12 辛うじて帰宅の後
テレビもない。ラジオもない。
黒白のアパートのことである。……まあ、俺の部屋にしてもそうだったから、別段珍しくもない。今の二十代とか三十代の住まいに、それらが備わっているケースの方がむしろ異端ではなかろうかと。
最強の暇潰しグッズ、スマートフォンがあるからだ。俺にはないが。
……というわけで、床に直で寝転び、熟睡できるはずもない夜を経た俺は、……玄関のすりガラスから差し込む朝の光と、郵便配達だかの走行音で目覚め、暇潰しがてら行動を開始した。
血で汚れた服とか床とかを奇麗にしたり、洗濯機に突っ込んだまま放置していたワイシャツやらズボンやらを玄関前の物干し竿にかけたりとか、……俺がするべき家事ほかタスクから順に処理していった。
なお着替えに関しては、昨晩帰ってくる途中で黒地の半袖のTシャツを購入していたので、それにしている。
下は鈍色のジーンズで、サングラスは襟元にかけている。
一段落ついたところで、タバコを吸いに(こちらもコンビニで調達した)外に出ようとすると、
「換気扇の下で吸やいいすよ。外で吸いたいなら外でもいいすけど」
黒白が項垂れつつ頭を押さえながら、寝室から出てきて言った。見るからに二日酔いである。
「……大丈夫ですか? スポドリとか冷蔵庫にありますけど」
「おお、かたじけないかたじけない。アレが有ると無いとでは全然辛さが違いますからな」
小ぶりな冷蔵庫を屈んで開ける彼を横目に、俺は換気扇を回して吸い始めた。
「……………………………………」
肺に暖かい空気が流れ込んできて、吐き出すと心地いい。
……いや、しばらく絶っていたせいだろう、落ち着くというよりは高揚してきた。……今の俺なら何でも出来るんじゃないかと思えるほどの、主人公症候群にも似たような。
黒白はヤンキー座りで、2Lペットボトルをそのまま飲んでいた。飲み干すと立ち上がり、
「これ灰皿にしたらええっすよ」
空の容器を寄越してきた。……携帯灰皿は持っていたし、そこにするつもりではあったが、「ありがとうございます」と受け取っておいた。
そして自分のシャツを引っ張り、舌打ち。「風呂入ってへんなぁ」とぼやきつつ、フラフラと寝室に戻り、何やら物色し終えて台所に来ると、……タオルとか服とか携えている。
俺を横切りがてら、
「シャワー浴びてくるんで好きにしとってくださいねー」
ガラガラ声で言い残し、のそのそと服を脱ぎ捨て風呂場に入った。
「…………………………………………………………」
つまり、服とか脱いだ後の、食べやすい状態の彼を見送ったわけだが、……別に、彼を捕食したいという気は起こらない。普通に腹は空いたが、牛丼と味噌汁とかで落ち着きたいところ。
昨晩の精神状態だけが異常だったのだ。でもなぜ?
暴食の同意をどこかで食らったのかと思ったが、そもそも極性者に極性同意は効かないはずなのだ。前提が覆らない限り、その線ではない。
……というか、理屈は一旦抜きにしておくとして、水戸角とか式長は大丈夫なのだろうか?
どちらか、もしくは両方が異常食欲になって、カニバリズムが起きていたりしないだろうな……こういう時に気軽に連絡が取れぬ。不便が過ぎるな。
「……………………ん」
そういえばだ。
黒白は、きのう水戸角と連絡先を交換していなかったかな。これからチームとして活動するために必要だからとか何とか。
「……………………………………………………」
俺はまだまだ残っているタバコをペットボトルに放り込み、寝室に向かう。案の定というか、スマホはパイプベッドの枕元に捨てられていた。拾い上げる。
無性にソワソワする。食欲云々に関してもそうだが、二日酔いが二日酔い程度で済んでいるのかも気がかりだ。……ザ・健康体の黒白ですらあのザマなのだし、水戸角も満身創痍であることは想像に易い。
俺はスマホを握り締めつつ玄関の方に向かう。……が、突如そのスマホからSNSの着信音が鳴り出して、動転のあまり落としそうになり、お手玉みたくしつつ何とか持ち堪える。
両手でつくった椀の上に、スマホが収まる。
壁紙は式長が黑セーラー姿で、どこかの小汚い街路をローラースケートで気取った風に滑走している写真だった。……それはともかく。
「みう」
と表示されている。……アイコンは紫色のチワワだった。
俺は風呂場のドアをノックする。
「ん、どうかしたんすか?」
「はい、水戸角から電話がかかってきていて、……出た方がいいですか?」
「あー、じゃあ出とってもらえますか? まだもうちょっとかかるんで」
「分かりました。では失礼します」
