Ⅰ 我覚
ガン萎えだ。不愉快である。
私は元の部屋に戻り、冷水の入ったコップ片手に鏡張りの壁と向き合って、己の顔面の傷を撫でつつ萎えている。……紛れもない。これは本物の傷だ。
知らぬ間にどこまでエキサイトしてしまったのだ、私は。
己の自制心の無さにほとほと呆れる。……私は嘆息しつつソファに腰を下ろす。
真四角の机を何個も繋げて長机にした上には、空き瓶に空き缶、紙や粉が散らかっている。
うっかりやり過ぎてしまったのだ。自分自身の顔面に一生モノの傷を残したことすら丸ごと忘れるほどに。違法薬物の数々を。
……思えば、私はどこからの記憶を失くしているのだろうか?
頭痛が引くまでここから動く気にもならない。暇潰しがてらここに至るまでの経緯を遡ってみようか。
私の名は志知久修一。
男、二十代後半、根暗。
金と時間とを持て余しているが精神を病んでいるので、定期的にやりたい放題しないと発狂してしまう。
そのため、私は月末の一週間は自宅から離れて、この廃カラオケ店の一室に籠ることにしている。
ここで思う存分に鬱憤を晴らし、青天井の清々しい気持ちに返り咲くということを私はしている。
私はこの習慣を、カーニバルと名付けて楽しんでいる。
何事にも名前は付けておくに越したことはないという価値観を、私は持っているからだ。
そして、私は今月もその例に漏れず、八月二十五日の朝方にタクシーを呼んで、そして後部座席に乗り込むと…………………………。
ふむ。
ここからの記憶が抜け落ちている。そこが私の最後の記憶だ。
スマホを点けて日時を確認する。
八月の三十一日。カーニバルに耽り始めてから一週間。
一週間分の記憶が丸ごとごっそり抜け落ちていることになる。
が、……でも、抜け落ちてしまったのならどうしようもないか。
私は立ち上がる。
頭痛が引くまで動きたくないという感じだったが、ジッとしているのにも飽きてきた頃合いだし、仕方あるまい。
腕を伸ばして壁掛け電話を取る。自動的に繫がり、
「ご退室でございますか」と聞かれるから、
「うん。後はお願いします」と返す。
……あれ。
私ってこんな声だったっけ。……いや、喉が潰れているだけか。
「かしこまりました」と電話越しの彼も普段通りだし、特に気にするまい。
私は電話を元に戻し、部屋を出ようと思うが、身支度をしている時に鏡を見て、
「これでは悪目立ちするな」と思う。
また電話をかけ直し、しばらく滞在する旨を伝える。
私はキャリーバックの中から化粧道具を取り出し、傷を隠してみる。
かなり時間はかかったものの、相当じっくり見ないと分からない程度には誤魔化せた。出来栄えの良さに笑みが浮かぶ。
さて、そしたら気を取り直して外に出よう。
私は電話をかけて、今度こそ退室する旨を伝え、鍵を開けて部屋から出る。
赤と黒とが織りなすカラオケ店の廊下。
夕方なのに真っ暗。当たり前だ、廃業しているんだから。
階段を上り、スタッフルームに入って、裏口から出る。
目の前にはビルの裏側。換気扇やゴミ箱などが犇めく雑多空間の中で一人、
「このまま帰宅するというのも味気ないな」と思う。
羽目を外しにわざわざ奈良から大阪に出てきたのに、記憶飛ばして終わりではね。……そんなの、来ていないのと同じだ。何かしてから帰らないと。
「……呑みに行こうかな。せっかく大阪まで来たんだし」
私は表通りに出る。日は傾いているがまだ明るい。街中をわんさかと人が出歩いている。
大阪の街はゴチャゴチャしていて疲れる。こうして立っているだけでも気怠くなってくるが、そのぶん滅茶苦茶なことをしてもバレにくい。そこは重宝している。
私はSNSアプリを開き、音声通話をかける。
十秒くらいしてから、
「はぁい、小林ですけどぉ」というおっとりした声が電話越し。私は心底から安堵する。
彼女は使用人の小林さんである。私の身の回りの世話をしてくれる方だ。
私は歩行者天国から離れつつ通話する。ここだとタクシーが拾いにくい。
「お久しぶりです。一週間休めましたか?」
「はい、それはもう大変ゆっくりさせていただきました。……今日はお帰りになられる日ですよね?」
「はい、そのつもりだったんですけど、ちょっと帰るのが遅くなりそうで」
「そうなんですねぇ。ではお夕飯の方はどうしましょう」
「もう作っているようでしたら残しておいて下さい。明日の朝に食べるので」
「分かりましたぁ。ではそのようにいたします」
事務連絡が済み、私は電話を切る。
ちょうど空車のタクシーが見つかる。手を上げて停め、キャリーバックをトランクに乗せてもらい、私は後部座席に乗り込む。
「どちらまで」と聞かれ、
「【辰砂】というパーまでお願いします」と依頼した。
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