後編
四月一日。この日は《シルシ》の子たちが西側隣国へ旅立って後、送り出した家族が再び西側国境大門に集まるようにと定められた日である。
アビントン子爵家の者にとっては再びではなく、初めて西側国境大門にやって来た日なのだが。
子爵家の馬車が到着し、子爵と跡取りである長男が馬車を降りる。
そこにはすでに他の二家族が到着しており、子爵家の二人を認めると遠巻きにするように視線を寄越し、ヒソヒソと小さな声で話しをしているのが見えた。
一つの家族は裕福な平民のように見える、恐らくは商売をしている者だろう。もう一つはアビントン家とはほとんど関りがないが、名の知れた高位の伯爵一家で子爵も長男も夜会で挨拶をしたことがあった。
しかしながら、非常に感じが悪い。
彼らに向けられる視線には非難な侮蔑が込められているように感じたし、ヒソヒソと交わされる言葉も褒められてはいないようだ。
――なぜ?
子爵と長男は不思議でならない。平民一家とも伯爵一家ともトラブルもなにもないというのに、非難するような視線や嫌な雰囲気しかしないヒソヒソ話の理由がわからない。
長男が声をあげようかとした瞬間、大門の前に教会の聖騎士と聖職者たちが並んだ。常に国境を守る騎士たちの姿はない。
「……時間となりました。皆さま、本日はお集まりいただきありがとうございます。本日は、《シルシ》の子たちが旅立って三ヶ月という節目の日を迎えたことで、お集まりいただきました。《シルシ》の子とそのお相手様より、ご家族の皆さまへの贈り物が届いておりますのでお受け取り下さい」
聖職者の言葉の後、騎士たちが台座に乗った物を三つ運び込み横一列に並べた。三つは白い布をかぶせられる形で並んでいたが、それぞれに膨らみが違う。
膨らみが大きな物もあれば、ほとんど膨らんでいない物もある。
「こちら、一番右側はエイミス家の皆様へ」
台座の布は最も大きく膨らんでおり、父親らしき中年男性が布を外せばその下からは積み上げられた木箱が姿を見せた。箱の中には金や銀の鉱石、見たこともない美しい布、なかなか手に入らない乾燥させた香辛料やハーブ類、更に現金がぎっしりと詰まっている。
そして、最も小さな箱の中には丁寧に油紙で包まれた男物の洋服と靴が入っており、それを見た夫妻は服を抱きしめて涙をボロボロと零す。
その様子を見ながら、子爵は「やはり次女を手元で育てなくて良かった」と思った。
次女が旅立って三ヶ月、それなりの時間が流れてもあのように泣き崩れるほどの悲しみになど、自分も妻も耐えられるわけがないのだから。
「そして中央は、デイン伯爵家の皆様へ」
伯爵自ら布を剥ぎ取ると、下からは美しい装飾を施された箱が四つ現れた。その一つの中には、丁寧に梱包された薄紫のデイドレスと靴が入っており、伯爵令嬢が旅立つ際に身に着けていたいたものだとわかる。
そして、他三つの箱の中にはダイヤモンドやルビー、オパールといった宝石の特大原石がずらりと並べられていた。
長男は、宝石類の美しさと価値に驚いて息をするのも忘れてしまいそうになったけれど、伯爵夫妻はやはり令嬢のドレスを抱きしめ、悲しみの涙を零す。
やはりやはり、自分のした子育ては間違っていなかったのだ。アビントン子爵はそう確信する。
それと同時に、自分たちの家にもロレッタからの高価な贈り物が用意されたのだとも確信した。
ロレッタが西側隣国へ行って、それからどうなったのかはわからない。恐らく聞いていた通り〝生贄〟になったのだろうと思う。子爵家に生まれた次女はもうこの世にいない。けれど、その命と引き換えに子爵家には高価な品が贈られるのだ。
贈り物はなんだろうか? 金、銀か宝石か、それとも現金か。子爵と長男は顔を見合わせ、頷いた。
「そして、左側は……アビントン子爵家の皆様へ」
子爵は白い布を掴み、勢いよく引っ張った。布の下には、小さな木箱が一つだけ。
布の下にある物の大きさが他二家と比べて、一番小さいことは見ればわかる。しかし、先の家の贈り物を見ていれば小さくても価値のある物が入っているに違いない。
宝石や金やプラチナなどの類だろうか、それらが採掘できる鉱山の権利書か、それとも現金に引き換えることのできる小切手か。
長男は期待を込めて小箱の蓋を開けた…………が、中に入っていたのは次女が身に着けていたワンピースドレスと靴のみだった。
「ななな、なぜ、なにも入っていないんだ!?」
