大坂冬の陣 その3
「宇喜多中納言秀家、小豆島から泳いで参った!」
と言って川岸から上がってきた男は確かに備前岡山の太守、宇喜多秀家その人であった。
「秀家殿、その格好はいかがなさった。」
豊臣秀吉に付き従っていた大谷吉継が尋ねる。
「それがな、家老の明石全登が『神の国を実現するためにイスパニアと組んで伊達、豊臣、徳川を駆逐する』などと言い始めてな。」
「なんと。」
「俺はそれに反対したのだ。俺は秀吉様の猶子。秀吉様は第二の父と思っておる、とな。」
「そりゃそうでしょう。」
「それが明石は『豊臣秀吉はキリスト教を忌み嫌い、日本から追放しようとした悪魔の手先、南蛮との交流に積極的な伊達や呂宋との貿易に熱心な徳川よりも邪悪だから真っ先に討ち取らねばならぬ。』と言い始めたのだ。俺に言わせれば単に本拠が一番西寄りだから順番に攻めたいだけであろうが。」
「ひどい言い分ですな、」
「全くだ。だから俺はそんな案には乗れぬ、将軍伊達政宗様が言う通り、貿易は貿易、信教は信教として、キリスト教の布教を我が領内では自由に許すからそれで良いではないか、太閤殿下にも無理な排斥はしないようにお願いする、といったのだ。」
「それはまったくもって懸命な案ですな。」
と感心する本多正純。
「しかしわしはそれで納得はせんけどな。」
と口を挟む豊臣秀吉。
「殿下は話の腰を折らないでください。」
と吉継に言われちょっとしゅんとする秀吉。
「そのような最もな案を聞いて明石はいかがされた。」
「いや全く聞く耳を持たなかった。キリスト教を信じぬ野蛮の民族は教化する、従わぬものはインヘルノへ送る、と。俺は明石に『これまでの功績を鑑みてお前を処刑する、とは言わぬ。そんな荒唐無稽な考えにとらわれないでしばらく謹慎して頭を冷やしてはどうか。』といったのだ。」
「これまたなんと素晴らしい裁断。」
とまた本多正純が感心する。
「しかし明石は『そのような悠長なことを言っていては神の国は実現せぬ。それを理解できない殿は宇喜多家の主にふさわしくない。』などと言い始めてな、一族の宇喜多詮家を担ぎ上げて俺を小豆島に幽閉したのだ。」
「わしは殿の救助を試みましたが成し遂げられず、急ぎ大坂に事態を知らせるべく脱出してきたのです」
と申し訳無さそうに本多政重が言う。
「いや政重、お前が撹乱してくれたおかげで俺は小豆島を抜け出せたのだ。しかし船を使うと見つかってしまうのでな、自慢の泳力で島から島へと泳いで渡り、ついにたどり着いたのだ。」
「殿の偉業は我が国の遠泳の歴史に燦然と輝きましょう。」
「うはは。秀家よ、災難であったな。」
と声をかけたのは秀吉である。
「ゆっくり体を休め、これからの戦いに備えてくれ。」
「はっ!」
こうして宇喜多秀家は無事に大坂入城を果たしたのである。
そうこうしているうちにもイスパニア・西国大名連合軍は大阪に向かって進軍していた。そのイスパニア軍を率いているのはエルナン・ルチフェーロという男であったが、彼は口八丁手八丁で『黄金の国ジパングをイスパニア王に捧げる』と丸め込みローマ法王に対しても『キリスト教を迫害する邪悪な領主を成敗する』といわば十字軍のような形で裁可を得た。そして本国のみならずゴアやルソンから船や兵を割かせて日本に押し寄せてきたのである。
その一方でキリスト教の日本布教区の長は日本人に融和的なヴァリリャーノ司祭であり、それをオルガンティノ司祭が支えていた。二人はフランシスコ・ザビエル同様日本人の能力を高く買っており、教条主義的と言うよりは日本の文化に対して親和的に接することで信者を順調に増やしていた。彼らに対して先の準管区長カブラルはその後継のコエリョとともに有色人種を見下しており、『猿』と言い放って人間扱いすらしなかった。この時期(作中では1597年になる)史実ではコエリョはすでに世を去っているが、歴史の流れのいたずらか、まだ存命であった。そしてゴアで意気投合したルチフェーロとカブラルは意気揚々と大軍を率いて来航した。
九州に上陸したルチフェーロとカブラルはコエリョと合流すると、軍事行動にでた彼らを諌めに(もしくはなだめに)来たヴァリリャーノとオルガンティノを長崎に幽閉してしまい、カブラルが日本教区を差配する、と宣言したのである。
こうしてイスパニア勢は西国大名を従え、『悪魔』豊臣秀吉を討つべく大坂城に進軍を始めた。ここで西国勢に誤算が生じた。九州に下向した足利尊氏の如く西国を平らげて圧倒的な兵力で畿内に向かうつもりであったのが、加藤・立花・鍋島・島津などの大大名が味方しなかったのである。そのため九州勢の中核と期待されていた黒田家・大友家の戦力は熊本城に立て籠もった反キリスト勢の攻略から離れられなくなった。裏をかいて日向から島津を突こうとした大友は…毎度のことながら壊滅的な損害を受けた。そのため九州からは毛利の係累、ということで担ぎ出された小早川秀秋の軍勢だけが畿内へ向かったのである。
毛利一族や当主秀家を幽閉した宇喜多家を味方としたものの、四国の長曾我部を落とすこともできず(一門の盛親は調略に成功し寝返ったが)大坂攻めの兵力には一抹の不安が残った。
ルチフェーロは丹後の細川ガラシアの話を聞くと急ぎ艦隊の一部を率いて舞鶴から上陸し、細川家を掌握するとともに熱心なキリスト教徒の高山右近が家宰となり掌握した前田家と合流すると京に向かって進軍したのである。ガラシアの夫、細川忠興はイスパニア勢の脅迫と妻の硬い意志もあって出陣には同意した。その一方で忠興の父藤孝は『論外』と言い放ち、田辺城に籠城した。
忠興はやむなく出陣には同意し、ガラシア率いる北国勢に付き従ってはいたものの、その顔はむしろ憤怒に満ちていた。
「あのように皆に見られるところに玉がいるのは我慢がならぬ。」
そう、忠興は玉を深く愛するがゆえに何人にもその姿を見せなかったのである。玉の姿を見た庭師をその場で斬殺するなど、その行動は徹底していた(史実)
しかし今、ガラシアは北国勢の象徴となり、西洋のフルプレートを身にまとって(頭部は外している)白馬にまたがり、軍勢の戦闘を進んでいるのである。このような衆人環視に玉がおかれる、というのは忠興にとっては我慢がならないことであった。
人々がガラシアの美しさを称賛し、盛んに気勢を上げ、ガラシアがそれに手を降って返すと更に人々が褒め称える様子を見て、忠興は思った。
「今はイスパニア勢に逆らえぬから我慢いたす。しかしこの件が片付いたら玉の姿を見たやつは鏖だ。」
また週明けお願いします!