寝室の方に向かいつつ、着信に応じる。椅子らしきものが見当たらないので、直立したままスマホを耳に当てる。
こちらが何か話す前に、先手を切られた。
「電話一本出んのにどんだけ時間かかっとんやど。ボタン押して耳に当てるだけちゃうん?」
ひとまず水戸角は無事らしい。声に覇気があった。
「……ごめん、彼じゃなくて俺なんだよね」
「んえ? なんで午護さんが黒白のスマホつことるん?」
「今シャワー浴びてるから、俺が代わりに出てる。……昨日は大丈夫だった? ちゃんと式長さんの家で泊まれたのかな」
「あー、うん。シングルベッドでぎゅうぎゅうなりもって一泊させてもろたわ。目ぇ覚めたら玉のような美人さんが目の前でスヤスヤしとって朝から心臓バクバクでなぁ」
式長も無事らしい。……これで、とりあえずは俺の取り越し苦労だと分かった。ホッとする。
俺だけが変だったのだ。
「……そっか。無事なら何より」
「ん? なんか気がかりでもあったん?」
「いや、……まあその、あれだけ盛大に飲み明かしたわけだから、急性アル中になっていてもおかしくないよなって思って」
「あー、そらそうなぁ。その節はご迷惑おかけしました。……まあ、そやけどウチは平気やで。二日酔いあんま残らんタイプやからな。……ていうか、そっちこそ黒白は大丈夫なん? その確認もかねて電話してんけど」
「医者の世話になるほどではないかな。具合悪そうには違いなかったけど」
「そうなんや。……いや、昨日アルハラかましたこと今朝になって反省してな。謝罪とか一応しとこかなって思たんやんな。……別に、式長さんから凄まれたからとか、そういうアレでは全然あらへんのやけど。ほんまに」
朝っぱらから説教を食らったとのことだった。……まあ、自業自得だな。
「分かった。じゃあ俺の方から伝えておくよ。……後は何か話すことある?」
「あー、……ほんなら、飲み会ン時の会話の内容かいつまんで教えてくれへん? 酩酊しつつやったもんで記憶に自信がのうてさ」
早速、テープレコーダー係としての活躍を期待される俺である。お安い御用と言わんばかり昨晩のやり取りを並べ立てる。分かりやすく箇条書き形式で。
「……うん、うん。なるほど。まあ覚えとー通りかな。……超越会の代替わり、極性者の本元『壱陽家』、極性同意は遺伝的性質で、大阪市警は壱陽とグル。うん、了解了解。それで全部?」
「じゃないかな。飲み会での会話といえばそのくらい」
「そ。じゃあもう一個だけ聞いてええ?」
背後でドライヤーの音がする。あくまで軽くシャワーしただけらしい。
アレが済んだら何かしら今日の指示を出されるのだろう。通話もそろそろ切り上げ時かなと思いつつ、「うん、大丈夫だよ」と返す。
「黒白の部屋の番号って分かる? 分からんなら何階の左から何番目とかでもいんやけど」
「……………………? 一階の左から二番目だけど、……それが?」
「おっけおっけ。ほな続きの話は会ってからにしよか、もうすぐ着くから。それじゃ」
通話は一方的に切られる。セーラー服の式長のローラースケート写真が表示される。
……今から来る? まさか今日から超越会の一員として同行しますって話ではないよな? ……休職の相談とか、既に管理者と済ませているのか? どのくらいの期間を要する活動で、日中の拘束時間がどの程度なのかとか、具体的なスケジュールについての話はまだ聞かされていないのに? 見切り発車が過ぎるだろう。
いきなりに、
玄関のガラス戸がガタガタと暴れ出し、向こうからノックされる。ビックリしつつ振り向くと、「おーい」と掠れた女の声。
「…………………………………………………………」
呆気に取られていると洗面台の方から、「すんませーん、代わりに出とってもらえますかー?」と頼まれる。
俺はドライヤー中の黒白を横切りつつ玄関に向かい、ビーチサンダル(昨日のプレイの名残と思われる)を履いて、引戸錠をスライドし、……ガラス戸をガラガラと開ける。
左右で三つ編みにした茶髪を、ヘアクリップか何かでリング状に留めている。
あと、ブーツとかモノクロのチェック柄ハーフパンツとか、下半身に関しては昨日のままで、ただしタイトのロングシャツだったのがダボッとした長袖になっている。この時間帯から服屋など開いているわけもなかろうので、式長から借りるなり譲り受けたなりしただろう服。
緊急カバンとして紙袋を提げており、「うみちゃんでーす」目を細めて笑む。片手をヒラヒラとはためかせつつ。
「あれ、もう来たん?」
黒白がドライヤーを止めて、上体だけ見せつつ尋ねる。