ワンピースドレスを広げてみても、権利書も小切手も出てないし、箱の中にあるはずの宝石や鉱石もなにもない。
「……な、なぜ?」
子爵が聖職者に向かって尋ねれば、老年に差し掛かっている神父は小さく息を吐くと、空っぽになった小箱を前に呆然としている親子を見つめる。
「今からお話することは、他言無用に願います。万が一外部に内容が漏れた場合、皆さま家族の平和な生活は保障できません。命の危険もあり得ますから、ご注意ください」
「……え」
神父は、《シルシ》の子に関する、真実を語った。
国の西側にある渓谷の向こうは王制をある大国があり、手首に浮かんだ《シルシ》は生贄の証なのではなく、運命の相手である番がいる証なのだと。
番の証を持つ人は隣国の中でも数が少なく、もれなく全員が高貴な身分(王族、王家の血が濃い高位貴族家)であり、こちらから旅立った彼らは、西側隣国で貴人の伴侶として幸せな生活を生涯送ることが約束されていると。
しかしながら、現在は国交がほぼないこと、番に対する執着の強い彼らが自身の伴侶を側から離したがらないことから、彼らの実家への帰省が難しく今生の別れになってしまっていること。
これらの贈り物は、彼らを娶った貴人からの感謝とお詫びの証。愛おしい番をこれまで大切に育ててくれたことへの感謝、愛おしい子どもを手放すことと二度と会えなくさせてしまったことへのお詫びなのだ。
「これら贈り物の価値は計り知れません。贈り物の存在が公になれば、ほとんど関りのなかった親族や自称友人、はたまた詐欺師や犯罪組織に目をつけられる可能性が高くなります。誰にも話してなりません、話せばその相手との関係は高確率で壊れますし……最悪は命に関わることもあり得ます」
聖職者は過去に起きた贈り物を巡る殺人事件や強盗事件の話をすると、「これらのことを公にせずに、穏やかにお暮しになりますように。そうすれば、一年に一度ですが手紙と贈り物のやりとりが可能です」と念を押してから微笑んだ。
「……王族か身分の高い貴族の伴侶? あの子が?」
アビントン子爵は小さく呟きながら、他二家の贈り物の山を見る。
どれもこれも高価で価値の高い物ばかり、それが山積みだ。しかし、自分たちのところにはなにもない、形式的に返される洋服と靴だけ。
「し、神父様! なぜ、ですか!? なぜ、我が家には感謝の品もお詫びの品もないのですか!? おかしいではないですか、我が家からだって妹が生贄……いや、違うか、番としてあちらに行っているんですよ? 我々だって妹には二度と会えないというのに!」
長男は聖職者に詰め寄り、手を伸ばす。しかしその白い服に手が届く前に、教会付きの聖騎士が割って入った。
「……感謝もしなければ、お詫びも必要ない、そうあちらが判断されたのでしょう」
「なぜですか!?」
西側国境王門広場にいる全員の目と耳が、子爵令息に集中する。
アビントン家のロレッタが三ヶ月前どのような様子で隣国へ旅立って行ったのか、それを覚えている二家の人間は贈り物がなかった理由がわかる。
ロレッタは鞄に一つという少ない荷物を持ち、御者が送り届けただけで家族の誰も見送りにきていなかったのだ。それを見れば、彼女が家でどのように生活していたのかを察することが出来る。
隣国の貴人は言っているのだ。家族から大切にされていなかったから感謝の証はなし、大切な子ではなかったのだからお詫びも必要ないだろう、と。
「なぜと、我々に言われても困ります。アビントン子爵令嬢がどのようにお育ちになったのか、我々にはわかりません。ご令嬢の番であり、伴侶となった方がそのように判断されたのだと思います。ご実家であるアビントン子爵家には、贈り物もお詫びも必要ないと」
「そんな……そんな、馬鹿な……」
「娘のことは大切に育てました、大きな病気をしたこともなければ、ケガだって負ったことはないのが証拠です。別宅は貴族の令嬢が暮らすのに相応しく整えられていましたし、食事も衣類も十分に用意があり、勉強もマナーも音楽や絵画などの趣味に至るまで、あの子が望んだことは全て叶えていました。私たちは、あの子を大切に育てました。それなのに……、あの子の番である方は……」
「子どもの成長に関して不足なく育てることは、親としての義務です。貴族家に生まれた子なのですから、貴族令嬢として不足のないよう生活し、学習し、教養を身に着けることは当然のことと思います。大切、という言葉そのようなところだけにかかっているのではないのです」
