまったことだ。
…誰にって?
決まってるだろう。「追手」だ。
ふたりの亡骸の前でボクは、泣きわめく赤子を呆然としながら抱えていた。
これからどうすればいいんだろう。ボクの住むダークエルフの村に、この子の居場所はない。それどころか、命すら危ういかもしれない。ダークハーフのボクすら慈悲を受けられなかったのだ。
ボクの頭の中は、ほとんど真っ白だった。妙案など浮かんでくるはずもなく、ただ機械的に赤子を揺らし、あやすまねごとをしてるだけ。
「…声?」
ハイ・エルフの村の方角から、怒鳴り散らすような喧騒が聞こえてくる。遠くにいくつかの小さな明かりが見えた。松明の火だ。火はだんだんと数を増やしながら、こちらへ近づいてくる。
「まずい!!」
ボクはすぐさま立ち上がると、その場を離れなければならなかった。
追手の勢いと数は増すばかりで、村の中間線など気にせず、こちらへ踏み込んでくるだろう。
「ごめん ルチル」
ルチルたちの遺体を弔いもせずこのまま捨て置くのは、身が引き裂かれそうな思いだ。
それでもなお、今はすべてを投げ出して逃れなくては。
「お願いだから 泣きやんでおくれ」
ボクは腕の中の赤子にささやくと、夜道を駆けだそうとした。
しかしそれが不可能なのはすぐにわかった。
暗い夜道で木々や枝葉を避けながら走る。ボクだけならできるだろう。転んだり、枝でちょっとばかり腕を切ることくらいなんてことはない。森ではよくあることだ。
でも赤子はそうじゃない。もし抱えたままボクが転んだら?尖った枝が目に刺さったら?
ボクは改めて事態の難しさに戦慄した。
だけど赤子を気にして足を止めたその数秒は、悪い事ばかりではない。ボクに落ち着きと気づきをもたらしてくれた。
…何かを見落としてる気がする。
ボクはハッとしてルチルの方を振り返った。思った通り、彼女のところからここまで赤い足跡がくっきりとついてしまっている。彼女と夫の流した血をボクが靴で踏んでしまったのだ。
「消さないと 見つかる」
ボクは急いで靴を脱ぐと脇に抱え、落ちていた枝で足跡をごまかした。
あぶなかった。これでいくらか時を稼げるはずだ。なにしろ追手は、ボクという協力者の存在を知らない。
ボクは裸足のまま、なるべく速足でその場からすみやかに立ち去った。
だが、直近の大きな問題はなにも解決していない。赤子が泣きやまないのだ。
さっきまで気持ちよく寝てたのだから、おなかが空いたとか、おしめではないと思うのだけど。
ボクはルチルたちからある程度距離を稼げたと思ったところで一度足を止め、赤子に対処することにした。赤子が泣いたままボクの村に近づきすぎてしまうと、今度は別の問題が発生してしまう。
「困ったな どうすれば いいんだろ」
対処することにした、とはいうものの、具体的なプランはなにもない。
こんな時、ボクの母はどうしてたか。ボクにその時の記憶はないけど、ボクが幼かった頃、母はよく子守唄をうたってくれたのを憶えている。
「星が降る~ 夜に~ 森は眠り~ 月が~…」
ボクは母の受け売りで子守唄を口ずさみはじめた。赤子を抱えた上半身をゆっくりと左右に揺らしながら。
こういってはなんだが、ウマくはない。だけどキミはルチルたち両親が必死で守ろうとした子供なんだ、この世で一番大切な宝なんだ…という心を精いっぱいありったけこめてうたった。
それんな気持ちが通じたかはわからない。あるいはただ、泣きつかれたか、泣くのに飽きたか。
いつの間にか赤子は、まん丸の目でボクを不思議そうに眺めていた。
「見てごらん」
ボクは指先に水魔法で小さな水球を作ってみせた。水の温度は人肌くらい。それを赤子の鼻先や、赤いほっぺにつけたり離したりしてみる。
「キャハッ」
くすぐったそうにした赤子が、ついに笑った。つられてボクも笑顔になる。不思議な感覚だ。ついさっき、あんなにも悲しいことがあったばかりなのに。
それから赤子は自然と、誘われるように眠りに落ちていった。
「ふーーーっ」
ボクは思わず安堵のため息をついていた。普段は神なんか欠片も信じてないが、こればかりは神に感謝したい気分だ。
泣き続ける赤子に、正直ボクは圧倒されていた。まったく…この小さな体のどこからそんな大きな声が出せるのか。まるでエネルギーのかたまりみたいじゃないか。
ボクときたら、キミを抱えてちょっと小走りになったくらいで、もう肩で息をしてる。そういえば足がジンジンして痛いな。小枝が何本か刺さってるようだ。そろそろ回復魔法をして靴を履かなくては。ああ、そうだ。一応、おしめの確認もしておこう。
赤子は、女の子だった。
