4 コンビニで買い物した後
もう何度目の嘔吐になるか分からない。真夜中の住宅街で盛大にぶちまける。
カエルとダチョウの鳴き声を足して二で割ったような喘ぎ声が出る。グッ、グゥッ、ウグッ、とみっともなく。
辛うじて大阪市には着いたが、感慨に耽ったりする余裕は一切ない。……ただひたすら側溝に向かって跪くだけの俺である。
……ある程度落ち着いてきたら、……ようやく、周囲を窺う余裕が出てくる。
アパートにマンションに建ち並んでいるが、人はまばらの住宅街。あくまでもベッドタウンというか、流しではまず通らないエリアだ。
そして、やや距離を離した先には、先ほどまで俺が運転していた車があり、その後部座席を彼岸が物色している。こちらの惨状には目もくれずに。
まあ、これが初めての嘔吐でもないのだから仕方ない。……道中、どう頑張ってもこれ以上は胃に入らないとなった折に、駄目元で「吐いてもいいですか」と聞いて、思いの外スンナリ了承されてから、かれこれ五回は彼女の前で嘔吐したのだから。
「残さず食べきれたようですね。座席も汚れていません」
どうやら物色が終わったようだ。……が、それどころではない。また吐き気の波が来た。
俺は再び側溝に向き直る。ぶちまける。
すると隣に彼岸が来て、そのまましゃがみ込み、
「初仕事としては上出来でしょう。よく頑張りました」
と労いつつ、地面にひれ伏している俺の頭を撫でてきた。
……情緒の分からない人間に心底恐れおののく反面、お袋に背中をさすってもらっている時のような安心感もしてくるのだから不思議だ。
不思議と言えば、背中を擦るのではなく頭を撫でてきているという、座標的なズレについてもそうである(胃袋はそこには無い)。
とにかく、……俺は、もう何度目かになって手順も弁えているから、ちゃんと新品の天然水を持って来ている。
ペットボトルから口を付けずに水を含み、すすいでは吐いてを、空になるまで繰り返す。
呼吸が整ってきたら、地面に座り込み、……隣でしゃがんでいる彼岸に問うた。
「……普通の大食い大会なら失格だと思うんですよ。どれだけ胃に詰めても、吐いてしまった時点で」
「あくまで鍛錬です。今回の挑戦を通じて大食いプレイヤーとして一皮剥けて頂ければそれで充分だったのです」
彼岸は立ち上がる。白のロングコートが風になびく。
「俺、これから大食い選手としてやっていかされるんですか?」
「いずれ分かることです。どうしてもすぐ気になるのであれば別の者から聞きなさい」
「……別の者?」
「いくらか気分は回復したように見えますが?」
いつまで休んでやがるんだという意味だ。……まあ俺もこの熱帯夜の中、脂汗をかきながら居座っている理由はない。
俺はよろめきつつ立ち上がる。それを待たずに彼岸は、車とは逆方向に歩いて行く。
目的地の方向ではある。車を使うまでの距離ではないという判断か。慌てて後についていく。
「今からあなたの先輩にあたる者と会わせます。これからはその者に付かせますので、不明な点なども今後はその者から聞くようにしなさい」
「……今さらですけど、組織で活動されているんですね。先輩がいらっしゃるということは」
「ええ。まあ組織というよりは同志ですがね」
「……今から向かうアパートは、つまりその拠点というかアジトというか、……そういう施設になるんですか?」
「いえ、我々はこれと決まった集合拠点を持ちません。住まう所も活動する場もバラバラです。……アパートはアパートです。今から会わせる者がそこに住んでいるというだけに過ぎません」
先に名前だけでも紹介しておきましょうか。と、彼岸。
「コクビャクエビゾウ。それが彼の名です。……黒と白に海産物の海老、冷蔵庫の蔵と書いて黒白海老蔵。……苗字は黒白までで、海老蔵が下の名です」
コクビャクエビゾウ、黒白海老蔵。
忘れないよう反復する。メモするためのスマホが無いのがもどかしい。
「ブラックタイガーなどと呼ばれることもあるそうです。白黒の海老だからという理由で」
返しに困る。相手が友達なら全然そんなことはないのだが、彼岸なので。
適当に相槌を打ったり、俺もプリン髪なので虎みたいなものですねと言ったりだとか、ひたすら地獄のような時間になる。誰も望まない地獄。
「着きました」
二人並んで見上げるのは、「旧式」といった具合の二階建てアパートである。
ディンクス南住吉。赤レンガとコンクリートを半々ずつ使っており、支柱は雨風に曝された薄緑色。配管やガスメーターは外側に剥き出しになって錆びており、物干し竿が玄関のドアのすぐ前にある。ベランダとかは無いのだろうか。白色蛍光灯で無機質に照らされている。
俺の住んでいた物件とどっこいどっこいである。……というか、今さらだが俺のアパートの引き払いとかはどうするんだろうか。本当に何らの手続きもなく拉致された形になるのだが、法的な手続きとかは一体、云々。
彼岸は一階左から二番目の、すりガラス製の玄関をガンガンとノックする。ドアホンは無いようだ。
ほどなくして部屋の中から、「はいはーい」と若い女性の声がする。
……若い女性?