大切に育てるということは、衣食住に困らず、学びたいだけ学べることだと子爵は思っていた。事実、衣食住に困らないこと、好きなだけ学べるということは重要なところだろう。
しかし、それ以外のところがわからない。
「……それは、どういう?」
言葉が出たのは長男だったが、子爵も同じように思った。
「それがわからないから、ご令嬢の番である方はなにも贈られなかったのでしょう。それから、最後に……アビントン子爵家の皆様には特別に伝言を預かっております」
「伝言?」
コホンッと神父は咳払いをし、胸ポケットから小ぶりのカードを引き抜いた。
「一年に一度行われる手紙、贈り物のやり取りは不要。とのことです」
「……っ! それは……」
「アビントン子爵家の皆様へのお話は以上です」
そう言うと聖職者はカードを胸ポケットに戻して、子爵に背中を向けた。そして、なにもなかったかのような顔をして見守っていた他二家の人たちに向き合う。その顔には聖職者らしい、優しい笑顔が浮かんでいた。
「さて、お待たせ致しました。デイン伯爵家の皆様、エイミス家の皆様には、今後西側隣国とのやり取りに関するお話をさせていただきます。あちらとの連絡は一年に一度、後ほどお渡しする箱に…………」
アビントン子爵は聖職者の声を聞きながら、その場に崩れるようにしゃがみ込んだ。
ロレッタが生まれたときは嬉しかった、自分と同じ髪色を持った可愛らしい女の子だった。けれど、《シルシ》を持った〝生贄〟の子だとわかり、喜びは一気に絶望へと変わったのを覚えている。
可愛らしい娘を〝生贄〟に捧げなければならないなんて……十七年先の話であっても、すでに辛くて苦しくて悲しかった。それは妻も同じ気持ちで。
だから、距離を置いて生活していただけ。距離はあったが愛していたし、大切に育てていた……そのはずだ。
「まさか、他の子と同じように手元に置いて育てろ……と?」
いや、そのように育てたとしたら、次女を手放すことなどできなかった自信がある。他家へ嫁がせるのとはわけが違う。生贄として隣国で殺されるのだと思っていたし、真実を聞かされた今であっても二度と会えないなど死別と同じだ、子爵はそう思う。
「……そんなこと、出来るわけがない」
次女と離れた生活があったからこそ、手放すことができた。あの距離で生活していても、今、自分と妻の中には苦しい気持ちが渦巻いている。苦しくて悲しかったから、次女をこの国境大門で見送るなどできなかったのだ。
「……ロレッタ」
二家が去り、聖職者と聖騎士が去り、通常勤務の騎士たちが戻って来るまで、アビントン子爵は俯いたまま座り込んでいた。呆然としており、長男や御者の声も届いていない様子で、騎士たちの手を借りて馬車に強引に乗せて彼らは立ち去った。
西側国境大門広場には、アビントン子爵令嬢の着ていたワンピースドレスと靴が入っていた小さな木箱がポツンと残された。
「……お疲れ、交代の時間だ」
「ああ、お疲れさん」
大門の警備を担当している騎士たちは交代時間を迎え、交代する。引継ぎの内容を確認し、警備担当の持つ槍を引き渡した。
「十三時三十分、交代を完了する」
「交代、完了。……あ、広場に小さな木箱が置いてあるんだよ。たぶん、午前中に教会の連中が広場を使ったときの物だと思うんだが、片付けておいてくれないか?」
「ああ、わかった。その木箱、捨ててしまっていいのか?」
「中身はカラのようだからいいと思うが、中身のあるなしだけ確認してから捨ててくれ」
「了解。じゃあ、お先に」
交代した騎士は言われた通り広場に向かうと、ポツンと置かれている木箱に近付いた。
小さな木箱に何も入っていないことを確認すると、騎士はそれを拾い上げる。そして、休憩所の裏にあるごみ捨て場に捨てた。
その木箱に入っていたワンピースドレスと靴、それがロレッタと家族を繋いでいた最後の品であったことを知る者は、誰もいなくなった。
― ** ―
タッカー公爵領は国でも指折りの豊かな土地柄である。しかしながら最初からここまで豊かな土地だったわけではない、ここ十年で豊かに成長したのだ。
広大な領地には果樹園と菜園が広がり、新鮮な果物と野菜だけではなく、それらを使った加工品が多く生産されて全国に流通している。特に果物のジャムと野菜ペーストが人気の品だ。
領地南側にある鉱山は良質な銀が採掘される。その銀を使った食器や装飾品は、美しく上品で贈り物としても有名だ。ここ最近は嫁入り道具の一つとしても重宝されるようにもなった。