とりあえずの態勢を整えたボクは、ボクの村に忍び込むように舞い戻った。誰にも気づかれぬよう家に帰り、部屋の隅でほこりをかぶってた旅支度をひっつかむと、そのまま故郷を後にした。
旅への不安は、赤子を救う使命感が上塗りしてくれる。
ルチルと出会わなければ、いつか出ていこうと思ってた場所だ。それが今日だった…というだけのこと。
さようなら。
もう二度と帰らないけど、お元気で。
…それからボクが行き詰まるまで、ひと月もかからなかった。
甘い展望を抱いていたわけではない。厳しさは覚悟していた。
だけど現実は、ボクの考える何倍もの冷酷さでボクたちに襲いかかってきた。
なんどもいうが、ボクの恩寵は『夢見』だ。
しかしこの旅において、『夢見』は呪いそのものだった。
ボクの体は人の3倍ほどの眠りを必要とする。
でも赤子にとってはそんなの知ったことではない。
おなかがすいた。おしめがぬれた。ねむたい。それを遠慮なく忖度なく、自分のタイミングで、耳をつんざくような泣き声で、都度ボクに伝えてくる。
赤子の世話を必死になんとか終えたボクが、ようやく眠りにつこうとしたその時であっても。
でも、むしろこれらはまだいいほうだ。
ボクが一番困り果てたのは「なんで泣いてるか、わからない」場合だから。
打てる手をすべて打って、なお泣きやんでくれない時、大げさだがボクはこの世の終わりのような気分だった。
とにかく、眠れないのがつらい。
ボクも赤子も、一日の大半を眠って過ごす。だから単純に考えると、お互い同じタイミングで寝れば、少なくとも眠れないなんて問題は発生しないはずだ。
でも現実にはそうはいかない。
ボクはボクが起きていられる時間のほぼほぼ全部を使って赤子の世話をし、彼女が眠りについても旅の歩みを続けなければならなかった。
ハイ・エルフたちの追手がかかってるかもしれないからだ。
赤子を連れた旅時の速度は、ゾッとするほど遅い。あれからひと月ほど経つのに、ボクは故郷から最も近い山脈すら越えられずにいる。
ここはまだエルフたちの勢力範囲だ。
おそらく、もしかすると、たぶん、九割九分、ボクの心配は杞憂だろう。
もう冬の直前だ。その支度に忙しいこの時期に、どこに行ったかわからない、生きてるかどうかすら不明の赤子に割く人員など、論理的にいってもありはしない。
でもそれはボクの予想であって、仮説であって、仮定であって、確証ではない。
万一を考えると、ボクは先を急がねばいられなかった。
問題はまだある。
男を知らないボクは、当たり前だが乳が出ない。
なので代わりに果実を絞ったり、スープを薄めたり、いろいろ工夫はしてみるものの、有効な手立てをいまだに見いだせていなかった。
家畜…この際なら動物からでも乳が得られれば良かったのだが、冬の旅の途上にそうそう都合よく転がってる話ではない。
ボクが手をこまねいてるうちに、栄養が足りないのだろうか、赤子はだんだんやつれはじめていた。その姿が言外にボクを責めているようで、ボクの頭はどんどん働かなくなっていく。
数日前、ボクはボクの腕にナイフを突き立て、流れ出た血を母乳として赤子に飲ませようとした。赤子の泣き声ですぐに我に返ったが、まったく正気の沙汰ではない。
それほどまでにボクは追い詰められている。
心神耗弱、育児ノイローゼがボクの心を容赦なく蝕んでいた。
気がつくとボクは幽鬼のようにふらふらと、山脈の途中にある崖の、その端の際に赤子を抱えて立っていた。奈落のような深い谷底から吹き付ける強い風が、ボクの髪をバタバタとなびかせる。その音をボクはぼんやりと聞いていた。
もういつからか、ボクの周りの空気に、景色に、ボクは現実感を感じられなくなっている。
────このまま…身を投げたら、きっと楽なんだろうな…
知らない間にボクは両の目から涙を流していた。自分の情けなさに、弱さに、無力さにボクの心が壊れていく。
ルチルはボクに「人の想いは正論や理屈じゃない」といったが、子育てもどうやら同じみたいだ。正論や理屈、使命感や義務感…そんなものだけで乗り切れるほど容易くはない。
────この世のすべての辛いしがらみから解放されたい。自由になりたい。ここからちょっぴり踏み出せば、それが得られるのだ。あとはなにかきっかけがあれば、たとえば後ろからボクの背中を押すような風が吹けば────
だけどそんなことはできはしない。
腕の中の赤子はボクを疑いもせず、信頼して、今もすやすやと眠っている。この子はボクがいなければ、たやすく命を落とすだろう。この子を守れるのは、もう…ボクしかいないのだ。どんなに辛くとも、苦しくとも、この子の笑顔が…それがたまらなく愛しい。ボクよ、しっかりしろ!