黒白海老蔵は男じゃないのか? 彼岸も「彼」と呼んでいたはずだが…………。
ガラガラガラと、ガラス戸が横に滑る。
現れたのは、「式長」という名札の付いたスクール水着を着用した、百八十センチメートルはあろうかと思われる長身の、スレンダーな美女だった。小脇には浮き輪を抱え、シュノーケルに使うような筒の付いたゴーグルをしており、黒髪ロングの頭から爪先までずぶ濡れだった。
また、太ももの内側に重点的にキスマークがあった。
「……………………………………………………」
互いに沈黙する。睨み合う。
顔面にでかでかと傷の入った血塗れの男と、世にも奇怪な変態痴女とが向き合い、「なんだこの変人は」と訝しみ合っている形になる。
だから彼岸が口火を切る。真夏にロングコートの変人が。
「黒白は居ますか? 我々は彼に用があって来たのですが」
式長(シキチョウ? シキナガ?)はゴーグルを額にズラし、目を細めて俺と彼岸とを見比べる。「むむむ」といった調子で、唇をへの字にして。
そして、無言のまま部屋の方に振り向くと、大声で呼びかける。
「海老ちゃーん! 変なん来とるけどー!」
すると海老ちゃんと呼ばれた男は、思いのほか近距離の前方二メートル以内から、
「はいはーい! 今出るから待っとってー!」
若い男性の声で、快活に返事した。
程なくして滝のごとく水の流れる音がする。トイレ中だったのだろうか。
左奥の扉が開き、ピチャピチャと水気を含んだ足音が近付いてくる。姿を現す。
式長の隣に並んだのは、これまた長身の男である。百九十センチはいかないほどだが。
こちらも、スク水ではないにしても海パンである。……筋骨隆々で色白の、童顔の男。黒髪をウルフカットにしており、全身に水滴が垂れていた。
海老ちゃんと呼ばれた男。推定するに、彼こそが黒白海老蔵。二十代半ばだろうか。大学生のようにも見える。
「もーどないしたん? 変なんってゆーてもどうせ………………」
大男は式長の腰に手を回してからようやくこちらに向き、それまで緩み切っていた顔が一気に硬直すると、後頭部を掻きつつぎこちなく笑み、
「あ、……お疲れ様です、ボス。……どないしはったんですか? こない夜分遅くに」
大層気まずそうである。彼岸は彼岸で、事前に連絡とかしなかったのだろうな。
「お邪魔でしたか? 日を改めましょうか」
彼岸が、どこまで本気なのか提案すると、……式長は大男に抱きつきつつ、「人のプレイ中に何このおねーさん。浮気相手?」と唇を尖らせる。大男は引きつった顔のまま乾いた笑いをし、「ごめんやけどまた今度にしよか。もっとええプレイ考えとくから、な?」と肩を優しく叩く。「よっぽどやなかったら満足せんからね」と式長はプリプリしつつ、部屋の奥に消えて行った。向こうに裏口でもあるのだろうか。
「手短に話します」
彼岸は五本指を伸ばして揃える、手刀のような塩梅で俺を指しつつ、玄関先で紹介する。
「こちらは牛護金次です。顔面の傷と血塗れなのは気にしなくて構いません。前職はタクシードライバーで、少なくとも八名を『怠惰の同意』によって殺害しています。本日より我が同志の一人に加わり、しばらくはあなたの直属の後輩として運用します。明日からは二人で行動を共にし、例の計画に臨みなさい。なお、住む場所が決まっていないため臨時でこの部屋に同棲させることにします。具体的な詳細については黒白の方から説明しなさい。私は長旅で疲れたのでこれで失礼します。夜分遅くに大変ご迷惑をおかけいたしました」
そして去っていった。……交差点を曲がり、もう姿は見えない。
背後で足音がする。……水気を含んだピチャピチャという音が、途中からサンダルを履いている時のようなヌッチャヌッチャという靴音になり、すぐそこまで来たかと思うと黒白は肩を組んできた。
相手の体表の水分がワイシャツに染みて、身震いする。圧倒的な重量感と体格差に怯える。
恐る恐る見上げると、黒白は分厚い瞼を三日月形にして笑み、
「とりあえず風呂入りましょか。おにーさんもそない血塗れやと気持ち悪いでしょ」
有無を言わさぬ迫力で覗き込んできた。
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