表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
98/101

伊達藤次郎政宗、征夷大将軍になる

 西国勢の大坂城攻めと関ヶ原の戦いの結果、イスパニアを中心として結束していたはずの西国勢は崩壊した。毛利は領国に戻って沙汰を待つばかりとなったし、九州の北半分を制圧して盛んに熊本城を攻め立てていた黒田孝高、長政父子は急いで兵を撤収すると『全ては孝高の企みであり長政は無理やり従わせられていただけ』と弁明し、孝高は出家して寺に幽閉される形となった。


 西軍の終焉を見届けた伊達政宗は天下三巨頭が支配していた京都三城の内、どうにか破壊されずに残っていた二条城に入って今後について各将と話し合いを始めたのであった。


 その結果、西國で巨大な勢力を誇った毛利氏は解体された。


「本領を安堵する、と言ったではありませんか!」


 と激しく吉川広家は抗議したが、それに対して取次を努めた鮭延秀綱は


「ですから毛利の本領たる安芸吉田荘3000石は保証いたします。」


 とにべもなく切り捨てた。


「いくらなんでも酷い…」


 と項垂れる吉川広家に


「ですが貴殿には無駄な戦乱を避けた戦功として…」

「せめて周防、長門2カ国をくださるか!!」


 と喜ぶ広家に。


「いえ、それは虫が良すぎるというもの。岩国3万石を下さります。」

「たったそれだけ…」

「もちろん父祖の地として安芸吉田3千石は付きますよ。」

「せめてもう一声。」

「それ以上は無理ですな。よろしければもう一戦いたしましょうか。」


 『そのような仕打ちには耐えられぬ、戦をいたしますぞ』と言おうとしていた広家は先手を取られて黙り込んだ。結局多少の加増はあったものの、毛利家は長門、安芸の内5万石程度しか与えられなかった。


 また黒田家に対する処分も甘いものではなかった。孝高の死罪を減じる変わりに、と筑前・豊前は召し上げられ、こちらも豊前城井谷5万3千石、とされたのである。


「よりによって城井谷とは!」


 と黒田長政は抗議した。城井谷は黒田氏が豊前の領主となった際に在地の宇都宮氏の所領であり、その宇都宮氏と折り合いの悪かった長政は一族皆殺しにした地なのである。当然領民の黒田氏に対する印象は最悪であった。


 しかし改易や死罪よりは、と結局は受け入れ、黒田氏は統治に難渋して行くことになったのであった。


 毛利と黒田の大幅減封の一方でそれらに抵抗した諸将には加増や安堵がなされた。肥前名護屋の小早川秀秋が畿内の丹波と北近江に転封したため肥前の龍造寺(実質鍋島)は肥前に加えて筑前の一部を加えられ40万石あまりとなった。筑後柳川の立花宗茂は特に功績が大きく、筑後一国を与えられこれも40万石を超えた。熊本城主の加藤清正も肥後一国(安堵された相良領は除く)50万石あまりとなった。島津も本領は安堵されたが、その結果は若干微妙なところとなった。朝鮮の役が長引かなかったため義弘の嫡男久保は生き残り(史実だと病死)、当主島津義久の後を久保が継いだのである。それとともに史実だと久保の後をついで島津家当主となった忠恒(悪家久)は『義弘の家督を継ぐ』という名目で大隅を分離して与えられ、また秀吉の九州征伐がなかったためにこちらも死亡しなかった家久(良い方)に日向佐土原領が与えられ、島津は領土としては増やされたのだが分裂する結果となった。


 これらにより西国には100万石を超える大大名は消滅してしまったのであった。


 大大名の解体は徳川氏にも及んだ。もちろん勝者の側であるから加増はされたのだが、徳川家の家臣ではなく、徳川家から独立した大名という形になり、またそれを固辞することは許されなかったのである。


 当主である秀忠は尾張・三河80万石を保持し、全国の大名のうちでも直轄領では最大級であることを保ったが、例えば本多忠勝は桑名15万石、井伊直政は遠江の本領に戻って10万石、榊原康政は浜松、といった様に一応形態としては保たれていたがあくまでも独立大名として遇される事になった。しかし甲斐を徳川領として与えられ、駿河の家康領もそのままとされるなど、全体としては徳川家の勢力は依然として大きかった。


 徳川家の分割によって全国で100万石を超える大名は存在しない状況となった。伊達家以外で最大の大名は会津の蘆名94万石であり、それに継ぐのが徳川と同じく80万石前後の上杉と佐竹となった(佐竹は寄騎も含む)この事によって伊達は奥州の本領150万石、関東領約100万石で他家から格別した状態となったのである。


 それから2年ほどし、各家の転封などが一段落ついた正月、仙台城の大広間で


「俺は征夷大将軍になる。」


 と政宗は配下に告げた。


「上様はすでに鎮守府大将軍であり、幕府を開いております。しかし征夷大将軍になられるとは?」


 と宿老筆頭の片倉景綱が尋ねた。


「うむ。確かに俺は鎮守府大将軍に任じられている。しかしこの武家の世の中、どうにも『鎮守府将軍』では皆が従ってくれるには弱いのだ。」

「はぁ。ですが、鎮守府将軍が征夷大将軍に転任した例は。」

「あるではないか。足利尊氏公が。」


 あ、という声が諸将から漏れた。鎌倉幕府を倒した後醍醐天皇による建武の新政下において、当初大塔宮護良親王が征夷大将軍に任ぜられ、足利尊氏は鎮守府将軍に補任されたのである。そして尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻した後、自らが征夷大将軍に就いて室町幕府を開いたのであった。ちなみに鎮守府大将軍はその尊氏に対抗した南朝の名将、北畠顕家がその祖である。


「しかし上様は伊達氏、源氏ではありませんが。」


 と宿老の白石宗実が疑問を呈する。


「そこも問題はないのだ。先に挙げた尊氏公が滅ぼした執権北条氏の時代、皇族や摂関家出身の方が征夷大将軍に就かれていたではないか。俺は藤原秀郷の後裔である藤原氏であり、また皇室に血もつながっている。どこに問題があろうか。」


 少しというか明らかに強引な気はしたが、一応筋が通ってはいる、ということになり、伊達家から以前よりは減弱したとはいえ天下に勢力を誇る他の巨頭、太閤豊臣秀吉と徳川家にも伺いの使者が向かうことになった。


「わしは構わんよ。金吾が関白になり、豊臣家が摂関家と同等というのを世に知らしめたからな。金吾の後に秀頼が就ければなお言うことはない。」


 と戦前の交渉通り小早川秀秋が豊臣秀俊に復姓し、関白の座に付いた事もあって秀吉の機嫌は悪くなかった。大坂城も聚楽第も焼けてしまったため、秀吉は側室の淀の方のために建てた淀城に転がり込んで暮らしている。


 そして徳川家も関ケ原で主戦を務めたのが伊達率いる軍勢だったこともあり、伊達政宗の征夷大将軍就任に異議を唱えることはなかったのであった。


 こうして伊達政宗は鎮守府大将軍から征夷大将軍へ転任したのであった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[気になる点] 四国ってどうなったんですか?
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