19 黒白と昔話をした後
俺は彼女の隣に座り、水戸角が不在の間に起きた出来事を共有した。
黒白の精神が壊れていたことについて話すと、彼女は「もっと労わってあげるべきだったのかな」と反省し、その黒白に家の中が滅茶苦茶にされている事実について報告すると、「どうせ引っ越すつもりだったからいいよ」と激さず、黒白円の死は彼岸の企図であったらしいことを告げると、
「自分のミスを認めたくないだけじゃないの。知らんけど」
と淡白に感想し、……一貫して冷静な反応を見せていた。
というか、話半分に聞いている感じだった。
察するに、我々が式長だと思って接していた人物が実は黒白の妹だったということについて聞かされてから、他の一切のトピックスがどうでもよくなるほどに考え込んでいたのだろう。……その兄妹愛兼慈愛兼恋愛兼性愛について。苦い顔で床を見つめながら。
「なんかさ」
水戸角は足を伸ばし、投げやりな調子で愚痴る。
「今までのウチの人生にはなかった出来事ばっか立て続けに重なって、どんな気持ちでいたらええのか分からんよ」
「……ああ、分かるかも。なんか呆然としちゃうよね」
俺は襟元をバタバタと引っ張り空気を送り込む。
蒸し暑い車内に対座ベンチシート。……外装こそ平均的なマイクロバスだが、中身は護送車そのものである。出発前から俺は既にゲンナリしていた。
「ウチはさ、ただ街中歩きよってん」
水戸角側の出来事が語られる。
「ほんなら、お昼時の駅前やったのに段々と周りから人がおらんくなっていって、……これはなんか只事とちゃうな思て、家に戻ろか電車で移動しよかとか考えとったら、このバスに道を塞がれて、……彼岸が降りてきて、同行するよう言われた」
「移動中は何か話とかした?」
いいや、と首を横に振る水戸角。
「そらウチかて、どこに移動するのかとか、あの隅っこの方で麻袋被せられとんのは誰なんかとか聞いてみたけど、……全部無視された。『後で話すから』の一点張り。かっこよすぎ」
「しりとりする?」
「拉致」
「チケット」
「時計」
「畏怖」
「不和」
ピッピッピという電子音と共に、スライドドアが開く。
彼岸が一番に入り、
その次に黒白。……彼特有のチンピラ式コーデだが着こなしはボロボロ。さっきと比べたら落ち着いてはいるものの、彼岸を横目で睨んでいる。両手首を前で縛られている。麻縄で。
最後に少年が入ってくる。
さっき見た時のまま変わっていない。無傷。いよいよ底が知れない。
「出しなさい」と彼岸が号令をかけると、車は即座に出発する。
真ん中の黒白は多少フラつくがすぐ直立し、左右の彼岸と少年は微動だにしない。
「水戸角美兎の入会を正式に認めます。今までは黒白の独断による仮入会扱いでしたが」
いきなりの彼岸の宣言に水戸角は両目をパチクリし、ロクに返事もし得ないままでいる彼女をよそに、彼岸は次の話題を展開する。
褐色肌の少年を手刀のような指し方で示しつつ、
「こちらはナランと言います。某国の戦闘民族出身の白兵戦に秀でた戦士です」と紹介する。
続いて、黒白を卓越した扮装技術の持ち主と紹介し、自身を超越会の総括と名乗った後、
「あなた方三名が身を隠している間、我々は二人の人間を拉致し得ました」
麻袋を被せられた二人組に歩み寄りつつ語る。
「此度の計画を完遂するために必須のキーマン。……一週間で探し出し、拐かす算段までつけられたのは僥倖の至りです。彼女にはうんと報酬を弾まねば」
手前の人間から麻袋を外し、床に捨てる。
手と足を縛られているにしては随分と安らかに両目を瞑っているのは、虚弱そうな成人男性だった。
黒髪ボブで前髪は重く、白い肌。二重瞼で鼻は高く、ワイシャツとスラックスに革靴という社会人スタイルの上から、薄っぺらいローブのような黒い布を羽織っている。ネクタイはしていない。
魔法学校の生徒のような見た目だったが、見た感じ二十代後半くらいで生徒という年齢ではないし、魔法などこの世に存在しない。彼の個人的な趣味嗜好なのだろう。
何者なのかはさっぱり見当もつかない。正直、「彼がキーマンなのか?」と疑わしく思う。
彼岸が、こちらについてはポケットに手を突っ込んだまま紹介する。
「シチクシュウイチ、二十八歳独身。東京の大手総合不動産会社の社長令息として生まれ育ち、しかしとある事情から親類全員と絶縁状態になり、現在は奈良県の山奥で使用人の中年女性と二人暮らしをしている。ベジタリアンで自傷癖があり、今まで職に就いたことがない」
そして、冷ややかな眼差しを俺に向けると、
「あなたにはこの者になり代わっていただきます」
有無を言わさない物言いで命じた。
「……なり代わって何をしろと?」
「なり代わった後に自ずと分かるはずです。……まあ、帰ってこられたらの話ですが」
何やら観念的な話をされ、頷くにも頷けぬ。帰ってくるとは? どこからどこへ?