さらに涼しい気候と美しい湖と平原を持つ避暑地としての顔も持ち、大勢の人たちが夏の休暇を過ごすために訪れるようになった。大勢の旅行客を受け入れるための宿泊施設、飲食店、土産物屋などができて領地の北側は観光地として成り立っている。
野菜と果物からなる食品類、銀を使った装飾品や食器類の産地、観光地としての顔を持つタッカー公爵領。この地を豊かな領地としたのは、公爵家に婿入りした王弟の庶子だという令息だ。彼が領主代行として着任してから徐々に領地は大きく発展し、豊かさを手に入れた。その事実はこの国に生きている大人ならば皆が知っている。
「なんでかなぁ」
領主館の執務室で収支報告書に目を通し、机に肘をついた若き公爵は呟いた。
「なんでこうなるかなぁ」
「……テオ様」
「お祖母様はさ、僕のことを考えてるっていうけどさ、確実に僕の邪魔をしてるよね? そうとしか言いようがないんだけど。この間お祖母様の言い分に我慢の限界を迎えてさ、はっきりそう言ったらぎゃーぎゃー騒いで煩いったらなかったよ。人の言葉も聞けないなんて、昔からそういう人だったけど年取って酷くなる一方だ」
ため息をつき、公爵という爵位を若干二十歳で祖父から受け継いだテオ・タッカーは、領地の領主館付き執事アルフレッドの淹れた紅茶に手を伸ばした。
「テオ様、大奥様にそんなことを……」
「この十三年、レナード叔父上がこの領地を運営してここまでに成長させたんだよ? 領地からタッカー家にどれだけの金が入って来るようになったと思う? そうしたのはお祖父様じゃない、レナード叔父上だ。その金でドレスやら装飾品やらを買って、パーティーを開いて、美味しいものを食べて、バカみたいな値段の化粧品を買って贅沢してるのが、お祖母様だ」
カップの紅茶を半分ほど飲み干すと、テオは大きく息を吐く。
「領地を豊かにして、金を稼いでくれているその人をさ、罵詈雑言を投げつけて辞めさせるとか、わけがわからない! 感謝しなければいけない人だっていうのに!」
前公爵夫人にとって、レナードの存在が面白くないことはテオにだってわかる。
夫が自分以外の女性に手を出して産ませた子どもだ。しかも、自分が生んだ二人の息子より学校の成績が上位で、三人並べば最も祖父に似た外見をしている。髪や瞳の色も顔立ち、声も全てがだ。
さらに、この国では「夫婦神に認められ、期待されている人物」とされる花紋まで持っているのだ。憎たらしくも思うだろう。
さらにさらに、夫である人は妾にした男爵令嬢を今でも想っているらしく、自ら育てた花を持って墓参りを欠かさない。
妾の生んだ息子についても、公爵家と正妻の顔を立てて表立って可愛がりはしないものの、不自由のないように手配していたし、学業成績や武術訓練の結果を自慢に思っていたようだった。
夫を愛している妻としては、継子を憎たらしく思うのも仕方がないのかもしれない。
前侯爵夫人に気を遣ってか、レナードはずっと公爵家の者たちと交流も持たず、なにも言わず離れて静かに暮らしていた。幼かったレナードが出来る全てだったとテオは思う。
「僕だって公爵になったんだから、領地のことは知らなくちゃいけないし、僕自身が運営しなくちゃいけないって思ってるよ? でもさ、いきなり追放はないんじゃない? レナード叔父上の下について、引継ぎをしながら勉強させて貰うのが一番早くて確実なのは誰でもわかることだよね。それなのに、それなのにさぁ、なんでこうなるかなぁ」
後から聞いたところによれば、祖母である前公爵夫人が領主代行であることも、領地に留まることも許さなかった。聞くに堪えないような言葉でもって、十数年間真面目に領主代行業務を行っていた継子を罵倒したらしい。
――前公爵夫人は三十数年たっても、まだ夫の妾が産んだ子の存在が許せないらしい。女の悋気は本当に恐ろしい。
――前侯爵夫人は貴族の生まれであるにも関わらず、継子一人受け入れる度量がなかった。こんなに領地のため、公爵家のために働いたというのに、領主代行様が本当にお可哀そうだ。
――前公爵様のお妾様が病死したっていうのは本当なのか? 前侯爵夫人に毒でも盛られて亡くなったんじゃないのか? その方が納得いくね。
そんな話が領地で囁かれた。
――タッカー公爵家には三人の男子が生まれましたけれど、一番優秀なのは誰なのかしら?