「そらもちろん、昨晩のお礼参りするためですわ。……無理させてもうてすんまへんでした。反省します」
両手を後ろに回して頭を下げる。切り替えが早い。
「あーよかよか。あら俺の自業自得や、ミトちゃんは何も悪ないよ。気にせんでええから」
ドライヤーを片付けつつ返事する。もういいのだろうか。
そして昨日のようなチンピラ仕立ての格好で現れ、
「ちょっと頼み事してええすか?」
毛量の多い側頭部をモジャモジャと掻き混ぜつつ、二日酔いの人間に特有のしかめっ面で。
「出来ることであれば」
「うん。とりあえず外出用の靴に履き替えてもろて、そしたら玄関出て左のとこにあるパイプスペース開けてから探し物してほしいんすわ。ちゃんと要望通りにいってれば鍵みたいなのが落ちとるはずなんすよね」
「鍵? 何の鍵ですか?」
「さあ? ハマるかどうかは鍵次第じゃないっすかね」
黒白は大欠伸し、「ほな頼んだんでねー」と部屋の奥に行ってしまった。
俺はとりあえず革靴に履き替え(ミスマッチは承知の上で)、水戸角の横を通りつつ出る。「午護さんタバコ吸うの?」「幻滅した?」「いや? アルコールやる人間がタバコのこと悪う言えんやろしね」「俺もそう思う」
玄関を出て左のパイプスペース。縦長の黄色い扉、木目調。
開けてみると、第一に埃っぽい空気がムワッと漂ってきて、思わず顔をしかめてしまう。……中は薄暗く、配管とかタンクとか、弁とかハンドルとか詰め込まれている。
鍵は、俺のすぐ足元に落ちていた。
黒色のスマートキー。……まあスマートキーなんて、大体の場合が黒だ。要らない注釈だな。
しゃがんで拾い上げる。……というか、なぜ車の鍵がこんなところに? 家の中に仕舞っておけばいいものを………………………………………………………………。
「その鍵がどうかしたん? 車の鍵よね」
水戸角が隣にしゃがみ込んで、覗いてくる。
「……見覚えがあるんだよ。……なんであの車の鍵がここに?」
「お、あったんすね。これであの軽トラともおさばらですわ」
黒白が出てくる。ガラス戸を閉じて施錠し、開かないこと確認してから「ヨシ」と指差呼称する。
「……三人以上で行動することになったから、別の車に替えてくれって超越会に頼んだ?」
立ち上がりつつ尋ねる。鍵を手渡す。
「昨日、午護さんが風呂入っとる間にね。……出来るだけ乗り心地ええのにしてくれんかって頼んだら、こない素敵カーをくれるとは」
スマートキーを見せびらかすようにし、宙に投げてキャッチすると、「こっちっすね」と玄関を出て右の方に歩きだす。生活道路の隅に寄せて路駐してある車に、スマートキーを向ける。ガチャッと解錠され、電子音がピーピー鳴り、ライトが点滅する。
「どう? ええ感じでしょ。あの軽トラとは比べもんになりませんわ」
コツコツとフロントガラスをノックする黒白。水戸角も俺を追い抜き、まじまじと観察して、
「へー、なんかタクシーみたいやな。シートカバーまで張っとーやん」
と感想する。
「……………………………………………………………………」
いや、俺は何を尻込みしているのだ。
顔面にジワジワと傷をつけられた時の、恐怖も痛みも寒気がしたのも、……俺にとっては、何度でもフラッシュバックしたい出来事なのだ。……張り裂けそうなほどに苦しい俺の罪悪感が、懲罰を受けることでいくらか安らいでいくあの感覚を、俺は繰り返し味わいたくてたまらないはずなのだ。……あの車の、あの助手席に座って、何度でもあの時のことを想起したくて仕方ないはずなのだ。
「? 午護さんどうかしたんすか? そない固まって。……あ、このランプ気になります? アレやったら外してもいいっすよ。簡単に取れるらしいんで。ほら取れた」
青文字で分かりやすく、「嘘」と書かれた社名表示灯。白い丸型。
黒塗りのクラウンセダン、俺を大阪まで運んできた車。
「……運転、俺がしますよ。まだ酒も抜けきってないと思うので」
「ん、そうすか? じゃあお言葉に甘えて」
鍵を渡される。「乗り心地はどんなもんかなぁ」と助手席に乗り込もうとする黒白を水戸角が制し、「ちょっと、ウチが助手席乗りたいんやけど」「えー、計画の話とかもせなあかんし、俺が助手席の方がよくない?」とかわちゃわちゃしている。
「……………………………………」
スマートキーを見つめる。
……運送業に従事していた者としての合理的な判断だ。運転は俺がするべきである。
俺は溜め息し、運転席に乗り込んだ。
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