「今のあなたがしているような、表面上だけのなり代わりではないということです。これからする扮装は」
彼岸は、運転席の真後ろらへんに設置されている、歩行器のような小さくて簡素なラックの前に立ち、我々に背を向けてカチャカチャと軽やかな金属音を出す。
振り返ると、右手には注射器が握られていた。
「この注射によって牛護を半覚醒状態にし、自意識が弱まっている隙にシチクの人格をコピーさせます。これにより覚醒後の牛護は自らをシチクと自認するようになり、牛護としての人格ならびに記憶は忘却される予定です。また外見に関しては黒白の扮装術で似せたいところですが、一時的扮装は今回の計画と相性が悪いため却下し、形成外科手術による永続的扮装を採用することに決めました。外科手術は担当の超越会員と合流してからになりますのでまずは人格コピーの方から進めます。左右どちらでも構わないので腕を捲って手の平を上にしてください」
「有り得ん」
と水戸角が呟くのに対し、彼岸は首を横に振って答える。
「それが有り得るのです。人道倫理を超越した方法で長期間にわたり暗示をかけていくことで、他者の人格を完全にコピーさせるというこの精神扮装術は過去にいくつもの成功例が」「そういう意味とちゃうやろ。……話通じんやっちゃなホンマ」
呆れた風な抑揚で遮りつつ、水戸角は彼岸を睨みつける。が、
「私は話が通じない人間です」
彼岸は堂々とするだけだった。
これには水戸角もポカンとした後、溜め息をして声も出ず、……俺の顔を覗き込み、「言ってやれ」という具合に彼岸を顎で示すばかりだった。
何を?
俺は思う。
俺が何か言うことで、この先の展開は変わるのか?
本心では、俺はもう彼岸の指示に従いたくない。
当初、俺は極性同意で八人殺してしまったことの贖罪として、彼岸に付き従うことを望んだ。……彼女に暴虐の限りを尽くされ、最期に出来るだけ残虐な方法で殺されることが、彼らへの償いになると思っていた。
だが、いざ蓋を開けてみたら、……全くそんなことはなかったのだ。
彼女は計画のためなら無辜の一般市民を殺してもいいと思っているし、部下が廃人と化してしまってもいいと思っている。……超越会の活動に参加していれば、俺は最終的に彼岸に虐殺してもらえるのだろうが、それまでの間に彼女によってもたらされる理不尽な暴力や殺人の数々を、見て見ぬフリしたり加担したりしなければならないのだと思うと、……それならもう、俺は自殺した方がよっぽど贖罪になるだろうと思う。許されるのならば、是非ともそうしたいところだった。
だが、ここで俺が、「超越会の取り組みにはもう協力できません」と、「自殺するので車から降ろしてください」と言ったところで、……その先の展開は、何ら変わらないに決まっているのだ。
こちらからの要望は一切無視され、何かアクションを起こそうものならナランに抑え込まれ、……俺が自殺を企てようものなら、きっと水戸角か黒白かを人質にされる。「あなたが死ねば彼らを殺します」と。
盤面は詰んでいる。これからの展開に俺の意思は無関係だ。
俺の発言も行動も、これからの展開には何らの影響も齎さない。そうに決まっている。
俺は立ち上がり、右腕を肘まで腕捲りする。
水戸角が立ち上がったり、肩を掴みつつ引き留めようと声をかけたりしてくるが、俺の意識はそちらを向いていない。
彼岸は俺の手を取り、注射針を刺そうとする。
それを俺は、左手で払った。
注射器は床に落下し、砕けない。もう一度拾えば問題なく使えるだろう。衛生面など元より配慮していないだろうし、つまり無意味な抵抗だ。
次の瞬間、視界の隅で何かが俊敏に動き、反射的に左を向くとすぐ目の前にナランが迫っており、防御する間もなく俺の左脇腹に飛び蹴りが命中する。ハンマーで殴られたような衝撃がズドンと伝わり、俺は落ち葉のように床を転がり滑って、そこからの意識が朦朧としている。自分がうつ伏せで倒れていることと、全身が痛むことだけは分かる。
前方を睨むと、霞んだ視界のピントが徐々に合っていく。
ナランが怒った表情でこちらに向かってくるのが分かる。俺が彼岸に従わなかったことか、あるいは軽微な暴力を加えたことが、とにかく気に食わなかったらしい。跳び蹴り一発で勘弁とはならないようだ。