――花紋を持って、王弟殿下に一番似たお顔立ちで、学業も武芸も優秀なのはねぇ……
――父親が同じなのですもの、違いは母親しかないわよね。公爵令嬢と男爵令嬢の違いよ。
――一番優秀な子の母親は、誰かしら?
そんな話が王都の夜会やお茶会で囁かれた。
それらを耳にした夫人がその都度激怒して、茶器やクッションなどを壊すほど癇癪を起していたことは良く覚えている。よくあること、だったからだ。
テオは机の引き出しに入っていた引継ぎ内容が書かれた分厚い五冊のノートを手に取ると、ページを捲った。五冊のうち三冊は領主の仕事、二冊は領主夫人の仕事について、びっしりと引継ぎ内容が書き込まれている。
このノートを読み、内容を理解して実践すればとりあえず領地経営で大きく躓くことはないだろう。けれども、それでもだ、やはり二年や三年は側にいて実際の経営を見せてほしかったとテオは思う……甘えだといわれても構わないから、レナード夫妻にいてほしかった。
叔父と叔母の結婚記念日には領地全土を挙げての〝領主代行様の第○○回ご結婚記念祭り〟が毎年が開催され、三日三晩の祭りが毎年開催される。他にも誕生日だの子どもが生まれただの子どもの誕生日だのと、何かにつけて領民たちは領主代行夫妻を祝おうとするのだ。
それだけ領民に慕われている領主夫妻は国中を探しても他にいないだろう……そんな領主夫妻であった叔父の後を婚約者と共に継ぐのだ。比べられて評価が辛くなるのは目に見えている。正直、気が重たいし憂鬱だ。だからこそ、数年は一緒に仕事をしてほしかった。
だというのにレナードは公爵が爵位を譲ると、公爵になったばかりのテオの気も知らずあっさりと領主代行の座を降り、タッカー家の籍からも抜けて平民になると妻子を連れて領地から去って行ってしまった。
テオが引き留める隙もなかった。
「アルフレッド」
「はい、なんでしょう?」
「レナード叔父上は……どこに行っちゃったんだろうね? せめて、この街で暮らしてくれたらよかったのに」
五冊のノートをペラペラと捲りながら、若き公爵は呟く。
「レナード様はテオ様が爵位を継いだ後、こうなることをわかっておられました。そのための準備を何年も前からずっとなさっていたのですよ」
「でも……叔父上には奥様も子どももいたんだから、そんな早く出て行くことないだろうに」
テオにとって叔父のレナードは頼りになる人物だった。広大な公爵家の領地を治め、加工品の販売や新しい作物の栽培などに着手し、観光地も作り、銀製品の販路も広げて利益を着実にあげていたのだ。
幼いころに亡くなった両親、近衛騎士として働き滅多に帰って来ない二番目の叔父よりも、夏と冬の休暇で領地に行けば、歓迎してくれる三番目の叔父夫婦の方がテオにとっては親しい親戚(親代わりである祖父母は口煩い家族だ。特に祖母)でもあった。
本人もその妻も表情豊かとはいえず、お喋りではなかった。しかしながら、異母兄の残した甥で微妙な関係であるにも関わらず、いつも歓迎してくれ可愛がって貰ったことは素直に嬉しかったのだ。テオは勝手にレナード夫婦と従弟とも親しいのだと思っていた。
だからこそ、いなくなってしまったことが辛い。
「ご夫婦で相談の上、テオ様が爵位を継いだときには領地から出て行くことも、貴族籍から抜けることも決めておられたのですよ。あのお二人は花紋の番でいらっしゃいましたけれど、なんでも感覚でこなす方々とは違いましたよ。いつでも話し合って問題を解決していらっしゃいました。大奥様のことは関係ございません」
「そっか、叔父上夫婦は花紋の番だったね」
「はい。あのお二人は運命ではありましたが、……いろいろな事情を抱えた者同士でもいらっしゃいました。花紋の番であることに胡坐はかかず、お互いを大切にするために言葉や態度全てを使って分かり合う努力をなさっていらした。そのお二人が出した答えなのです」
「……その夫婦間で行われた綿密な話し合いの末に出した答えが、爵位を継いだばかりの新米公爵である僕を置いて家族で領地から出て行くことなわけ?」