ボクはなんとか気を取り直すと、踵を返して崖から離れようとした。しかし────
ガラッ。
ボクの足元が不気味な音を立てて崩れた。体勢を崩し、体が谷底へと落ちていく。
「しまっ…!!」
時間の進みが急激に遅くなった気がした。死に瀕した時、人にはこういう現象が起きるそうだ。
それでもゆっくりと、ボクのいた崖がどんどん遠ざかる。
なんとうかつな。なんであんな端に立ったのか。
ボクは必死に腕を伸ばす。届くはずもない崖に向かって。
────ああっ、神様!!ボクはいい。でもこの子は、この子だけはっっ!!!
ガシッ。
伸びてきた毛むくじゃらの大きな手が、間一髪のところでボクの腕をつかんだ。そのまま力強くボクを引き上げる。
「若い女が、こんなとこでなにをしている」
手の主は狼の顔を持つ狼人族の男だった。
「ボ…ボクは… ボクは…!!」
助かったこと、なにより赤子の命が救われたことがボクの胸をいっぱいに支配し、ボクはしばらく男に礼もいえぬまま嗚咽し続けた。
男は狼人族の長で、バルガと名乗った。
心が限界だったボクはバルガに向かって、これまでのこと、あてのない旅に先が見えないこと、苦悩、苦労、苦渋、とにかく思いのたけを一気に堰が切れたような勢いで吐露してしまった。
バルガはうなずきもせず、ただ黙って訊いているだけだったが、突然「来い」といってボクを仲間のもとへ連れて行った。
そこはいくつかの簡易的なテントで構成された隊商のような集落だった。
バルガによれば、彼らは自分たちよりはるかに大きな数の同族との戦いに敗れ、故郷を追われて安住の地を求める旅をしている最中とのことだ。
ボクはそこでバルガに、彼の妻と生まれたばかりの彼の息子を紹介された。
「息子のグルガがちょうど生まれたところだ。妻は乳が出る。その赤子にも飲ませてやるといい」
ボクはバルガの温かさに触れ、へなへなとその場にへたりこんでしまった。
バルガみたいなのを、男の中の男というんだろうな。エルフのように見た目だけ整ってても、心が伴わなければなんの意味もない。
こうしてボクは彼ら狼人族の仲間となる。
その旅は決して易く、平坦なものではなかったが、ボクは『夢見』で彼らの行く先を示し、バルガの先導の元、現在のこの地にたどり着くことができた。
ルチルの娘も、ボクを母と呼びながらすくすくと無事に成長していく。
これはボクにとってうしろめたいことだが、ボクはルチルの娘に本当の母のことを話せていない。彼女は今でもボクのことを実の母だと思っている。
安住の地とはいっても、ここの土地はひどく貧しく、生活も苦しい。そんな中、いらぬ心の負担をかけられなかったというのがボクの勝手な言い分だ。
本当はただ、怖いだけ。娘が傷つくところを見るのがボクは怖い。
『あのこは、ボクの娘だ』
他の誰かにならボクは堂々と胸を張ってこういえる。…たぶんルチルにすらでも。
ボクには親子の関係が、血縁によって決まるなんてどうしても思えない。ルチルも、ボクの母も、血のつながった者たちにどうされたことか。
思うに、親子というのは、親の子に対する想いからはじまる関係性だ。やがてそれが子の親への想いを育み、やがて親子という実をつける。
うまくいえないが、ボクは育児に追われる中、漠然とそんな風に考えるようになった。
だけどそれはボク個人の理屈であって、娘がどう考えるかはわからない。親の心、子知らず…なんていうしね。
それでもいつかは話そう、話そうと思っていた。
だけどボクは勇気と時期をつかめぬまま、気がつけば娘は大人になり、村を巣立って魔王軍へ入ると、今では大魔王に仕えている。
ボクの行動はいつもこうやって遅い。子供の成長はこんなにも駆け足なのに。
なんといったって、娘にはもう娘がいる。
名をイリス。大魔王の子だそうだ。
ボクはまだ恋すらしたことないのに、あっという間でおばあちゃんになってしまった。
ほんと、いやになっちゃうね。…笑えるだろう?
ちなみに、娘は仕事が忙しいから、イリスはボクが育てている。子育てが終わったらどうなる?知らんのか?子育てがはじまる…って感じさ。
そのイリスもまた、2年前に王都に向かって飛び出していき、今日、ハムタロと名乗る男を連れて帰ってきた。
まだ子供と思っていたら、この行動力。そら恐ろしいというかなんというか。さすがは彼女の血筋、さもありなん。
やあ、ルチル。見てるかい?
キミの守った娘は、孫は、今日も元気にすごしているよ。
TIPS:長くなりすぎてだいぶはしょった。機会があればまた深堀しよう。