その背中を、黒白が後ろから殴りかかろうとしている。これは可愛い後輩のピンチを助けてやるという先輩の気概というよりは、俺が黒白円の格好をしているからだろう。この見た目をした人間が痛い目に遭う様を見たくないからという理由の方がしっくりくる。
が、黒白の奇襲は躱され、ナランは反撃に転じる。水戸角は俺の身を心配してくれている風だったが、黒白とナランの取っ組み合いに阻まれていた。
彼岸は岩の裏でも見るように、足で俺を蹴り転がして仰向けにさせ、
「なぜ反発するのですか? 意味などないのに」
苛立ってもない。心底不思議だと言わんばかり、首をオーバー気味に傾げて俺を見下ろしている。右手には注射器をぶら下げている。
なぜ。
「……なぜでしょうね。俺にも分かりません」
「…………………………」
彼岸は釈然としないという風な表情を浮かべるが、取り合うに値しないと判断したのだろう、片膝立ちになって俺の左腕を取り、袖を捲って注射針を刺した。得体の知れない異物が体内に侵入してくる気味悪さに、全身が粟立つ。
注射針が抜き取られ、彼岸はその場に立ち上がる。
「……拉致した人間、もう一人居ましたよね。……あの人は誰なんですか?」
意識がぼんやりした中、俺は彼岸に尋ねる。
「あなたが知る必要はありません」と返される。
「……さっき、腕時計を見ながら時間を気にしていましたけど、……それって、松本通一帯の人通りが妙に少なかったことと何か関係があるんですか?」
「あなた方と合流するにあたって人払いしていたのですが、アレには時間制限があるのでそのためです」
「あそこ一帯の住民を皆殺しにしたということですか?」
「私は無駄な殺生はしません」
「……どうして眼帯をしているんですか?」
「あなたが知る必要はありません」
「必要か不必要かで言うなら、俺からの質問は全て無視すればいいのでは?」
「タイミングを見計らっているのです。適度に受け答えしつ続けることであなたが睡眠状態に陥らないようにしつつ、然るべき深度まで意識が下降してきた瞬間に暗示をかけるという算段なのです。……言ったでしょう、半覚醒状態下で催眠を行うと」
「………………………………………………………………………………………………」
「なら黙ってやろうと? あまり舐めた態度を取るつもりならこちらにも考えがありますが」
「考えなんてありませんよ、俺には。……考えなんか持つから、動機とかモチベーションとかに支配されてしまうんです。……そうなるくらいなら、思考なんか放棄した方がいい」
「思考から逃げると? 己の殺人行為について思い悩むのを放棄し、愚昧を演じて明朗闊達に生きたいと放言するのですか?」
「……別にそんなことは言って、……いや、言っています。俺は…………………………」
「頃合いですね」
彼岸はコートのポケットから右手を出し、顔の横で指を鳴らしてから、
「〇▼★」
と唱えた。
遠くで寄せて返す波の音が、段々とその勢いを増していき、
甲高い単調な電子音がどこからか聞こえてきて、耳鳴り。アナログテレビの砂嵐のような。
鼓膜が割れそうに錯覚する。離陸寸前の機内。
不安になって顔を起こすと、水戸角も黒白もナラン彼岸も、みんなシチクの顔になっている。
彼が奥二重であることを、俺はそこでようやく知る。
雑音がより一層強まり、次の瞬間、
「君は小説を読むかな?」
俺は、突然の呼びかけにビックリする。
授業中に居眠りをしている時に、急に教師から名指しで「起きろ」と言われたような驚愕。
そして、キョロキョロと周囲を見回すのだが、……そこは全然、俺の知る場所ではなかった。
ざっくり観察した印象としては、大富豪が森の中に建てた別荘のような空間だった。
ログハウス調というか、暖かみのある木材で壁や床が組まれており、吹き抜けがあって広々としており、大きなガラス窓の向こうには青々とした木々が日光を浴びて輝いていて、おまけに棚の上にはさぞ高価そうな骨董品が並んでいる。……大層立派な部屋だなとは思うが、意識が完全に覚醒しきってもなお見覚えのない空間である。……俺はL字型のソファに座っているようだが、ここに至るまでの経緯を思い出せない。さっきまで俺はマイクロバスに乗っていたはずでは?