テオは机に突っ伏すと「酷いよぉ~」と叫んだ。
情けなさを隠そうともしない声に被るように扉がノックされ、クリームイエローの可愛らしいドレスを纏った人物が滑るように入室する。
「なにが酷いの? なぜテオは机に突っ伏して情けない声をあげているの?」
「イヴェット! 聞いてよ、レナード叔父上とロレッタ叔母上がいなくなっちゃったんだよ! この引継ぎノートだけ残してさぁ、酷いと思わない!?」
「酷いって、あなたが公爵なんだから、あなたがやるべき仕事でしょう。でも、……最低でも一年くらいはお二人が領地にいてくださればって、私も思っていたのよねぇ」
「だよね!? 叔父上、叔母上、どこいっちゃたのさ~」
「ちょっとテオ、しっかりしてよ! 私だって不安が全くないわけではないのよ!?」
婚約者に泣きつくテオ、それを慰めながら叱咤するしっかり者の令嬢と評判のイヴェット。この二人のやり取りは屋敷にいる者にとってはもう見慣れたものだ。
アルフレッドは、騒いでいる二人に向き合った。
「さあ、じゃれ合いはそこまでにしてください」
パンパンと手を叩けば、テオとイヴェットは大人しくそれぞれに分厚い引継ぎノートと、自分のメモ帳とペンを持って執務机の前に用意されているソファセットに座る。
「本日ここに集まっていただいた目的をお忘れではないですよね? 婚約者同士の交流は、後でお願いいたします」
「わ、わかってるよ、アルフレッド。でもさ、本当にレナード叔父上たちってば酷いじゃないか」
「……お二人には、レナード様より助言を含んだ言伝をお預かりしております」
「本当!?」
若き公爵とその婚約者は嬉しそうに顔を見合わせた。
「叔父上はなんて!?」
「それは後ほどお伝えいたします。まずは、お二人でそちらの引継ぎノートをよく読み、理解し、今後の領地経営の大まかな指針を決めていただきます」
前任者からの助言は後で、といわれてガッカリした二人はそれぞれに分厚いノートを手に取ると内容を読み始める。元々勉強家で、能力はしっかりとある二人だ。慣れないことばかりで手間取ることはあっても、大丈夫だろう。
領主代行の任を終え平民という立場になった後はどうするのか聞いたアルフレッドに、レナードは過去一番の笑顔で「海が見てみたいとロレッタが言ったから、海の見える街で暮らす予定だ」と言った。
きっと今頃は海の見えるどこかの街に向かって移動しているか、到着した頃だろうかと想像する。
花紋の番として出会ったレナードとロレッタ。彼らはこの街で十三年間領主代理とその夫人としての責務を果たしながら暮らした。それは楽しいことばかりではなく、辛く苦しいこと(主に公爵本家、さらに絞るのなら公爵夫人の言うことやること、他にも領地・領民のトラブル)も多かった生活であった。
それを二人で話し合い協力し、乗り越えて、新しい当主とその夫人に全てを譲ったのだ。
きっと、この先の人生は煩わしいしがらみから解放され、家族そろって穏やかに静かに暮らして行くのだろう。彼らの穏やかで優しい時間が終生続けばいいと老執事は願う。
アルフレッドは新しくお茶を淹れる準備を始めた。
――テオにはイヴェットが、イヴェットにはテオがいるから、私がいなくても大丈夫だ。二人で話し合えば、必ずうまくやれる。私とロレッタがそうであったように、テオとイヴェットもやれる。花紋の番という目に見える縁ではないが、あの二人も強い縁で結ばれている……私も妻もそう信じているから。
このレナードの言葉を伝えたとき、二人がどんな反応をするのだろう。
執務室には三年前からタッカー領特産になった、果物のように甘い紅茶の香りが漂い始めていた。
お読み下さりありがとうございます。
……書きたい内容を短くまとめることは、とても難しいことでございます。
とっ散らかってしまって、予定を大幅に越えてずるずる長くなってしまい、長くなったわりに半端な感じになりました……(トホ)
少しでも楽しんで頂けましたら嬉しいです。