「無視することはないんじゃないかな。気が動転するのも無理はないと思うけどねぇ」
再度、気の抜けた声で語りかける声がする。
後ろを振り向くと、そこには志知久修一が居た。なぜか漢字の書き方が分かる。
ワイシャツの上からローブを羽織り、エグゼクティブチェアにだらしなく腰掛けて、片足を座面に乗せ、頬杖を突いたまま苦笑いを浮かべていた。片手で文庫本を開いていた。
「……何か、俺に質問しましたか?」
「小説を読むのかって聞いたんだよ、私は君に。……どうなの? 読むの? 読まないの?」
「読みますけど、……それが何か?」
「いや、軽い自己紹介代わりだよ。……そうなんだ。ならそれは私と君との共通点だね」
志知久は椅子から降り、こちらに歩み寄ると、俺の膝の前のローテーブルに文庫本を置いて、俺の隣に腰掛ける。
「どんな小説が好き?」奥二重を弧の字にして笑む。
「……字が詰まっている小説が好きです」
「そこが君の価値基準なんだ。なんで詰まってるほうがいいの?」
「インクがそれだけ使われているということなので、より豪華だから」
「高級志向なんだねー。でも残念、不正解」
志知久は卓上に置いた文庫本を顎で示す。
拾い上げて開いて見ると、その小説はセリフと地の文の間に、必ずと言っていいほど行間が空いていた。
「これはね、大手小説投稿サイトのコンテスト受賞作品なんだ。……ネット小説ではこんな風に、行間をこれでもかと取るのが今や当たり前なんだよ。字が詰まっている小説を有難がるのは時代に取り残された老害だけ。私とそう歳は違わないはずなのにねぇ」
「あなたの考え方が全面的に正しいと?」
「そりゃあそうだよ。君は今から私になるんだから」
ああ、そういえばそういう話だったな。
俺は本を閉じ、机に置き直す。目の前の真っ暗なテレビを向いたまま、「他には?」と。
「そうだなあ」志知久は天井を仰ぎ、
「好きな食べ物は?」こちらを向いて問う。
「肉」
「不正解。私は病気のせいで肉という肉の全てを受け付けないんだ。……趣味は?」
「ギャンブルとサウナとタバコです」
「これはね、私もやらないではないんだ。でもあくまで暇潰しという感じで、趣味とは違うね。……自傷癖は?」
「ないとは言い切れません。最近も自分で顔の傷を開きましたし」
「三角かな。私は明確な自傷癖者なんだ。だからこうしてローブで素肌を隠すんだねぇ。……そしたら、次は…………………………………………」
いくつもラリーを繰り返した。
窓の外の景色は、夏から秋へ、秋から冬へと移り変わって何周もし、……途中からは数えていない。
何を?
と、私は思う。
何かを数えていた気がする。誰かと話していた気がする。
ここは私の家だ。でもそれはおかしい。
私は何日か前にここを発っているはずだ。そしてまだ戻ってはいないはずだ。
?
これは夢か?
私は目を見開く。
「………………………………………………………………」
視界が赤黒い。
赤黒い部屋に、私は居る。
ソファに寝転んでいる。
頭痛がする。喉が渇いた。
何か飲みたい。テーブルの上にはコップが、……あるが、倒れている。
仕方ない。ドリンクバーに取りに行こう。
私は立ち上がる。
鏡張りになっている壁の一面に目が留まる。
左右の耳を結ぶように、ナイフで切ったような傷が入っている。
これはやり過ぎだ。
興が乗り過ぎたのだろうか。自嘲の笑みがこぼれる。
リスカ痕を隠すのと同じ要領で出来るのだろうか。
私はパーティールームから出た。
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